「あの人が英語圏にいたらライターとして世界的な評価を受けていただろう」
スポーツライターの賀川浩さんをこう称えたのは、1970年代に大阪の枚方で独創的な指導を実践して大きな業績を残した故・近江達さんだ。
ことしブラジルで開催されたワールドカップで「最年長ジャーナリスト」として大きな話題となった賀川さん。次つぎと押しかける世界中の記者たちにも、疲れた顔も見せず応じる姿に心を打たれた。
神戸一中、神戸経済大、大阪クラブで高い技術をもったサッカー選手として活躍、召集を受けた後、戦後復員し、スポーツ紙の記者となった。
元選手として、技術を見る目の確かさと独自さが賀川さんの真骨頂だ。賀川さんのひと言のアドバイスで技術面の蒙を啓かれた有名選手も少なくない。そして同時に、サッカー選手たちの人間性を試合のなかに見いだす目も、他の追随を許さないものだった。
夢に見たワールドカップをようやく取材できた1974年、その旅を振り返る旅行記の連載が『サッカーマガジン』で始まった。その第1回が「ベルティ・フォクツはいい男」だった。フォクツとは、西ドイツ代表のDFである。
決勝進出をかけた西ドイツ対ポーランド。激しい戦いに決着をつけたのはミュラーの1点。だが賀川さんはヒーローに目を奪われなかった。賀川さんの双眼鏡がとらえたのは、アシストしたボンホフの疲れ切った表情だった。
「それを見たのがフォクツだった。ハーフライン近くにいた彼は、みながミュラーの方へ走るときに、いっしょにかけ出そうとした。だが、フォクツは倒れそうな足どりのボンホフをほっておけなかった。ミュラーの方へふみ出した足をかえて、彼はボンホフにかけより、肩を抱いてやった」
「ミュラーと喜びあう一群にヒーローの感激を、そして、ボンホフと抱きあうフォクツに縁の下の男の感動を、胸に痛いほど感じながら、わたしは、ひとりつぶやいたのだった。『フォクツ、キミはいい男だ』」
1924年12月29日生まれ、賀川さんは来週月曜日に90歳の誕生日を迎える。そして年が明けるとチューリヒに飛び、1月12日、国際サッカー連盟(FIFA)の「バロンドール(年間最優秀選手賞)表彰式」で、ブラッター会長から「会長賞」を受賞する。
賀川さんの業績を顕彰するこれ以上の賞はない。そして日本語を解さないサッカーファンが、この表彰をきっかけに魂にあふれた賀川さんの記事に触れる機会ができれば、世界のサッカーはもっと豊かになるはずだ。
1990年:ワールドカップ・イタリア大会 パレルモ
1992年:EURO92(スウェーデン)エーテボリ
高橋英辰さんと賀川さん
1994年:ワールドカップ・アメリカ大会 ボストン
中央は中条一雄さん(朝日新聞)
1995年:アンブロカップ(イングランド)
移動の車中で
2006年:ワールドカップ・ドイツ大会 フランクフルト
左は親友であり英国の大記者ブライアン・グランビル
2014年:ワールドカップ・ブラジル大会 ナタル
(2014年12月24日)
都心で早くも雪が降った。この冬は寒さが厳しそうだ。
どんな天候でも試合をするのがサッカーという競技のはずだが、雪には弱い。12月7日には、大雪で新潟県内の交通機関が大きく乱れたため、Jリーグの新潟×柏が2日後に延期になって茨城県の鹿嶋市で開催された。
ドイツのブンデスリーガは毎年雪に悩まされる。だから各スタジアムにはピッチ下のヒーター設置が義務付けられているという。
雪など見たこともない国からくる選手は大変だ。ブンデスリーガにきた最初のブラジル人は、1964年はじめにケルンと契約したゼゼという選手だった。だがわずか数試合でブラジルに戻ってしまった。ずっと体調が優れなかった。医師の診断は「雪アレルギー」だった。
ワールドカップ予選が雪に影響された例も少なくない。2014年ブラジル大会の欧州予選、北アイルランドとロシアの試合は、2013年2月22日に予定されていたが降雪で翌日に延期され、ピッチコンディションが悪いためさらに2日後に、そして4日後にと延期された。しかし試合を行える状態にならず、結局8月にようやく実現した。
だが日本のファンの多くが雪で思い起こすのは、1987年のトヨタカップではないか。12月13日、FCポルト(ポルトガル)対ペニャロール(ウルグアイ)の対戦は大雪のなかの試合。普通なら延期にするところだが、両チームとも帰国後の試合の予定があり、決行せざるをえなかったのだ。
雪だけならよかった。この冬の東京は天候が悪く、試合前の1週間、都内ではまったく太陽が顔を見せなかった。当時の国立競技場の芝は冬には枯れており、雨と前週の雪中のラグビー早明戦の影響で、試合前日には泥の上に枯れた芝生のかけらが乗っているという状態だったのだ。
試合当日の朝、雨が強くなった。9時過ぎにはみぞれとなった。そしてまもなく雪に変わった。ピッチはたちまち真っ白になり、正午のキックオフを迎えるころには5センチ近く積もっていた。真っ白な雪の下は田んぼだった。選手が走ると真っ黒な泥が現れ、そこをまた白い雪が覆った。
壮絶な試合になり、最後はポルトのアルジェリア人FWマジェール(半袖でプレーしていた!)が前進していたGKの頭上をふわりと抜いた。ボールはゴール手前の雪の上にポトンと落ち、止まるかと思われたが、なぜかコロコロとゴールに転がり込んだ。
