サッカーの話をしよう

No.1034 49年前の衝撃

 あの日から49年もたったのか―。あらためて思った。
 1966年7月30日は、イングランドを舞台に開催された第8回FIFAワールドカップの決勝戦だった。ロンドンのウェンブリースタジアムでイングランドと西ドイツが対戦し、延長の末4-2でイングランドが優勝を飾った。
 「あの日」と書くのは、私が当時スポーツとは縁のない中学三年生で、この試合をきっかけにサッカーにのめり込むことになるからだ。
 生放送があったわけではない。ワールドカップの世界中継が始まるのは4年後の1970年メキシコ大会である。だが試合からわずか1週間後の8月7日に日本でもテレビ放映されたのだ。わずか1時間の番組だったが...。
 夏休みも半ば。まだ宿題に手をつける気にもならず、私は怠惰な日々を送っていた。そんなある午後、ふとテレビのスイッチを入れると、この試合が飛び込んできた。
 新聞報道でイングランドが優勝したことだけは知っていた。スイッチを入れたときには1-1だったが、やがてイングランドが得点し、2-1となった。後半33分。「これで勝ったんだな」と思った。
 ところが終了直前、西ドイツがFKを得る。シュートはDFが止めたが、こぼれ球を拾った西ドイツのFWがシュート、そのボールが味方選手の背中に当たってこぼれたところを、DFのウェーバーが倒れながら押し込んだ。
 寝転がって見ていた私は、飛び起きると思わず正座していた。それからの延長30分間は目も離せない熱戦だった。延長前半にイングランドが再度引き離すゴール(バーの下に当たって真下に落ちた歴史的な「疑惑のゴール」)を決め、延長戦終了直前にはカウンターから4点目を決めてようやく勝負をつけた。
 夏休みが終わると、私は迷わずサッカー部に入部し、以後49年間にもなるサッカーとのつきあいが始まる。
 サッカー報道の仕事に就いてから、あの試合の情報をいろいろと目にするようになった。7月30日といえば日本では真夏だが、イングランドでは夏の終わりで、当日は雨が降って気温が下がり、VIP席には毛布が置いてあった。イングランドの中心選手であったB・チャールトンは後半33分の勝ち越し点の直後、仲間に「これで勝ったぞ!」と叫んだ。優勝に導いたラムゼー監督は、ホテルでの祝賀会が終わるとウェンブリースタジアムに戻り、ただひとりでピッチ内を一周した...。
 そしてイングランドと西ドイツの22人が見せた死闘は、日本の怠惰な中学三年生をサッカーに駆り立て、49年後のいま、猛烈な暑さでもピッチから離れられなくしている。

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(2015年7月29日) 

No.1033 運動禁止日の公式戦

 新潟市で行われていた男子17歳以下の国際大会で、「海の日」の20日にセルビア代表2選手が熱中症で救急搬送されるという事故が起こった。
 試合は14時10分キックオフのU-17日本代表戦。前半終了の少し前に2人が相次いで倒れ、セルビア代表は試合続行を拒否して、そのまま中止となったという(インターネット『サッカーキング』の川端暁彦氏のレポートより)。
 この日の新潟市は気温30.6度。しかし日差しが強く、午前中までの雨が上がったばかりで湿度は86%、猛烈な蒸し暑さだった。しかも3日連続の昼間の90分マッチ。前半だけで飲水タイムを2回とったというが、起こるべくして起こった事故のように思う。
 台風の影響による大雨がやみ、関東地方が一挙に梅雨明けしたこの連休、私も熱中症対策に頭を痛めた。私のチームは、年間の目標のひとつである大事な大会の準々決勝と準決勝を、この猛暑のなか、2日連続でこなさなければならなかったからだ。
 東京の最高気温は、19日は34.8度、20日は33.6度。強烈な日差しの下、風もほとんどない中での試合だった。
 「食事と睡眠をしっかりとり、良い体調で試合に臨むこと。試合前から水分を摂り、少しでも具合が悪くなったら無理をしないように」。プレーに関することより、私は、選手たちにとって百も承知の注意事項を繰り返さなければならなかった。
 最近は、気温だけでなく人体の熱収支に影響の大きい湿度と日射・放射の要素を加えた「暑さ指数(湿球黒球温度=WBGT)」を判断の指標にするという。その数値を見ると、19日、20日とも東京は環境省が定めた基準の最高ランクである「危険」となっており、「運動は原則禁止」とされていた。20日の新潟も同様だった。ちなみに「危険」のひとつ下のランクが「厳重警戒」であり、「激しい運動は禁止」である。
 そうしたなかで、サッカーの「公式戦」が堂々と行われているのである。幸い、私たちの試合では事故は起きなかったが、20日には午後8時までに全国の44都道府県で少なくとも833人が熱中症で救急搬送され、山梨県の中学校でサッカーをしていた男子生徒3人も病院に搬送された(NHKの調べによる)。
 日本サッカー協会は早急に「真夏の日中の公式戦」について実施の可否を決める基準をつくるべきだ。試合日程の問題、中止にした場合の代替グラウンドの問題など、難しい問題がたくさんあるのはわかる。しかしそんなことと、プレーヤーがさらされている生命の危険とがてんびんにかけられていいはずがない。

