新しい時代が始まるのだろうか―。
先週、スイスのローザンヌで開かれた抽選会で、欧州サッカー連盟(UEFA)が今秋から開催する「欧州ネーションズリーグ」の組分けが決まった。4年にいちどの「欧州選手権」に加え、2年にいちどチャンピオンが決まる新大会をスタートさせるのだ。
代表チームのサッカーは過渡期にきている。ワールドカップ、欧州選手権、そしてそれらの予選など公式戦は注目されるが、親善試合になると観客は集まらず、選手たちのモチベーションも極端に低下する。そこで考え出されたのがこの大会だった。
UEFA加盟の55カ国を4つの等級(リーグA~D)に分け、さらに各等級を3あるいは4チームずつ4組、計16組に分ける。ことし9月、10月、11月の国際試合日を利用して各月2節を消化、各組内でホームアンドアウェーの戦いをし、順位を決める。
優勝を争うのはリーグA各組1位の4チームだけ(来年6月に準決勝と決勝を行う)だが、全16組の1位は来年3月にスタートする欧州選手権予選プレーオフへの出場権を得る。10組に分けての欧州選手権予選。各組上位2チーム、計20チームが2020年6月の決勝大会への出場権を得るが、そこで3位以下になってもネーションズリーグで1位を確保していれば、最後の4枠への戦いに参加できるのだ。
ネーションズリーグの新鮮さは「等級分け」にある。UEFA独自のランキングで最も低い「リーグD」の16チームは、ワールドカップや欧州選手権の予選では常に上位のチームと当たり、ほとんど勝てない。だが新大会では勝てる可能性のある相手ばかり。しかも欧州選手権のプレーオフは、ランクの上位同士、下位同士で当たるため、リーグDの16チームからも必ず1チームは欧州選手権の決勝大会に出場できる。下位ランクの国のサッカーに大きな刺激を与えるのは間違いない。
だが懸念はある。欧州のサッカーはこれでますます内向的になってしまうのではないか。現在のUEFAは国際サッカー連盟(FIFA)をしのぐ資金力をもち、クラブも代表チームのサッカーも、欧州内の戦いで十分世界の耳目を集める実力と魅力を備え、自己充足できるからだ。
もちろん親善試合がゼロになるわけではない。だが欧州外の国が欧州のチームと交流する機会は大きく減る。
世界中からかき集めるテレビ放映権収入で隆盛を極める欧州のサッカー。だがその収益は域内のサッカー振興だけのために使われ、さらに新大会が力を与える。新しい時代とは、世界のサッカーが「欧州とそれ以外」に二分され、格差が広がる一方の時代だ。
(2018年1月31日)
先週はユニホームの色の話だった。ついでにユニホームにまつわる話をもうひとつ。
Jリーグは今季からいわゆる「鎖骨スポンサー」を許可した。ユニホームの前面上部の左右2カ所に広告を入れることを認めたのだ。
クラブチームのユニホームは、現在では広告なしだと間が抜けているようにさえ見える。だがそれが始まったころには大きな摩擦があった。
スポーツのユニホームに広告を入れた最初はウルグアイの名門サッカークラブ「ペニャロール」。1950年代のことだった。欧州では1970年代になってフランスやデンマークなど財政難に苦しむリーグのクラブで導入された。だが多くの国では、クラブと地域の象徴であるユニホームに広告を入れることに、リーグや協会だけでなくファンの間でも強い拒否反応があった。
1973年はじめ、当時ドイツ・ブンデスリーガの強豪のひとつだったブラウンシュバイクが酒造業の「イエーガーマイスター」と契約し、ユニホームの胸に同社の男鹿のマークをつけようとした。契約金は16万マルク。当時のレートで1664万円ほどだった。
ドイツ協会は許可しなかった。しかし自分たちの収入にかかわる選手たちは投票でクラブエンブレムを従来のライオンから男鹿に変えることを決議、クラブはその年の3月から実質的に広告つきのユニホームで公式戦を戦った。ドイツでユニホーム広告が正式に認められたのは、その年の10月のことだった。
こうして、せきを切ったように、1970年代半ばから欧州各国のクラブユニホームに広告がはいるようになる。胸の正面につける広告はテレビ中継のアップ画面や新聞・雑誌の写真で非常に目立つ。新しい広告収入はクラブの重要な財源になっていく。
その流れに最後まで抵抗したのがスペインのFCバルセロナ。だが2006年、ユニセフに約1億7000万円を寄付したうえに無料で胸にユニセフのロゴをつける前代未聞の「胸広告」をつけると、2010年にはカタールの企業と年間約38億円の契約を結んだ。さらに昨年からは年間約80億円の史上最高額で日本の「楽天」を胸広告につけている。
日本では、1992年、Jリーグ時代になって可能になったユニホーム広告。現在ではアマチュアチームでも日本協会に申請することで胸に広告をつけることができる。Jリーグ、なでしこリーグ、フットサルのFリーグでは、胸のほかに背中や袖にも広告を入れることが認められている。
だが胸広告の収入はJ1でも3億円程度。バルセロナとは比較にならない。「鎖骨」にまで広告を許すのは、苦しいクラブ経営を少しでも助けるためにほかならない。
(2018年1月24日)
2月下旬の新シーズン開幕に向け、Jリーグのクラブが続々と新体制を発表し、併せて新シーズンのユニホームもお披露目している。
