サッカーの話をしよう

No.1109 進むクラブの国際グループ化

 現代のサッカーを支配するのはビジネスマンたちだ。
 国際サッカー連盟(FIFA)がワールドカップを48チームに拡大するのも、利益を増やすためだった。クラブサッカーの世界では、ほんのひと握りのビジネスの勝者だけが世界の話題を独占する。そのクラブサッカーに新しい潮流が起こっている。国境を、さらには大陸をまたぐ複数クラブのオーナーシップだ。
 Jリーグの名門横浜F・マリノスは、2014年に株の20パーセントを「シティグループ」に売却、サッカー部門の運営を任せた。翌年監督に就任し、今季3シーズン目を迎えたエリク・モンバルエツ監督は、「私はシティグループの方針に従ってチームを指導している」と語ってはばからない。
 「シティグループ」とは何か。アメリカの銀行とは関係がない。イングランドのマンチェスター・シティFCを中心とするプロサッカークラブの所有組織である。
 同じ町のライバル「ユナイテッド」の陰に隠れ20世紀末には「3部」まで落ちていたマンチェスター・シティ。2002年にプレミアリーグに昇格したものの、目立たないクラブだった。だが2007年にタイの実業家で元首相のタクシンが買い取ったことで派手な投資が始まり、翌年UAEアブダビの首長一族であるシェイク・マンスルに所有権が移ると、巨額でスターを買い集めて一挙に強豪の仲間入りを果たし、2012年にはプレミアリーグ初制覇も成し遂げた。
 そしてシェイク・マンスルを取り巻くビジネスマンたちが次に考え出したのがクラブの国際的な「グループ化」だった。2013年5月にアメリカに新しいクラブ「ニューヨーク・シティFC」を設立してトップリーグに加入させ、翌年1月にはオーストラリアのメルボルン・ハートというクラブを買収して「メルボルン・シティFC」と改称した。さらに2014年5月には横浜を事実上支配下に置いたのである。
 同じ国内で2つのクラブを所有することはできない。ライバルなのだから当然だ。欧州にはオーナーが共通するクラブは同じ大会には参加できないという規則がある。
 様々な規制の外で複数のクラブを所有し、選手のやり取りなどを活性化するとともに、国際的な市場の獲得が「グループ化」の狙いだ。シティグループの次のターゲットは、13億人の巨大マーケットをもつ中国だと言われている。
 こうした複数クラブ所有の形態が、いまでは世界に5つも存在する。
 ビジネスマンたちはサッカーの専門家が考えもしないことを思いつき、想像もしない速さで実行に移す。対抗するには、ビジネスの指標である「マネー」以上の価値をサッカーが提示する以外にない。

(2017年2月22日) 

No.1108 近づくJリーグキックオフ

 冷たい西風のなか、日が一日一日と長くなる。それは近づくJリーグ開幕の足音だ。
 25シーズン目のJリーグが開幕する。18日の富士ゼロックススーパーカップ(鹿島×浦和)を皮切りに、2月25日にはJ1が、翌日にはJ2が、さらに3月11日にはJ3が開幕する。
 アスルクラロ沼津(静岡県)がJ3に昇格、今季、Jリーグは全54クラブになった。1993年のスタート時にはわずか8府県に10クラブだった。それが25シーズン目で全国38の都道府県に54クラブにもなるとは、強気の初代チェアマン川淵三郎さんでも予想しなかっただろう。
 昨年12月に鹿島アントラーズがFIFAクラブワールドカップで決勝に進出する大活躍を見せたことで、Jリーグの実力が大きく見直され、同時にJリーグ・クラブの目も世界に向き始めている。
 「本格的な大競争の時代に突入する」(村井満チェアマン)ため、賞金だけでなく総額28億円もの「強化配分金」が上位チームに分配され、今後ハイレベルな外国人選手の獲得に使われることになる。
 「Jリーグは世界で最も競争が激しく、難しいリーグ」と、外国人監督たちが口をそろえて語る。
 毎年のように優勝争いに加わるチームも、毎年残留争いに巻き込まれるチームも、たしかに存在する。しかしそうしたチームが対戦しても必ずしも優勝争いの常連が勝つとは言えないのがJリーグだ。
 「ヨーロッパではホームチームの勝率は6割。しかしJリーグでは5割。世界でいちばん競争が激しいエキサイティングなリーグだ」
 今季からインターネットを通じてJ1~J3の全1040試合を生中継する英国「DAZN」のジェームズ・ラシュトンCEOは、10年間で2100億円という巨額の投資の理由をそう説明する。
 昨年のチャンピオン鹿島はMFレオシルバなど大型補強に成功、Jリーグ連覇とともにアジア初制覇を目指す。対抗するのは、昨年リーグ最多記録に並ぶ勝ち点74を挙げ、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督6シーズン目で戦術をさらに練り上げた浦和か、それとも、FW大久保嘉人など鹿島以上の大補強でチームを一新したFC東京か...。
 Jリーグには、J2から昇格して1年目で優勝という例が過去に2チームある。ことしJ1に昇格したC大阪が、日本のサッカーを熟知する尹晶煥(ユン・ジョンファン)新監督の下、スペインから戻ってきたMF清武弘嗣らの力を結集して優勝争いに加わる可能性も十分にある。
 開幕時には少し寒いかもしれない。しかしすぐに春の風がピッチを吹き渡る。そしてあっという間に、熱気がスタジアムを包み込む。

(2017年2月15日) 