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(2015年7月22日) 

No.1032 Jリーグの理想郷・松本

 「走りだせ~、マツモトヤマガ、つかみ取れ~、きょうの勝利を」
 人気ロックバンド「THE BOOM」のヒット曲『中央線』のメロディーに乗せた応援歌とともに両チームが入場する。緑のユニホームに身を包んだすべての老若男女が立ち上がり、手にしたタオルマフラーをぐるぐると振り回す。歌のテンポが上がり、興奮はピークに達する―。
 1965年に長野県松本市で誕生したクラブを2004年に法人化してJリーグ入りを目標に定めてからわずか10年間でJ1昇格を果たした松本山雅FC。J2昇格の2012年から指揮をとっている智将・反町康治監督の指導とともにこのクラブを支えているのは熱烈なサポーターだ。
 「あそこのサポーターは熱い。ものすごいプレッシャーを感じる」。ここでアウェーチームとしてプレーしたJリーグ選手たちが口々に語る。
 ホームのアルウィン(長野県松本平広域公園総合球技場)は収容2万人の美しい専用スタジアム。四方を囲む観客席がピッチに近く、試合が熱してくるとサポーターとピッチ上の選手たちが共鳴するようにパワーを増す。それがアウェーチームを追い詰める。
 J1「第2ステージ」開幕の7月11日、第1ステージ優勝の浦和を迎えた松本は、2点差をつけられた後半10分過ぎから攻勢に転じた。17分にDF酒井が1点を返すと、それからは猛攻に次ぐ猛攻だ。
 「得点の半分がセットプレーから」と言われる松本。MF岩上のCKとロングスローで浦和を防戦一方に追い込む。サポーターの声が緑のうねりのようにピッチに注ぎ込まれ、疲れ切っているはずの選手たちの足を動かす。結局1-2のまま逃げ切られたが、スタジアムを後にするサポーターの表情には落胆の色はなかった。全力を尽くした競技者のような、生き生きとした明るい顔ばかりだった。
 私が初めてアルウィンを訪れたのはスタジアム完成から2年後の2003年。前年のワールドカップのキャンプ地として建設され、パラグアイ代表の誘致にも成功した。しかし地元にはJリーグクラブはなく、その日は千葉×名古屋だった。当時「山雅サッカークラブ」は北信越リーグでプレーしていた。もちろんサポーターなどいなかった。
 翌年にスタートした「Jリーグへの夢」のなかで他クラブの選手たちを恐れさせるサポーターが生まれ、クラブは全市民が誇りとし愛する存在となった。温かな愛に支えられた選手たちの奮闘が、人口約24万人のホームタウンに新たな喜びをもたらした。
 松本山雅には、Jリーグの理想像のひとつがある。

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(2015年7月15日) 