25年前のスタート時以来、Jリーグのユニホームに私は大いに不満をもってきた。アップで見たときのデザインばかりが優先され、緑のピッチ上に11人が散ったときの見やすさという最も重要な要素が後回しにされてきたからだ。
だがそれ以上に、Jリーグ自体に、見分けやすいユニホームで試合をさせようという意識が低いように感じる。昨年3月のJ2「岐阜×松本」で緑とグレーのユニホームの見分けがつかず後半から岐阜が白に変えたという事件はプロとして論外だが、それ以外にも「見分けづらい」と感じる試合が、とくにテレビ中継を見ているとたくさんある。
欧州サッカー連盟(UEFA)機関誌の最新号(第174号)に「色覚異常とサッカー」に関する記事があった。
色の認識が多数の人と異なる状況をもつ人の割合は、日本では5%、欧州では8%にもなり、その大多数が男性だという。ある種の職業では業務が難しいこともあるようだが、差別につながらないようにと、日本では昨年来「色覚多様性」と呼んでいる。
サッカーは「色の世界」である。2つのチームは色で区別し、選手も観客も、ユニホームの色を頼りに試合を楽しむ。それが一部の人にとって見分けにくいものだったら、その人びとは楽しみの大きな部分を奪われていることになる。相手とのユニホームの区別ができずに「自分はサッカーが下手」と思い込んでしまう少年が、日本でも20人に1人、欧州なら12人に1人もいるとしたら、心が痛む。
スポーツの世界でこの問題に最初に手をつけたのは2016年、アメリカンフットボールのNFLだった。赤と緑の対戦を「赤対白」にさせたのだ。だがユニホームメーカーからの要請を受けたクラブの反対により、わずか1年で取りやめになった。
しかし昨年6月、イングランド・サッカー協会が専門家の意見を聞いて多用な色覚をもつ人への配慮を求めるガイドラインを発行した。ユニホームだけでなく、ボール、ビブスやマーカーコーンなどの練習用具、スタジアム内の案内板や入場券を買うためのサイトの色の使い方にいたるまで、細かく解説されている。その考え方は、急速に欧州各地に広がろうとしている。
日本では、デザインやウェブサイトの設計で配慮が行われており、見分けやすい交通信号の開発も始まっている。しかしスポーツ界ではまだこの問題は看過されたままだ。
「色の世界」であるサッカーには、この問題の研究や対策を率先して進める責務があるように感じる。
(2018年1月17日)
2020年の東京五輪で中心になって戦う世代の日本代表が本格的に動き出す。
2020年に「23歳以下」だから1997年以降の生まれの選手たち。昨年10月に森保一監督が就任、12月にタイで開催された親善大会に出場した時点では「U-20日本代表」だったが、年が明け、「U-21日本代表」としてアジアU-23選手権(中国)に臨む。初戦は今夜8時半(日本時間)開始のパレスチナ戦だ。
「自国開催の五輪。皆さんが望んでいることはメダル獲得だと思うので、そうできるようがんばりたい」
10月の就任会見で、森保監督はそんな発言をした。もちろん、東京五輪は日本のサッカー界にとって重要な大会である。日本中が五輪に夢中になっているときに、早々の敗退で「カヤの外」になってしまうのは辛い。しかし森保監督にはそれ以上に大きな使命がある。日本代表となってワールドカップで活躍する選手を育成することである。
これまで、日本は1996年から6回の五輪と5回のワールドカップに連続して出場を果たしてきた。ワールドカップも、ことしのロシア大会で6大会連続となる。そしてその両者に密接な関係があるのは明らかだ。
1996年以来の「五輪選手」は重複を除くと104人。そのうち40人がワールドカップにも出場している。しかし非常に興味深いのは、五輪の成績と選手のその後の活躍との関係性がほとんど見られないことだ。2004年のアテネ五輪と2008年北京五輪はどちらも1次リーグ敗退だったが、ともに18人の半数の9人をその後のワールドカップに送り込んだ。ベスト4の快挙を成し遂げた2012年ロンドン五輪から14年のブラジル・ワールドカップ代表入りしたのは7人だった。
反町康治監督が率いた2008年の「北京五輪組」は3戦全敗と散々の成績だったが、DF吉田麻也、MF本田圭佑、香川真司、FW岡崎慎司と、2010年代に日本代表を牽引するだけでなく欧州のトップリーグでスターとして活躍する選手たちを輩出した。
昨年11月に日本代表の欧州遠征の取材でベルギーのブリュージュに行ったとき、街角で森保監督を見かけた。あわてて昼食のハンバーガーをテーブルに置き去りにして追いかけ、呼び止めてしばらく立ち話した。「五輪メダルより日本代表の育成を」と話すと、「僕もそのつもりです」と力強い言葉が返ってきた。
「2022年のカタール・ワールドカップにひとりでも多く行ってもらえるような育成をしていきたい」
就任会見でも、森保監督ははっきりとそう語った。東京五輪代表は、「2020年代の日本代表選手育成」をテーマに追っていきたいと思う。
(2018年1月10日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。