No.1107 岡野俊一郎さん 伝えたサッカー文化

 本紙運動部からの電話で岡野俊一郎さん(享年85歳)の訃報を知らされたとき、私は横浜にいた。茫然として言葉を失い、満足な返事もできなかった。帰宅して追悼の記事を書いたが、恥ずかしいことに、書き尽くせない思いだけが残った。なかでも「ダイヤモンドサッカー」に言及できなかったのは心残りだった。
 ダイヤモンドサッカーは現在のテレビ東京で1968年4月から20年間放送されたサッカー番組。当時三菱化成社長で日本サッカー協会の副会長でもあった故・篠島秀雄さんが発案した日本初の海外サッカー番組だった。その第1回から最終回まで解説を務めたのが岡野さんである。
 岡野さんはその数年前からNHKを中心にサッカー中継の解説で活躍、的確な戦術解説にはすでに定評があった。東京大学の大先輩である篠島さんから直接新番組の解説を依頼された岡野さんは、電話の前で頭を下げて「はい、わかりました」と即答した。
 当時、海外のサッカーの情報など皆無に近かった。ワールドカップも決勝の結果が新聞に3行ほど載るだけ。「動くプレー」を見る機会などまずなかった。そんな時代にイングランド・リーグを中心とした試合がテレビで流れたのは、大きな衝撃だった。
 そうしたなかで岡野さんはプレーの解説だけでなくその背景の「サッカー文化」をわかりやすく話した。何回かの渡欧体験だけでなく、毎月英国から本や雑誌を取り寄せて研究したものを語り続けた。
 サポーター、ホームアンドアウェー、何よりも地域に根差したクラブのあり方、障害者もともにスポーツを楽しむ文化...。いまでは常識となっている事柄が、当時は何もかも耳新しく、新鮮だった。
 「地域とスポーツとがサッカーを通じてどう結び付いているのかを日本で初めて紹介したのが『ダイヤモンドサッカー』だった」。20年間コンビを組んだ金子勝彦アナウンサーとの対談で、岡野さんはこう話している(『ダイヤモンドサッカーの時代』エクスナレッジ、2008年)。
 番組の終了を待つように、1980年代末に本格化したプロ化論議は1993年のJリーグ誕生となって結実する。その原点は初代チェアマン川淵三郎さんが1960年の欧州遠征時に体験した西ドイツの「スポーツシューレ(スポーツ学校)」と言われる。しかしサッカーのクラブというものが地域とどう結び付くのか、ダイヤモンドサッカーを通じて「サッカー文化」というものの知識を深めた人びとがいなければ、このプロジェクトが成功することはなかっただろう。
 Jリーグ誕生の四半世紀も前からその種をまき続けてきた岡野さん。その功績を語り尽くすことなど不可能だ。

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岡野俊一郎さんと

(2017年2月8日) 

No.1106 小松原博和さん 裏方人生40年

 小松原博和さん(63)が初めて日本サッカー協会の仕事をしたのは1974年11月24日のことだった。その日、東京・国立競技場で、引退したサッカーの王様・ペレ(ブラジル)が子どもたちに指導するイベントが行われ、ペレが使う更衣室の「門番」を命じられた。
 濃い緑のジャージーに着替えて出てきたペレは、21歳のアルバイト学生を見ると「アリガト」と右手を差し出して握手してくれた。その手のひらのやわらかさを、小松原さんはいまでも覚えている。
 正式に協会職員になったのが1977年。以来40年間にわたる仕事に、きのう、小松原さんはピリオドを打った。アルバイト時代を含めると、第4代の野津謙会長から実に11代の会長の下で働いてきたことになる。定年を延長し、来年4月の誕生日までは働くことができた。しかし昨年痛めた腰の治療を優先させた。
 「こまっちゃん」。周囲からそう呼ばれ、親しまれた。小柄な体に笑顔を絶やすことなく、小松原さんはサッカーの裏方ひと筋に生きてきた。
 担当は一貫して日本代表。当時協会職員はわずか11人。何でもひとりでやった。代表チームの用具管理、いまではありえない医薬品管理、来日チームの出迎え、打ち合わせから記者会見の司会...。
 その間、ベッケンバウアー、クライフ、マラドーナなどスーパースターを間近で見て言葉をかわす機会もあった。
 1992年以後はワールドカップの招致委員会、次いで組織委員会に出向し、スタジアム建設の支援に奔走。2002年、大会終了とともに協会に戻って審判を担当した。スタジアム建設も審判も地方協会との折衝や連絡が主な仕事。過去25年間で小松原さんは全国をくまなく回り、日本中の関係者から親しまれ、信頼された。
 2003年からは川崎フロンターレの応援という楽しみができた。この年に就任した武田信平社長は若いころのサッカー仲間だった。だが何よりも、フロンターレは小松原さんの地元クラブだったのだ。
 実のところ等々力運動公園の一部は祖父の土地だった。その等々力で徹底して地域に密着する活動をするフロンターレに、心が躍った。以来、家族で年間チケットを買い、試合日には朝6時の順番取りから一日をフロンターレのために過ごし、試合終了の15分後には風呂の中という天国のような週末を送っている。
 「世界のスーパースターに会えて、週末にはフロンターレざんまいで、こまっちゃんほど幸せな人はいないよ」
 仲間にはそう言われる。
 「腰を治したらもういちどサッカーのために働きたい」(小松原さん)。少年のような笑顔には、40年間サッカーの裏方として働いてきた、価値あるしわが刻まれていた。

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小松原博和さん

(2017年2月1日) 

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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