アジアのサッカーが新しい時代にはいったのを感じる。
現在UAEで開催されているアジアカップは出場24チーム。5年前にこのプランが発表されたときには、大会のレベルを保つには多すぎると感じた。実際、今大会にはキルギス、フィリピン、イエメンという初出場国が名を連ね、ベトナム、インド、トルクメニスタン、パレスチナ、レバノンなど過去に数回の出場経験はあっても上位の経験のない国もあった。インドは4回目の出場で準優勝1回の記録をもつが、それは1964年のことだ。
ところが1月5日に大会が開幕して驚いた。これらの国が優勝候補の強豪を相手に大奮闘したのだ。インドが「常連」のタイに4−1で勝ち、フィリピンは韓国を相手に0−1の大奮闘。森保一監督率いる日本もトルクメニスタンに大苦戦を強いられた。
バスケットボールなどの人気の陰で、フィリピンではサッカー代表は「野良犬」とひどい呼ばれ方をしているが、エリクソン監督はかつてイングランド代表を率いたこともあるスウェーデン人の名将。
「負けたが、この善戦はフィリピン・サッカーの未来を変える」と奮闘を称えた。
フィリピン代表の大半は両親のどちらかがフィリピン人ではない。浦和レッズ・ユース出身の佐藤大介も、母親の祖国の代表として活躍した。アジアカップ出場を聞いて、世界の各地から「僕もフィリピンがルーツ。ぜひ代表に加えてほしい」という連絡が絶えないという。
フィリピンは残念ながらグループステージで姿を消したが、決勝トーナメントに進むチームが16に増えたため、ベトナム、キルギスなどがグループ3位で進出を果たし、ベトナムはラウンド?でヨルダンを相手に堂々たる攻撃的な試合を見せ、PK戦で勝って準々決勝進出を果たした。
ワールドカップでも1994年大会まで4大会採用されていた「24チーム制」はグループリーグで3位の6チームのうち4チームが次のラウンドに進めることもあって「緊張感を削ぐ」と不評だった。しかし今大会では、4つのグループで8チームが2試合を終わって勝ち点0だったが最終戦で勝てばラウンド16に進める可能性があったため、最後まで熱戦が続いた。
アジアサッカー連盟の総加盟国(47カ国)の半数以上が出場する「24チームのアジアカップ」は、予想外の成功だった。フィリピンなど代表チームへの期待が低かった国の代表に関心が集まることで、アジア各国のサッカー熱は急激に高まるだろう。そして何より、「弱小国」と見られていたチームが見せた想像を上回るハイレベルなサッカーは、アジア・サッカーの未来への大いなる希望だ。
© AFC
(2019年1月23日)
昨年のワールドカップ、ベルギー戦の後半追加タイムでの失点を深く掘り下げたNHKのドキュメントが、年末に話題を呼んだ。
しかし日本の敗因がカウンターアタックの「14秒間」だけにあったわけではなかったことが、VTRで紹介されたベルギー代表ロベルト・マルティネス監督の話で明らかになった。12日から14日まで高知市で行われた日本サッカー協会の「フットボールカンファレンス」でのことだ。
後半7分までに0−2とリードされたベルギー。しかしその13分後、マルティネス監督は冷静に手を打った。2人の長身MF、フェライニとシャドリの投入である。
「60分間最高のプレーをしていた日本をひっくり返すには、変化が必要だった。5バックぎみになっていたDFラインを4バックにし、ボールをサイドに出してからシンプルに両センターバックの背後をつくことにした」と、マルティネス監督は説明する。
驚くべきは、後半の途中、「タイムアウト」を取って指示したわけでもないのに、ベルギーの攻撃が魔法のようにスムーズに変化したことだ。それまで快調にパスを回して攻勢をとっていた日本が防戦一方となり、またたく間にヘディング2本で同点とされてしまったのだ。
「我々のベンチには、いろいろな特徴をもった選手がいた。2人の投入でチーム全体が私の意図を理解し、素早くプレーを変化させてくれた」
対する日本代表の西野朗監督も、リードした場合には相手がこうくるはずと予想していただろう。しかし西野監督の手元には、相手の狙いを無力化できる手駒はなかった。
ただし手駒の質や量が敗因というわけではない。状況の変化への「対応力」で、日本とベルギーの間に大きな差があった。2点先行した後の相手の変化に対し何をしなければならないか、日本選手たちが察知し、実行に移せていれば、リードしたままで試合を終わらせることができただろう。そしてその対応力こそ、4年後のワールドカップに向けて日本代表に突きつけられた最大の課題と言える。
