「フットボール」は、巨大な「一族」である。
サッカーももちろん「フットボール」。日本サッカー協会の英語名は「Japan Football Association」である。
古代以来、ボールをける遊びや行事は世界の各地にあった。しかしフットボールの直接の祖となったのは、中世からイングランドを中心に欧州各地で行われた大衆の気晴らしゲーム。2つの村が総出で主にボールを足でけって相手の村の門に入れることを目指した。何百人、ときに何千人もの荒くれ者が参加し、ルールもほとんどなかった。やがて19世紀にイングランドで学校教育に採り入れられ、スポーツの体裁を整えた。
現在、世界では大きく分けて5種類の「フットボール」がプレーされ、それぞれ絶大な人気を誇っている。いずれも、19世紀の後半、日本で言えば明治維新前後に、イングランドの学校で行われていたフットボールを元に最初のルールがつくられ、以後、独自の発展を遂げたものだ。サッカーも、1863年にルールを制定して「フットボール・アソシエーション」が設立されたことで誕生した。「アソシエーション(協会)式フットボール」というのがサッカーの正式名称である。
もちろん、現在世界に最も広まっているのはサッカーだが、ラグビーも世界で広くプレーされて人気があり、アメリカンフットボール、オーストラリアンフットボール、そしてアイルランドを中心としたゲーリックフットボールはそれぞれの国や地域のナショナルスポーツになっている。
これらのフットボールを比較すると、現在ではルールも大きく違い、大げさに言えば「スポーツとしての哲学」まで違うように見える。それはそれぞれ独自に発展した一世紀半という時間がもたらしたものに違いない。国民性や民族的な好み、そして競技が積み重ねてきた名勝負などの歴史が、現在のそれぞれのフットボールのあり方やルールに色濃く反映されている。
しかしそれでも、現在の日本に江戸時代の文化が消しようもなく残っているように、すべてのフットボールには、共通する文化が存在する。
フットボールは体と体のぶつかり合いを許容するスポーツであり、ときにそれが原因でケガ人が出る。そしてどんなフットボールも、ルールを改正することでそうしたケガをできるだけ減らそうと努力を続けてきた。
どの「一族」のルールから見ても許容範囲を大きく逸脱した暴行が試合中に起こってしまったアメリカンフットボール。スポーツのプレーの範疇をはるかに超えた暴行を司法の手に委ねるしかないのは、「一族」全体の痛手だ。
(2018年5月30日)
2012年のイングランドのリーグカップで、前半37分までに2部のレディングに0−4とリードされたアーセナルが後半追加タイムに4−4に追いつき、延長の末7−5で勝つという大逆転劇があった。
「ゲーム・オブ・トゥー・ハーブズ(2つのハーフがある競技)」。サッカーはたびたびそう呼ばれる。Aチームが前半圧倒し、後半になると逆にBチームが一方的に優勢になるようなケースだ。
ワールドカップによる中断前のJリーグ最終節、5月20日に川崎×清水を見た。前半は川崎が楽々とパスを回して2−0とリード。しかし後半は逆に清水が圧倒的な優勢となり、シュートを連発した。川崎は相手のミスをついて1点を追加したが、内容としては清水が追いついてもおかしくない試合だった。
川崎の鬼木達監督は良いリズムで試合にはいり、3−0で勝ちきったことを評価した。一方、清水のヨンソン監督は後半の戦いぶりをほめた。
少し待ってほしい。後半の川崎はパスもつながらなかったし、前半の清水は相手ペナルティーエリアにも迫れなかったではないか。清水が後半反撃に出るのが予想できるなか、川崎はなぜ試合をしっかりコントロールできなかったのだろうか。そして清水はなぜ無抵抗なままで前半を過ごしてしまったのだろうか。
私が感じたのは、「試合運びの未熟さ」あるいは「幼稚さ」だった。「試合のはいり方」はよく言われるが、大事なのは、90分間でいかにもっている力を出し切るか、そのために何をしなければならないかだろう。川崎×清水は、両チームとも努力はしたが結果として「2つのハーフ...」になったわけではない。ともに相手からペースを取り戻すすべを知らなかったのだ。
