テレビのニュースで「○○紙によれば...」という形式の報道によく出合う。独自取材が不可能な状況、あるいは詳細報道より第一報が重要だと判断したときにこうした形式があるのは理解できる。
だが6月20日(土)の朝刊各紙に載った「長沼健・元日本サッカー協会会長が2000年に南米サッカー連盟に150万ドル送金か」にはあきれた。
「FIFAの金権汚職体質が日本にも...」と思った読者も多いだろう。だが実際にはいい加減な記事だった。
日本の報道の直接の出どころは日本最大の通信社である「共同通信社」のロンドン支局が日本時間で19日22時31分に配信した記事。「スペインのスポーツ紙アス(電子版)が19日付で報じた」とある。だが「AS」自体も、独自取材による記事ではなかった。パラグアイの日刊紙「ABCコロール」の記事を情報源にしたものだった。
すなわち共同通信の報道は「孫引き」どころか「曾孫引き」だった。軽い話題ならともかく、故人であり、日本サッカーを世界に導いた功労者のひとりである長沼氏の名誉を不必要に傷つけかねない話題を、英語版を含めこうも手軽に記事にして世界に配信することの責任を、共同通信はどう感じているのだろうか。そして「共同の記事だから」と無批判で掲載する日本の新聞はどうなっているのか。
ちなみに『東京新聞』も20日付け朝刊社会面にこの共同の記事を掲載している。『朝日新聞』はサンパウロ支局発となっているが、内容は共同のものと驚くほど似ている。
結論から言えば、「AS」の記事は現場から遠く離れたところでの無責任な憶測に過ぎず、論評の価値すらない。「ABCコロール」では送金理由を「南米選手権(コパアメリカ)1999年パラグアイ大会に招待してくれたことに対する謝礼」としているのだが、「AS」はそれを勝手に「2002年ワールドカップ招致の謝礼」と置き換え、情報元には出てこない長沼氏の名前まで出して「当時の日本協会会長」としている。2000年当時の会長は岡野俊一郎氏である。
「ABCコロールが言う『送金理由』も、まったく理にかなっていない」と話すのは、日本サッカー協会の海外委員のひとりでブエノスアイレス在住の北山朝徳さんだ。
「事実は正反対。日本協会は、逆に南米サッカー連盟から大会出場料を受け取っている。さらに日本だけは『遠いところから来てもらうので』と、ビジネスクラスの航空券まで用意してくれた」
右から流れてきた情報を左に流すだけなら報道機関とは言えない。正しい情報か、すぐに流すべき情報か、それとも一歩待ってできうる限りの確認をするべきものか、報道機関の見識が問われている。
「AS」の記事(左)と「ABCコロール」の記事(右)
(2015年6月24日)
<おことわり>
この記事は東京新聞編集局で問題になり、「掲載見送り」の可能性もありましたが、「共同通信」などのメディア名を出さないこと、表現を少し柔らかくすることの提案があり、大住はそれを了解しました。2015年6月24日付け東京新聞夕刊に掲載された記事は下のとおりです。
日本代表がイラクに4-0で快勝した先週木曜日、アジアの各地ではワールドカップ・アジア第2次予選の第1節15試合が行われた。そのなかで最も驚いたのは、H組でフィリピンがバーレーンに2-1で勝ったことだった。
フィリピンというと1967年9月に行われたメキシコ五輪予選の15-0が思い浮かぶ。日本を五輪銅メダルに導いたのはこの大量点だった。
フィリピンではバスケットボールの人気が高く、サッカーはマイナー競技のひとつに過ぎなかった。だが2009年にセミプロの「ユナイテッドリーグ」がスタート、育成に力を入れるようになる。近年はフィリピンにルーツをもつ選手のリクルートも進み、現在のFIFAランキングは137位。アジアで中位に位置するまでになった。
それにしてもバーレーンがフィリピンに敗れるとは...。2006年と2010年のワールドカップ予選では大陸間のプレーオフに進出、ワールドカップ出場にあと一歩まで迫った中東の強豪である。
6月11日の試合はフィリピンのホーム。前半はバーレーンが主導権を握る。フィリピンはよく戦い、無失点で耐えたが、攻撃は大きくけるだけでなかなか形にならない。
しかし後半、試合は大きく変わる。フィリピンが自信をもってパスをつなぎ、攻め込むようになったのだ。そして後半5分、左からMFヤングハズバンドがクロス、FWバハドランが決めて先制する。そして9分後にはMFオットのFKからFWパティノが決めて差を広げる。終盤に1点を返されたが、アメリカ人のドゥーリー監督が「全員がヒーローだ」と語ったとおり、会心の勝利だった。
攻撃をリードしたのはイングランド生まれでフィリピン人の母をもつMFヤングハズバンド。チェルシーの2軍でプレーした後、23歳でフィリピンに渡った。本来はFWだが、ドゥーリー監督はこの試合でいきなり彼を3-4-3システムのボランチに置き、ゲームメーカー役を任せた。
守備では日本人の父をもつ佐藤大介が大活躍した。ダバオで生まれ、戸田市の少年団でサッカーを始めて中学1年から6年間を浦和レッズのアカデミーで過ごした。そして仙台大学を1年で中退して昨年3月にフィリピンの強豪グローバルに加入、すぐに代表に選ばれた。まだ20歳ながらこの試合では3バックの左でスタート、スピードと正確なパスを見せ、2点をリードした後には4バックの左サイドバックとしてプレーした。
