2015年はなでしこジャパンの女子ワールドカップ決勝進出はあったが、日本のサッカー全体を振り返ると「苦戦の年」だった印象がある。
男子アジアカップは準々決勝敗退。日本代表監督に就任する前の八百長疑惑でアギーレ監督が契約解除となり、代わったハリルホジッチ監督下でもぱっとしない試合が続いている。AFCチャンピンズリーグは、ことしも優勝カップに手が届かなかった。
だがその年の終わりに、そんな暗雲を吹き飛ばし、これからの日本サッカーの大きな指針になるような革命的なものが完成した。来季ガンバ大阪のホームとなる「市立吹田サッカースタジアム」だ。
4万人収容、日本代表の国際試合もできるサッカー専用スタジアム。直線の組み合わせでできた外観だけでそのすばらしさが想像できる。そして一歩足を踏み入れると、期待を上回る世界第一級の施設であることがわかる。
スタンドとピッチの距離は選手に手が届きそうなほど近い。ゆったりとした座席、第一層のスタンドの背後に設けられた広いコンコース、観客席を完全に覆う屋根...。ストレスなしに観戦を楽しむことを最優先に考えた設計思想を感じ、知らないうちに頬がゆるんでいる自分に気づく。
同時に、美しい八角形の外観は軽量で耐震性の高い屋根の設置を可能にし、その屋根につけたソーラーパネル、照明をすべてLEDにするなど、最新の安全技術とエコ技術が採り入れられている最先端のスタジアムでもある。
だが「革命的」なのはそうしたことではない。140億円の建設費は、106億円近くを法人や個人からの募金でまかない、そこにスポーツ振興くじを中心とした補助金を加えて達成した。一切、国や自治体の手をわずらわせずに造り上げたスタジアムなのだ。「市立」になったのは完成後に吹田市に寄贈されたため。管理運営は全面的にガンバ大阪に任されている。
いわばサッカーファンとサッカーを応援する地域財界の手だけでつくられたスタジアム。だからこそ、使用するクラブや選手、そしてそこで試合を楽しむファンのために徹した施設が実現したのだ。
2016年に24季目を迎えるJリーグ。初期のスタジアムの大半は「代替わり」したが、2002年ワールドカップで使用したスタジアムも陸上競技型のものは時代後れになりつつある。新時代を切り開くことができるのは「利用する者」が主体的に建設するスタジアムに違いない。
正面ゲートの前に立つと、スタンド一体の歓声やファンの笑顔まで感じることができる。このスタジアムは、間違いなくガンバ大阪と日本のサッカーに新しい時代を開く。
(2015年12月16日)
いまから61年前の1954年12月13日月曜日、イングランド中部のウォルバーハンプトンで地元クラブのワンダラーズ(愛称ウルブズ)がハンガリーのホンベドを迎えた親善試合が行われた。
前年、ウルブズはクラブ所有のモリノー・スタジアムに1万ポンド(現在の感覚では1億円ほどだろうか)で夜間照明設備をつけた。サッカー場の照明は19世紀に生まれたが、イングランドでは1930年に禁止され、ようやく51年に解禁された。いち早く飛び付いたのがウルブズだった。
ウルブズは53年の秋から欧州の強豪を招いてウイークデーの夜に親善試合のシリーズを開催した。照明に映えるようにと、クラブは光沢のある絹地の特別なユニホームを用意した。その8試合目が54年12月のホンベド戦だった。
前年11月にロンドンでイングランドを6-3で下して世界に名をとどろかせたハンガリー代表の中核をなすのがホンベド。自他ともに「世界最強クラブ」と認めていた。
迎えるウルブズはこの年初めてイングランド・リーグで優勝。当然、大きく注目された。このシリーズではどの試合もスタジアムは5万5000人の観客で満員だったが、この日は特別にBBCテレビで生中継されたほどだった。
そしてウルブズは勝った。序盤に2点を許したが、後半立ち上がりに怪しいPKの判定で1点を返すと、終盤にはエースのロイ・スウィンボーンが連続得点して逆転、3-2の勝利をものにしたのだ。
