「こういう『守備力』もあるのか―」
改めて目を開かされる思いがした。鹿島アントラーズMF小笠原満男である。
先週末、カシマスタジアムでJリーグ第2ステージ第5節の浦和戦を見た。第1ステージ優勝の鹿島対3位に終わった浦和。年間勝ち点上位争いに関わる重要な一戦だ。
小笠原の異様な能力に気づいたのは後半なかばだった。1-1の状況で、鹿島は攻撃の圧力を高めた。次々とペナルティーエリアに送り込まれるボール。浦和守備陣が懸命にはね返す。そのボールが、驚くべき確率で小笠原のところに飛ぶのだ。確実に止め、的確に味方につなぐ小笠原。鹿島が2次攻撃をかける。
若いMF柴崎岳と「ボランチ」を組む小笠原。攻撃になると、柴崎は右サイドを中心にどんどん前線の選手たちにからんでいく。小笠原は大きく空いた中盤をほぼひとりでカバーし、浦和のクリアを磁石のように引きつける。
「守備力のあるMF」というと、一対一でボールを奪う能力の高い選手というイメージが強い。この面で現在のJリーグで際立つ存在が新潟のレオシルバだ。相手への寄せが速く、足を出せばほとんどボールを自分のものとし、奪ったボールは相手との間に体を入れて絶対に奪われない。
小笠原も一対一に強く、ボールを奪う力は高い。しかしこの日私が見たのは、広大なスペースのなかにぽつんと立っているように見えて、まるで巨大な網を張っているかのようにクリアをつかまえる、尋常ではない能力だった。
帰宅してからビデオで確認してみた。後半15分からの15分間で、小笠原は5回もこの能力を披露していた。
相手がぎりぎりのところでクリアするボール。鹿島がこうしたボールを回収したのは前半の45分間で8回。何人もが中盤で待ち構えるなか、小笠原はその半数の4本を拾った。後半45分間では15本中8本。だが後半なかばの15分間では鹿島が拾った8本のクリアボールのうち小笠原のところに5本も飛んできたのだ。この時間帯、どちらかといえば小柄な小笠原がどんどん巨大化するようにさえ感じた。
1979年4月5日岩手県生まれ、37歳。鹿島とともに6回のリーグ優勝を経験し、J1出場484試合。2011年の大震災後に「東北人魂をもつJ選手の会」を立ち上げ、率先して被災地支援活動を続けてきたことでも知られる小笠原。
身長173センチ、フィジカルに恵まれているわけではない。他に類を見ない能力は、経験とともに、誰にも負けたくないという気持ち、そして抜群の頭脳から生まれたものに違いない。小笠原の「特技」に、「守備」というものの奥深さを見た思いがした。
(2016年7月27日)
「サッカーの大会は土曜・日曜・祝日のほか、週にいちどウイークデーの夜間の試合だけに限る。なおかつ2つの試合のキックオフ間は72時間以上空けなければならない」
ブラジル大統領のジャニオ・クアドロスがこの法令に署名したのは1961年7月21日のことだった。同法令には「夏期には午前10時から午後5時までにサッカーの試合を開催してはならない。すべてのサッカー選手は12月18日から1月7日まで休暇を取らなければならず、この期間はトレーニングも親善試合も不可とする」ことも明記された。
1958年にスウェーデンで開催されたワールドカップで念願の初優勝を果たしたブラジルのサッカーは、人気沸騰の時期にあった。なかでも「王様」ペレを擁するFCサントスには世界中から試合希望が殺到し、1959年には親善試合だけで40にも達した。
この年、18歳のペレはサントスで83試合、ブラジル代表で9試合に出場、計92試合で111ゴールを記録。現在では、ひとりの選手がプレーできる試合数は年間60試合が限界と言われているが、当時のペレはその1.5倍もの試合をこなしていたことになる。
クラブがカネ目当てに試合を増やすだけで選手の健康や選手生命の危機を顧みない状況に歯止めをかけるのがクアドロス大統領の狙いだった。法令が出た翌年の62年には、ペレの試合数はクラブと代表を合わせて60に減っている。
サンパウロ市市長、サンパウロ州知事から大統領になったクアドロスは、大衆的な人気をもち、大政党のことごとくから支持を得て1961年の1月に就任。キリスト教的な思想をもち、ギャンブルや海水浴場でのビキニ着用の禁止などの法令も施行した。だが冷戦のまっただなかの時期に親ソ連的な外交を展開したことから、わずか7カ月間で辞任に追い込まれる。「サッカー法令」はその短い在任期間の末期に誕生したものだった。
8月5日に開幕するリオ五輪。サッカーは8月3日に女子が、そして翌4日に男子の試合がスタートする。決勝まで6試合。正規の大会期間では消化できないのだ。かろうじて「72時間(中2日)ルール」は守られている。だが広大なブラジルの国土を移動しながらわずか2週間で6試合を戦い抜くのは、「過酷」を通り越している。「五輪でサッカーの実施は無理ではないか」とさえ思ってしまう。
サッカー以上に過酷な競技であるラグビーでは試合時間の短い「7人制」をオリンピック種目にした。サッカーも5人制のフットサル、あるいはビーチサッカーにしたほうがいいのではないか。1992年に75歳で逝去したクアドロス元大統領が健在だったら、そんな提案をしたかもしれない。
リオ五輪決勝会場のマラカナン・スタジアム