No.1031 なでしこジャパンは全員がMVP

 キックオフ直後の連続失点が響いて敗れた決勝戦は残念だったが、カナダで行われていた女子ワールドカップのなでしこジャパンは、優勝した4年前にも負けない印象的なプレーを見せてくれた。
 2011年にドイツ大会で優勝を飾って以来、なでしこジャパンは苦しみの4年間を送ってきた。翌年のロンドン五輪では銀メダルを獲得したものの試合内容には前年のような輝きはなく、粘り強さで勝ち上がった印象だった。
 他国が日本対策をたててくるなか、佐々木則夫監督にはそれを乗り越える明確なビジョンがなかったか、あるいはそれを選手たちに実行させる力がなかった。今大会を迎えたときチーム力はむしろ低下しており、4年間を無駄にしたのは明白だった。
 グループステージの3試合は、そうしたチーム状態そのものの内容だった。早期敗退も十分あり得た。
 しかしノックアウトステージにはいってチームは俄然良くなった。FW大野忍を中心に前線からの守備が効き、チームがコンパクトになって守備が安定するとともにパスが短く、正確になったからだ。
 圧倒的な力をもつストライカーがいるわけではない。個々の選手は体も小さく、スピードもない。コンビネーションに4年前ほどの切れ味がないからチャンスの数も多くはない。しかしチーム全員で協力しながら守り攻めるサッカーで、なでしこジャパンは勝利に値する試合を続けた。
 それを象徴するのがいわゆる「日替わりヒロイン」だ。準々決勝までの5試合で7得点してきたなでしこジャパン。その7点が、すべて違う選手による得点だったのだ。
 決勝戦の前には大会の「MVP候補」8人が発表され、キャプテンのMF宮間あやとともにDF有吉佐織が含まれていて大きな話題となった。
 しかし私は、「優勝しても日本からはMVPは出ない」と確信していた。今回のなでしこジャパンは、超人的な一人の選手に頼るチームではないからだ。そしてそこにこそ、現在のチームの真骨頂があるように思った。
 今大会後半のなでしこジャパンほど、ピッチに立った11人全員が高い意識で自己の責任を果たし、それを隙間なくつないでゲームを組み立てるチームを、私はこれまでに見たことがない。選手たちは例外なくエゴを捨て、チームの勝利だけを考えて行動し、走り、戦い、プレーした。
 これこそ、チームゲームであるサッカーの理想の姿ではないか。
 誰も突出しないチームから「MVP」は出ない。いや、なでしこジャパンは、「全員がMVP」だった。

(2015年7月8日) 

No.1030 『マークしない』クロス対策

 昨年のワールドカップの技術と戦術を分析した日本サッカー協会の「JFAテクニカルレポート」(2015年1月発売)によれば、大会の全171ゴールのうち50ゴールが「クロス」すなわち左右からのパスによって生み出されたという。日本代表もコートジボワール戦で後半にクロスからのヘディングによる連続失点を喫した。
 日本に限らず重要な課題である「クロス対策」を考えていたら、チリでのコパアメリカ(南米選手権)で興味深いものに出合った。「マークをしない守備」である。
 6月24日にサンチャゴで行われた準々決勝のチリ×ウルグアイ。MFとFWに好選手を並べ、攻撃力を看板に初優勝を狙う地元チリ。ウルグアイはその圧倒的な攻撃に耐え、左右から送られるクロスを次々とはね返し続けた。
 ゴディン(186センチ)、ヒメネス(185センチ)という屈強なセンターバックをもつウルグアイだが、個人的な強さに頼るわけではない。組織としてクロスに強いのだ。
 よく見ると、4人の選手がゴールエリアのライン上にほぼ5メートル間隔で並び、クロスを待ち構えている。クロスが入れられようとするとき、ウルグアイの選手たちは相手選手など気にしない。ボールに集中し、自分の責任範囲に飛んできたら決然と対処する。
 普通、日本では、クロスに対する守備で最も重要なのは「マーク」、すなわち相手選手にしっかりつくことと教えられる。相手選手とボールの両方を視野に入れつつ、相手選手とゴールとの間、ボールが相手選手のところに来たら競り合える距離を取る。ボールにばかり気を取られる選手は「ボール・ウォッチャー」と呼ばれ、そのひと言で「守備落第」の烙印(らくいん)となる。
 それに対しウルグアイは、「ポジショニング」に重きを置いているように見える。クロスがシュートにつながるのは大半がゴールエリアライン近辺。ならばそこに隙間なく人を配置することでクロスをはね返す確率が上がるという考え方なのだろうか。マークに気をとられずボールに集中できることによって、個々の選手のクリア能力も最大限発揮されているように思えた。
 コーナーキックに対してなら、こうした「ゾーン守備」は日本でも珍しいものではない。しかし流れのなかのクロスに対してこの守備の考え方を実践するのは初めて見た。
 守備の目的はゴールを守ること。その手段としてマークがある。だが手段は一つではない。組織的なポジショニングでボールをはね返すことに集中するというやり方も、考えてみる価値のある「クロス対策」のように感じた。

(2015年7月1日) 

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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