世界のトップチームはハイペースで試合にはいり、前半20分を過ぎると少しペースが落ちるが、30分過ぎに再度上げ、そのまま前半を終える。そして後半も同じことを繰り返す。たとえ立ち上がりに相手ペースになっても、なんとかペースを取り戻そうと全員が必死に考え、努力する。
ワールドカップで日本が対戦するのは、そうした相手ばかりだ。そんなライバルたちに、前半あるいは後半だけでも「もったいない」内容の試合をしてしまったら勝機はない。戦術も大事だが、勝利を生むのはしっかりとした試合運びだ。いま何をしたら勝利につながるのか、試合のなかで全員が必死に考え、足と体を動かさなければならない。
前半37分に0−4となったとき、数多くのアーセナル・ファンが席を立った。だが選手たちはあきらめず、アーセナルは前半の追加タイムに1点を返した。それが史上まれに見る大逆転につながった。
(2018年5月23日)
ロシアで開催されるワールドカップの開幕(6月14日)まで1カ月を切った。1930年にウルグアイで第1回大会が開催されたワールドカップ。第二次世界大戦による12年間の空白をはさみ、88年目、第21回大会となる。
日本では、先月、日本代表のハリルホジッチ前監督が解任されて西野朗監督が就任したところで時計が止まっており、どんなサッカーをするのかだけでなく、どんなメンバーになるかさえまったく見えない混乱状況にある。しかし世界は確実に開幕へのカウントダウンにはいりつつある。
2006年ドイツ大会以来、12年ぶりに欧州の地で開催されるワールドカップ。欧州開催は過去に10回あるが、東欧での開催は初めてのことだ。しかも今回の開催都市には、ロシアでも「アジア地域」に属するエカテリンブルクが含まれている。たしかにロシアのサッカー協会は欧州サッカー連盟所属だが、この大会を単純に「欧州の大会」と言い切ることはできない。
サッカーは世界の「大衆」のスポーツであり、ワールドカップは大衆と大衆が直接的に交流する希有な機会ということができる。ロシアには国外から数十万人のファンが押し寄せるだろうが、異文化との交流で新たな世界を知る人も多いはずだ。
私も、短期滞在はあるが、ロシアに1カ月間も滞在し、しかもモスクワ以外の地方都市を訪れるのは初めての経験だ。それぞれ独自の歴史をもつさまざまな民族が入り乱れる国でどんな人びとと会えるのか、楽しみでならない。
「ロシア人」というと、私には、素朴で親切な心をもった人びとというイメージがある。それは「国家」としてのロシアのイメージとはかなり違う。世界中から訪れるファンは、そうした「ロシアの人びと」との交流を通じて、心からワールドカップを楽しめるのではないか。もしかすると、この大会は、政治的打算と駆け引きに満ちた「非核化交渉」よりはるかに世界平和に貢献するかもしれない。
1966年イングランド大会でワールドカップと出合い、1970年メキシコ大会を東京12チャンネル(今日のテレビ東京)の「ダイヤモンドサッカー」で見ながら「一生にいちどは行ってみたい」とあこがれた。それが、1974年西ドイツ大会で早くも実現し、以来、今大会で現地取材が11大会目。スタジアムで直接見た試合も、今回の開幕戦「ロシア×サウジアラビア」(モスクワ)でちょうど200試合となる。
西野監督率いる日本代表の戦いを報道の立場でサポートしつつ、今回も決勝戦までワールドカップを楽しみたい。開幕まであと1カ月。準備を急がなければならない。
(2018年5月16日)
「25年目の5月」だ。
1993年5月は、日本のサッカーにとっての「明治維新」であり、最大の歴史の変わり目だった。Jリーグのスタートである。
せわしない開幕だった。日本代表選手たちは5月7日まで中東のUAEで1994年ワールドカップのアジア第1次予選を戦い、帰国してすぐにJリーグ元年の開幕日を迎えた。
5月15日、東京の国立競技場で行われた「開幕」のヴェルディ川崎×横浜マリノス。キックオフ直前の尋常でない熱気。あれほどの期待と興奮の高まりは、それ以前にも以後にも経験したことがない。
25年前、あなたは何歳だっただろうか。どこで何をしていただろうか。そして25年後のことをどう考えていただろうか。私は42歳だった。開幕前後の嵐のようなサッカーブームのなかで、昼も夜もひたすらキーボードを叩いていた。25年後どころか、翌月のことすら考えられなかった。