狂喜したのはハンガリー・サッカーに強烈なコンプレックスを抱いていた英国メディアだ。『デイリーメール』紙は「世界チャンピオン」とウルブズを持ち上げた。この年のワールドカップ優勝こそ逃したが、ハンガリーは依然として世界最強と評価されており、ホンベドには名手フェレンツ・プスカシュを筆頭にハンガリー代表の主力が6人も並んでいたから無理もない。
だが...。「それを書くならウルブズがアウェーでもホンベドに勝ってからだろう」
2日後のパリ。英国から到着した新聞を広げてつぶやいたのはフランスのスポーツ専門紙『レキップ』編集長ガブリエル・アノだ。「しかしウイークデーに強豪クラブ同士が対戦するアイデアは面白い。世界チャンピオンとまではいかなくても、欧州の王者はそれで決められるかも...」
彼の提案から翌年誕生したのが欧州チャンピオンズカップである。5年後には南米チャンピオンを決めるリベルタドーレス杯が始まり、クラブ世界一を決める試合も誕生した。その試合はトヨタカップを経て2005年に「FIFAクラブワールドカップ」となった。2年ぶりの日本開催。明日、横浜で開幕する。
(2015年12月9日)
2015年は日本人監督の「豊作」だった。
就任2年目で磐田をJ1に復帰させた名波浩監督(43)、シーズン半ばに就任して鹿島を変貌させた石井正忠監督(48)、ACLで旋風を巻き起こした柏の吉田達磨監督(41)、就任1年目で福岡を戦えるチームに仕立て上げた井原正巳監督(48)、そして山口をホップ、ステップ、ジャンプのようにJ2まで引き上げた上野展裕監督(50)...。
そうしたなかでさらに強い印象を受けたのは、天皇杯の2回戦でJ1きっての攻撃力をもつ川崎に真っ向からぶつかった島根県代表・松江シティFCのサッカーだった。
J1から数えれば5部にあたる中国リーグのクラブ。もちろん選手は全員アマチュアである。前半こそ押し込まれたが、後半には伸び伸びと自分たちのサッカーを展開、何回も川崎ゴールを脅かした。そのチームを率いていたのが独自の理論で指導に当たってきた片山博義監督(43)だ。
東京で生まれ、高校卒業後にドイツに渡ってプレー。ケガで引退を余儀なくされたが、指導者に転じてドイツでライセンスを取得した。2014年に松江のヘッドコーチとなり、9月に監督に就任して、ことしは2季目だった。
ピッチを32分割し、ボールがどこにあるかで自分がどこにいるべきかポジション取りを明確にする、攻撃の優先順位やパスをつなぎやすい距離を共有する...。片山監督の指導は、少しというより、かなり風変わりだ。
「99%が攻撃のサッカー」と、片山監督は自らのサッカーを表現する。相手がボールをもっている状況でも、選手たちに「相手にもたせて奪いにいく時間」ととらえさせ、攻守一体を実現した。
はっきり言ってJ1と中国リーグの選手たちでは「個」の能力に大きな差がある。しかし片山監督にプレーの原則を叩き込まれた松江の選手たちはそんなことはものともせず、チームとしてのプレーで渡り合い、プロの守備を何回も突破して見せた。
片山監督や冒頭に挙げた日本人監督たちは、個の力に頼るのではなく、それぞれの創造性あふれる手法で勇敢にそして前向きに攻撃を展開するサッカーを実現した。それが勝ち負けを超え、浮き立つような試合につながった。
サッカーは試合内容と結果がつながりにくい競技。勇敢なチャレンジがいつも勝利に結びつくわけではない。それでも志を捨てず、信じる道を進んでほしいと思う。
柏の吉田監督と松江の片山監督は今季終了とともに退任する。今後、どんなチームでどんなサッカーを見せてくれるのか、楽しみに待ちたい。
片山博義監督(松江シティFC)
(2015年12月2日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。