(2016年7月20日)
「偉大な仕事」とは、希有な才能によってなされるとは限らない。平凡な人びとが、ひとつの志の下、営々と続けることによって成し遂げられるもののほうが、この世の中にははるかに多い。
浦和レッズがホームの公式戦ごとに制作・発行してきたマッチデープログラム(MDP)が今週日曜日(17日)の大宮戦で500号を迎える。Jリーグ最初の公式大会ナビスコ杯が開催された1992年9月5日から24年、足かけ25シーズンの偉業である。
ただ「ホームゲーム500試合」は次の湘南戦(8月6日)。1997年5月の横浜フリューゲルス戦が雷雨で途中中止になり、改めて7月に行われた。そのときにMDPだけ1号増えてしまったのだ。
Jリーグには立派なプログラムを発行しているクラブがいくつもある。だが「ナビスコの年」から25シーズン継続しているのは浦和だけだ。
欧州のプロでは常識といっていいプログラム。Jリーグ時代になると、どのクラブも派手なものをつくり、無償配布するクラブもあった。しかし浦和は最初から「来場者に買ってもらう」方針をとり、安価に抑えた。
「毎試合必ず発行することで、10年間、20年間積み重ねれば歴史になる」という哲学の下の発行だった。
第1号は178部しか売れなかった。大赤字だった。クラブ財政が逼迫(ひっぱく)した時期には編集費の削減も余儀なくされた。だが不思議にどこからも「廃止論」は出なかった。
「ファンがスタジアムで過ごすための必需品。チームやスタッフとサポーターが気持ちを通い合わせるツールでもあります。販売員たちにも、一人ひとりのファンに対しその気持ちを込めてお売りするよう話しています」
そう語るのは、かつて広報担当でMDP制作も担当し、現在は浦和のマーチャンダイジング課長として販売を取り仕切る丸山大輔さんだ。
浦和のMDPは当初埼玉新聞社が制作を請け負い、2005年以後はクラブの直接制作となった。だが1992年以来一貫して編集に当たっているのが清尾淳さんだ。2005年、清尾さんはごく自然に埼玉新聞を退職し、浦和と直接契約した。
「選手や監督の生のコメントをサポーターに届ける。サポーターの生の声を選手に聞いてもらう。その思いでやってきました。実際、選手たちがスタジアムに到着してロッカールームにはいったとき、真っ先に手に取るのがMDPなんです。サポーターの声を読んで、『よしやるぞ!』と闘志をかきたてる選手もたくさんいます」(清尾さん)
ファン、サポーターとチーム、選手をつないで25シーズン。積み重ねが歴史となり、500号の偉業となった。
(2016年7月13日)
左タッチライン際から守備ラインの背後にワンタッチで大きく出されたパス。タイミングよく走りだした青いユニホームの7番が追う。追いすがるのは白いユニホームの5番。ペナルティーエリアにはいったところで青の7番が前傾しながらぐっと加速して体を前に入れる。遅れた白の5番は両手を相手の肩にかけ、2人はもつれながら倒れる。
7月2日、Jリーグ第2ステージ第1節のアビスパ福岡対浦和レッズ。青の7番は福岡MF金森健志、白の5番は浦和DF槙野智章である。そこに走ってきた池内明彦主審は右手でペナルティースポットを指し(ペナルティーキック=PK)、続いて腰のポケットからレッドカードを取り出して槙野に示した。
相手の決定的な得点の機会を阻止する反則を犯した選手を退場処分(レッドカード)で罰するルールが定められたのは1991年のこと。前年にイタリアで開催されたワールドカップで、こうした反則が横行した。イエローカード(警告)で済むなら、反則で止めたほうが得...。「プロフェッショナル・ファウル」とも呼ばれた行為を撲滅し、サッカーの魅力を取り戻すことが目的だった。
そのルールが、ことし25年ぶりに改正され、反則の種類によってはイエローカードだけで済むことになった。
欧州ではもう10年ほど前から「三重罰」への不満が募っていた。ペナルティーエリア内で「決定的得点機会阻止」の反則を犯すと、PK、退場(1人少なくなる)、そして少なくとも1試合の出場停止と、3つもの懲罰が重なり、厳しすぎるというのだ。何年間もの検討の末、ことしようやくルール改正された。
DFがスライディングで、あるいはGKが相手の足元に飛び込んで正当に防ごうとした結果、反則になってしまった場合には、イエローカードで済ませることにしたのだ。
ただし、こうした正当なプレーを試みた結果ではない反則、たとえば相手を押したり引っぱったり、プレーできる可能性がないのに体をぶつけた場合には、これまでどおりレッドカードが出される。槙野の場合には、絵に描いたような退場のケースだった。
その翌日、J2のロアッソ熊本対セレッソ大阪でもまったく同じような状況の反則で熊本DF薗田淳が退場となった。J1でもJ2でも、この週が新ルール適用の最初の試合だった。
奇妙なことに、前週までのJ1とJ2合わせて368試合では、決定的得点機会阻止による退場は皆無だった。新ルールが施行されたとたんに2例も生まれた理由がもし選手の理解不足にあったとしたら、恥ずかしいことだ。
(2016年7月6日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。