1993(平成5)年は、2002年ワールドカップ日本招致の陰の立役者だった宮澤喜一内閣で始まり、7月の総選挙で「新党ブーム」があって38年ぶりに自民党が政権を失い、細川護煕首相の連立政権が成立した年だった。地価が大きく下落し、バブル経済の破綻が誰の目にも明白になった。Jリーグ開幕の3日後に「ウィンドウズ3.1日本語版」が発売されたばかりのパソコンは、まだ大衆化には遠く、私が一心不乱に叩き続けていたキーボードはワープロ専用機のものだった。
当時、日本サッカー協会の事務局は東京の渋谷区にある岸記念体育会館内の小さな1室にあった。その協会が10年もしないうちにワールドカップのホストを務め、都心に大きな自前ビルを所有するようになるなど、誰に想像できただろうか。「ドーハの悲劇」はこの年の10月のことであり、日本のサッカーはまだワールドカップで戦うことがどういうことなのか、想像すらできない時代だったのだ。
それから25年、日本のサッカーは大変貌を遂げた。初年度の8府県10クラブから、Jリーグは1部から3部まで38都道府県54クラブに拡大し、ビジネス面でも順調な伸びを見せている。ヨーロッパのトップリーグで10人を超す日本人選手が活躍し、夢のようだったワールドカップ出場もことしのロシア大会で6大会連続となった。すべて、国籍を問わず日本のサッカーに関わった人びとが、競い合い懸命に努力してきた結果だった。
だがそれでも、日本のサッカーは歩みを止めることはできない。世界も同じように、あるいはそれ以上に発展し、進歩しているからだ。本当の勝負は「次の25年」なのかもしれない。ただただ、積極果敢に挑戦を続けるだけだ。
(2018年5月9日)
4月27日に永眠した石井義信さん(79)は、誰にも分け隔てなく優しい人だった。
フジタ工業を率いて日本サッカーリーグで2回の優勝を果たし、1986年から2年間日本代表の監督も務めた。当時の選手たちの力を最大限に引き出してソウル五輪出場権獲得まであと一歩に迫った戦いは、監督としての力量を感じさせるものだった。
「エリート」にはほど遠かった。「サッカーどころ」の広島県出身だが、サッカーを始めたのは高校時代。無名高の県立福山葦陽高校卒業後に一般入社で東洋工業に入社、サッカー部の門をたたいた。当時の東洋工業は、日本代表の主将でもあったDF小沢通宏を中心に日本のトップクラスの戦力を誇っていた。
そうしたなかで、「素人同然」の石井さんは努力を積んでついにレギュラーとなり、守備的MF(今日で言えばボランチ)として1965年からの日本サッカーリーグ3連覇に貢献する。その間、日本代表にも選ばれている。
1968年はじめに28歳で現役を引退。東京支社に転勤になったが、サッカーは石井さんを手放さなかった。建設大手の藤田組(後のフジタ工業)の関連会社である藤和不動産の藤田正明社長が、「日本のサッカーを強くするにはプロ化が必須」と、自らプロを目指したチームを立ち上げることになったからだ。
熱心な誘いに、石井さんは生涯勤め上げる考えだった東洋工業を退職、コーチ兼選手として栃木県リーグ4部に加盟した藤和不動産の強化を引き受ける。特別措置もあり、4年目には日本リーグ1部に昇格、8年目にチームはフジタ工業に移管され、創立10シーズン目の1977年には日本リーグ初優勝を果たす。このチームこそ現在の湘南ベルマーレの前身である。実質的な「初代監督」だった石井さんは、まさにゼロからその基礎を築き、日本の強豪クラブのひとつに押し上げた人だった。
4月中旬、湘南ベルマーレは立派な「50年史」を発行した。ベルマーレ誕生は1993年。そこからの25年史ではなく、石井さんたち先人の奮闘に対するリスペクトから、あえて「50年史」とした。制作を担当した遠藤さちえさんは、完成を待ちかねるように一冊を石井さんの病床に届けた。
「ご本人は電話に出られませんでしたが、『とても喜んでいた』というお話を奥様から伺いました」(遠藤さん)
ページをめくると、一枚の写真が目を引く。1970年12月17日、日本リーグとの入れ替え戦で劇的な勝利を収めた直後の1シーン。そこには、右手を突き上げた31歳の石井さんがいる。その情熱、誠実そのもので、優しさのかたまりのような人柄は、決して忘れられることはない。合掌。
(2018年5月2日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。