ベルギー選手の対応力がどこからくるのか--。マルティネス監督はこう話す。
「教育だと思う。ベルギーの選手たちは例外なく3カ国語を話し、いろいろな国で、いろいろな監督の下でプレーしている。だから柔軟性と対応力が身についている」
日本のサッカー選手には数多くの長所がある。しかし同時に、足りない部分もたくさんある。最大の欠点は、指示を待たずに自分自身で判断し実行する力ではないか。テレビ的な「14秒のドラマ」よりも、後半20分からの劇的な試合の変化の背景にしっかりと目を向けなければならない。
(2019年1月16日)
日本代表チームはとても良い状態で2018年を終え、新しい年を迎える。
夏にロシアで行われたワールドカップでは8年ぶりにグループリーグを突破し、決勝トーナメント1回戦では、過去2回このラウンドに進出したときと比較して格段に良い内容の試合を披露した。そして大会後に西野朗監督から引き継いだ森保一監督は、思い切った若手起用により短時間で新世代の期待あふれるチームを魔法のようにつくった。
しかしひとつ間違っていれば、真逆の結果もあった。ワールドカップで惨敗を喫し、希望のない状態で年末を迎える可能性のほうが高かったかもしれない。それを逆転させたのは、2つの、「ギャンブル」にも似た決断だった。
ひとつはワールドカップ開幕をわずか2カ月後に控えた4月上旬、ハリルホジッチ監督の解任だ。すでに「最終強化試合」を終え、残すは大会直前の3つの調整試合だけ。この状況で、日本サッカー協会の田嶋幸三会長は監督交代を決断、それまで技術委員長だった西野朗氏にワールドカップでの指揮を託した。
「1%でも2%でもワールドカップで勝つ可能性を高めるための決断」(田嶋会長)は、H組を突破し、強豪ベルギーを追い詰めた決勝トーナメント1回戦で報われた。
そして第2は、グループリーグ最後のポーランド戦、突破を決めた西野監督の「0−1の負けのままでいい」という、これこそ「ギャンブル」そのものの決断だ。
後半35分を回ったときセネガルもコロンビアに0−1だった。もしもこのままなら、首位はコロンビア、2位を日本とセネガルで争う。この2チームは勝ち点、得失点差、総得点、直接対決の結果も同じ。通算警告数の少ないほうが上という順位決定方法が大会史上初めて使われる。日本は4回、セネガルは6回。西野監督はセネガルがコロンビアに追いつけないことに賭けた。そしてボールを保持しても攻めないことを決断した。
最後の交代としてFW武藤に替えてボランチの長谷部を投入。長谷部が監督の指示を徹底し、日本が前に出さずにDFラインでパスを回し始めると、やがてポーランドも呼応、以後はともに攻撃的なプレーはなく、試合を終えた。
この行為に対する批判はあって当然だ。しかしセネガルが同点に追いついたら何もかも失うという巨大な恐怖を乗り越えての西野監督の決断を安易にアンフェアと非難することは、私にはできない。
2つの決断があったからこそ、日本のサッカー史に残るベルギー戦があり、秋以降の「森保ジャパン」の成長がある。2018年の日本サッカーを振り返るとき、白刃を踏むような2つの決断を忘れることはできない。
(2018年12月26日)
コパ・アメリカ(南米選手権)はどうなるのだろうか。
12月11日、日本サッカー協会は来年の日本代表のスケジュールを発表、A代表の活動のなかに6月14日から7月7日までブラジルで行われるコパ・アメリカを入れた。森保一監督は、「南米には学ばなくてはいけないことがまだまだある」と期待を語った。
ところがその3日後にJリーグが来年の基本的な日程を発表すると、なんとコパ・アメリカの大会期間中に第15節からの4節が組み込まれている。6月中旬から下旬にかけては、川崎、広島、鹿島、浦和が出場するアジア・チャンピオンズリーグ(ACL)のラウンド?も組まれている。
南米サッカー連盟の選手権であるコパ・アメリカだが、南米連盟はわずか10しか加盟国がないため、1993年大会以来、地域外から2カ国を招待し、12カ国で開催してきた。1999年には南北のアメリカ大陸以外から初めて日本代表が参加。日本は2011年にも出場が決まっていたが、東日本大震災の影響で辞退を余儀なくされた。