Jリーグも天皇杯も終わったが、大学や高校など重要な大会が残っている日本のサッカー。本格的な雪には、もう少し待ってほしいところだ。
(2014年12月17日)
どうもしっくりこない。今週の土曜日(12月13日)が、天皇杯決勝戦だということだ。
日本サッカー協会が誕生した1921(大正10)年に始まり、今年度で第94回となった「全日本選手権」。1947(昭和22)年に当時13歳の皇太子(現天皇)を伴われた昭和天皇が東西対抗に来場されたことをきっかけに「天皇杯」が下賜され、1951(昭和26)年度の第31回大会以来優勝チームに授与されるようになった。
各地を転々としていた決勝戦が国立競技場に定着したのは1967(昭和42)年度。そして翌1968(昭和43)年度の第48回大会から元日となった。「元日と言えば天皇杯サッカー」というイメージは、Jリーグが始まるずっと以前から、サッカーにあまり興味のない人の間でも常識になっていた。いわば正月の風物詩だった。
私自身、1970(昭和45)年度の第50回大会以来、実に44回もの元日を国立競技場で過ごしてきた。2020年の東京五輪のために建て替えられる国立競技場が使えないのは、大げさに言えば覚悟ができていたが、決勝戦が元日でないのは、目前に迫ってもまったく実感がわかないのだ。
「元日決勝」が生まれる前年、1967(昭和42)年度の第47回大会の決勝戦は1969年1月14日だった。だが実は元日に国立競技場で「NHK杯元日サッカー」という試合が行われていた。当時の正月のテレビはほとんどが録画番組。そこでNHKはスポーツの生中継番組を企画したのだ。
対戦は日本リーグ優勝の東洋(現在の広島)と大学選手権優勝の関西大学。東洋が1-0で勝った。「元日のスポーツ生中継」の評判は悪くなく、翌年は天皇杯の決勝戦を元日に行うことがすんなり決まった。サッカーの「NHK杯」は1回だけで終わった。
快晴の1969年元日、メキシコ五輪銅メダルの余韻のなか、釜本邦茂を擁するヤンマー(現在のC大阪)と杉山隆一が牽引する三菱(同浦和)が決勝で対戦した。明治神宮にも近い国立競技場。初詣帰りのファンも多く、3万5000人もの観客が押しかけた。そして釜本の1点でヤンマーが1-0。初優勝を飾った。
以来「サッカー界の新年賀詞交換会」でもあった元日の天皇杯決勝。来年1月のアジアカップに備えて今回だけの措置とはいえ、12月13日の決勝戦はまだピンとこない。
しかし日本サッカーのシーズン最後を飾る試合であることに変わりはない。ナビスコ杯、Jリーグに次ぎ「3冠」を狙うガンバ大阪。そして劇的な勝利を重ねて「奇跡のJ1昇格」を成し遂げたモンテディオ山形。横浜の日産スタジアムを舞台に、熱い戦いになるのは必至だ。
(2014年12月10日)
FKをつかみそこないゴールを許してしまったGKが、グローブを見て主審に文句を言うという笑い話が英国の新聞に出ていた。ボールの位置を示すための「バニシング・スプレー」がボールに付き、それで滑ったというのだ。
ワールドカップではことしのブラジル大会で初めて使われ、主催の国際サッカー連盟(FIFA)が「大きな効果があった」と評価したスプレーは、いまや世界の「定番」になりつつある。中南米では5年ほど前から使われていたが、ワールドカップを契機に欧州の主要リーグやアジアの各国で使用が始まった。急激な需要の増加に生産が追い付かない状態だという。
ピッチ上に観客席からも見える白い線を描き、FKのポイントや守備側が離れなければならない距離(9.15メートル)を明確にするスプレー。成分の80%は水で、描いてから1分間ほどで見えなくなるところがミソだ。
日本でも11月8日に埼玉スタジアムで行われたJリーグのナビスコ杯決勝戦(G大阪×広島)で初めて使用され、ワールドカップの開幕戦で歴史的な「スプレー初使用者」となった西村雄一主審が慣れた手つきを見せた。
「ワールドカップでも、FK時の異議はほとんどなかった。1本1500円程度で、1試合で2本用意するとしても、効果を考えればコストパフォーマンスは申し分ないはず」と西村主審は話す。
人体への影響と温室ガスの多さなどが指摘されたドイツでは導入が遅れたが、10月には使用が始まった。サッカーの面でスプレーの効果に疑問をはさむ声はほとんどないと言ってよい。Jリーグも来季からの正式導入を検討しているという。
スプレー使用でFKのときの醜いごたごたがなくなるのは間違いない。しかし私は手放しでは歓迎できない。
「すべての相手競技者は、9.15m(10ヤード)以上ボールから離れなければならない」と、ルール第13条に明確に書かれている。
しかし実際には、守備側はひとりがまずボールの近くに立って相手の素早いキックを妨害し、他の選手は7メートル程度のところに「壁」をつくる。主審は、それを下げるという作業をしなければならない。その間に、攻撃側はボールを動かして有利な角度にしようと工作する。すべてルールとその精神に反した行為だ。
スプレーはサッカー選手たちがルールに従わないことを前提に使用される。サッカーの「恥」と言っていい。スプレーで満足せず、それを必要としないサッカーであろうとする努力が急務ではないか。
(2014年12月3日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。