フィリピンの試合ぶりを見るだけも、アジアのサッカーの急激な変化と成長がよくわかる。「アジア第2次予選」は油断を許さない戦いだ。
(2015年6月17日)
「サッカーボールを描いてみてください」
そう求められたら、いまでも多くの人が「白黒ボール」を描くのではないか―。
黒い正五角形12枚と白い正六角形20枚、計32枚のパネルを組み合わせることでつくられたサッカーボール。実際に使われた期間はそう長くはないのだが、日本に限らず世界中でいまもサッカーボールというとまずこのデザインが出てくるのは不思議だ。
1963年に西ドイツで考案された。当時までサッカーボールは12枚か18枚貼りで皮革のままの茶色か白だった。
元日本サッカー協会会長の岡野俊一郎さんによればスポーツボールに初めて32枚パネルを使ったのは水球だった。つかみやすくするための工夫だったという。32枚パネルは紀元前3世紀の数学者アルキメデス考案の種類の「半正多面体」の1つ「切頂二十面体(正二十面体の12の頂点を切り落としたもの)」だ。
サッカーボールを白黒にしたのは「夜間の試合でも見やすいもの」という意図だったとどこかで読んだ記憶があるのだが、「当時白黒放送だったテレビで見やすくした」というのが現在の通説だ。
誕生したばかりのブンデスリーガで使用され、ワールドカップでは70年と74年の両大会で使われた。32枚パネルはその後もずっとサッカーボールの主流だが、デザインはたびたび変わった。ワールドカップでの白黒ボールの寿命はわずか2大会だった。
1963年、生まれたばかりの白黒ボールを日本人も目にした。ドイツ遠征中に日本代表が使い、10月に来日した西ドイツのアマ代表も数個の白黒ボールを持参した。
2年後、日本サッカーリーグ(JSL)の初年度スタートに先立ち、常任運営委員のひとり西本八寿雄(古河電工=当時30歳)が採用を提案。日本サッカー協会の猛反対に屈せず使用を断行した。ドイツ製を手本にミカサが製作、後期開幕に間に合わせた。
その日、1965年9月12日、横浜の三ツ沢球技場での「古河電工×豊田織機」では、美しい緑の芝に白黒のボールが映え、スピーディーに動いた。年末の大学や高校の全国大会でも使われ、白黒ボールはたちまち日本中に広まった。
日本においてサッカーという競技が「アイデンティティー」のようなものを確立するのに、白黒ボール以上の役割を果たしたものはない。Jリーグ時代になってからはいちども使われたことがない。それでも、いまも多くの人が「サッカーボールといえば白と黒」と思っている。
きのう都内で、JSL発足50年を祝うパーティーが開かれた。「JSL50年」は「白黒ボール50年」でもある。
1986年 ドイツにて
(2016年6月9日)
「前門の虎、後門の狼」という言葉がある。「一難去ってまた一難」ということをたとえるときに引かれる中国の故事だが、いま国際サッカー連盟(FIFA)、なかでもブラッター会長への世界の風当たりを見ていると、なぜかこの言葉が思い浮かぶ。
私はブラッター会長がクリーンとは思っていない。会長に初当選した1998年のFIFA総会での選挙自体が、大きな疑惑に包まれていた。
最大の疑惑は2018年と2022年ワールドカップ開催国決定にまつわるものだ。ロシアはともかく、首都ドーハ以外に都市のないカタールで、最高気温が40~50度になる6月にどうワールドカップを開催するのか、FIFA理事会の正気さえ疑った。
ブラッターは、1974年から98年まで24年間会長を務めたアベランジェの下で長年事務総長を務め、後継者として98年からその地位にある。すなわちFIFAでは「アベランジェ・ブラッター体制」が41年間も続いていることになる。そしてこの期間にFIFAはワールドカップのスポンサーや放映権などで巨額の資金力をもつ団体となった。
だがこの間にFIFAをはるかに超える財政規模をもつようになった団体がある。欧州サッカー連盟(UEFA)である。90年代半ば以降、欧州の主要リーグは世界中から選手を集め、スター揃いのチャンピオンズリーグの成功で巨大な資金力もつに至った。
アベランジェはUEFA以外からの初めてのFIFA会長だった。彼が就任した当時のワールドカップ出場国は現在の半分の16だったが、欧州は9ないし10、南米は3ないし4の出場枠をもっていた。残りはわずか3枠だった。
アベランジェは「サッカーを真に世界のものにする」という公約で当選、ワールドカップ出場国を16から24へ、さらに32へと増やし、増加分をアフリカやアジアなどに厚く振り向けた。UEFA選出の会長時代が続いていたら、どうなっていただろうか。
そしていま、UEFAは域内に限らず広く世界から放映権収入をかき集め、誰も語らないが、欧州以外の国々を苦しめる最大の元凶となった。ひとつの国でサッカーに使われるカネの多くが自国のサッカー発展には使われず、欧州に流れ込んでいるからだ。
その「欧州の暴慢」に唯一抵抗しているのがFIFAであり、ブラッターなのだ。FIFAがこのままでいいわけがない。だが「前門の虎」を倒しても「後門の狼」に脅かされるのでは元も子もない。UEFAを世界のサッカーの支配者にしてはならない。
現代の中国で「前虎後狼」と言えば、聖人面をして裏で悪事を働く者を指すという。
(2015年6月3日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。