昨年5月、南米連盟がことしの大会に日本を招待することを発表。しかし大陸別の選手権に選手を招集できるのは年にいちどだけという国際サッカー連盟(FIFA)の規定があり、1月のアジアカップに出場した選手を強制的に呼ぶことはできない。Jリーグの協力は不可欠だった。
1999年にコパ・アメリカに出場したときにはJリーグの日程を2カ月間以上空けた。この当時、国外のクラブに所属する日本代表は中田英寿ただひとりで、チーム編成上の問題はなかった。2011年もJリーグは7月に約1カ月間日程を空け、日本協会は「国内組」だけで出場する計画だった。しかし震災によりJリーグは1カ月半も中断。その日程を7月に入れざるをえず、辞退という苦汁の決断となった。
ところが今回は最初からJリーグの日程とバッティングしている。「海外組」も「Jリーグ組」もなしに日本代表を組むのは不可能だ。
そもそも、世界のどこでも代表チームを運営するサッカー協会とプロリーグは日程を巡って利害が衝突するのが普通の形と言える。しかし日本はこれまで協会とJリーグが非常に良い協力関係を築いてきた。互いに相手の立場を理解し、妥協し合うことでリーグも代表もなんとかやってきた。日本代表とJリーグは、日本のサッカーに不可欠な2つの「動輪」だからだ。
来年のコパ・アメリカを巡って、その「協力関係」はどこに行ってしまったのか--。どちらが正しい、正しくないという問題ではない。2つしかない「動輪」が別の方向を向いてしまったら、日本のサッカーは迷走するばかりだ。
(2018年12月19日)
ベルギー代表のMFアクセル・ウィツェル(29)は、11月に代表出場百試合を超えた。
19歳で代表にデビューしたが、どちらかといえば地味な存在だった。しかしことしのワールドカップでは中盤のリーダーとして成熟したプレーを見せてベルギーの快進撃を牽引し、高い評価を得た。
大会後、中国の天津権健からドイツのボルシア・ドルトムントに移籍。ドルトムントは現在無敗でブンデスリーガの首位を快走しているが、それが成功率94%という驚異的なパスの精度でチームを一体化させるウィツェルの存在に負うところが大きいと、多くの専門家が指摘している。
「中国でのプレー経験がウィツェルをワールドクラスの選手に脱皮させた--」。こんな興味深い記事を、ドイツで最大の発行部数を誇る週刊誌『シュピーゲル』のWEB版が先週掲載した。
日本代表がことし3月に試合をしたリエージュで生まれたウィツェルは、地元の名門スタンダールでデビュー。22歳のときにポルトガルのベンフィカに移籍、翌年にはロシアのサンクトペテルブルクに移った。その間もベルギー代表に選ばれ、2014年にはワールドカップ出場も果たした。
だがイタリアの名門ユベントスからオファーがあったと報じられた2017年1月、28歳目前の彼が選んだのは中国の天津権健。26億円と伝えられた巨額の年俸提示に抗えなかったと、後に彼自身が認めている。「これで表舞台から下りた」と多くの人が考えた。
しかし彼の才能を満開にさせたものこそ、中国での経験だった。かつては前へ前へと突進していくMFだった。だが欧州のようなマークの厳しさがないなか、彼は中盤の中心にポジションをとり、正確なパスで攻撃と守備を結びつけることを学んだ。シュピーゲル誌が「ゲーム・デザイナー」と表現したこのプレーこそ、ことしの夏にワールドカップでベルギーを躍進させ、秋にはドルトムントを快走させる原動力だった。
振り返れば、かつてはJリーグ所属でワールドカップに出場したり、Jリーグから欧州に移って世界的な名声を得た外国人選手が何人もいた。
フランスで腐りかけていたFWエムボマは、G大阪でストライカーとして目覚め、以後2回のワールドカップでカメルーン代表を牽引した。韓国の朴智星(パク・チソン)は、京都で才能を開花させ、後にマンチェスター・ユナイテッドで欧州チャンピオンズリーグ優勝に貢献した。
外国人選手枠を広げたJリーグ。だがファンの心を本当に熱くさせるのは、峠を過ぎたビッグネームではなく、Jリーグで伸びて世界に羽ばたく中堅や若手のはずだ。中国で成熟のチャンスをつかんだウィツェルのように...。
(2018年12月12日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。