サッカーの話をしよう

No.701 旅をする存在

 サッカー選手とは旅をする存在―。そんな言葉が浮かんだ。
 ワールドカップ予選を戦う日本代表を追ってオマーンからタイへと回ってきた。オマーンの首都マスカットからバンコクまでは日本代表と同じ、試合翌日の深夜便だった。早朝バンコク空港に到着すると、選手たちは何ごともないように自分の荷物をピックアップし、ホテルに向かうバスに乗り込んでいった。
 6月にはいって2日に横浜で会心の試合を見せてオマーンを撃破し、その翌日夜には日本をたってUAE経由でオマーンにはいった。そして猛烈な暑さのなか7日に1-1で引き分けると、また翌日は深夜の移動。わずか1週間のうちにハードな試合を2つこなし、機中泊も2回という厳しい日程だ。
 選手たちの日常も、所属クラブの日程に合わせて試合と移動の連続となる。
 「昨年1年間、自宅より、遠征先などのホテルで眠ることのほうが多かったですね」
 そんな話を、ひとりの日本代表選手から聞いたことがある。旅から旅への生活でもしっかりと自己管理できる選手でなければ、代表選手どころか、プロにもなれないのだろう。
 四半世紀近く前に、アルゼンチンの名門インデペンディエンテの遠征に同行したことがある。ブエノスアイレスから北西へ約300キロのロサリオへの遠征。飛行機なら1時間だが、空港での待ち時間などを選手たちがいやがるので、バスでの遠征だという。そのバスに同乗してもいいと監督から言われたのだ。
 バスの中はまるで修学旅行だった。冗談を言い合い、誰かをサカナに大笑いした。網棚に上がる選手までいたのには驚いた。まるで修学旅行だった。
 しかし宿舎に着くと、その選手たちが打って変わったように静かになった。それぞれの部屋のキーを渡されると、言葉少なに自室にはいっていった。
 子どものようなばか騒ぎも、ホテルに着いてからの静けさも、いずれも「旅」をできるだけストレスの少ないものとし、試合に向けて気力を充実させるための「仕掛け」だった。そういう術(すべ)を身につけけなければ、長いシーズンを乗り切ることなどできないのだ。
 今日、宿舎での日本代表の生活ぶりを見ることはできない。しかし移動やホテルでの生活のなかですでに勝負が始まっていることを、選手たちはよく心得ているはずだ。
 
(2008年6月11日)

No.700 長沼健さんを悼む

 巨星逝く―。
 6月2日、日本サッカー協会最高顧問の長沼健さんが亡くなった。享年77歳。まだまだ日本のサッカーに不可欠な存在だった。
 1930年広島生まれ。中学時代に被爆したが幸運にも助かり、戦後、瓦礫(がれき)の中でサッカー部を再興した。そして旧制の全国中学大会(現在の高校選手権)で優勝、以後、関西学院大学、中央大学、古河電工と、日本サッカーのひのき舞台を歩き続けた。
 戦争後現代に至るまで、日本サッカーのマイルストーンは、その大半が長沼さんによって刻まれたと言っても過言ではない。
 60年、古河電工の中心選手として実業団に初の天皇杯優勝をもたらす。東京、メキシコの両五輪では代表監督を務め、メキシコで銅メダル。その間に日本サッカーリーグ創設に奔走し、70年代半ばには日本協会専務理事に就任、短期間で協会財政を立て直した。
 Jリーグ誕生時に協会側の調整役となり、94年協会会長に就任。96年ワールドカップ招致成功、98年には日本代表を初めてワールドカップに送り出す。大会後は2002年ワールドカップ組織委員会副会長の仕事に専念して大会を成功に導いた。世界広しといえどもこれほど広範な活躍を見せたサッカー人は類がない。まさに日本サッカーの巨星だった。
 「親分肌」の一方、誰に対しても接し方は穏やかだった。サッカー記者として何十回もインタビューに応じてもらったが、駆け出し記者時代にも、50代の記者になっても、長沼さんの話しぶりはまったく変わらなかった。その豊かで温かな人間性にこそ、リーダーとしての本質があった。
 あるとき、こんな話をしてくれた。
 「(60年代の)代表合宿所の昼休み、芝生に寝ころんで選手たちととりとめのない話をしていたとき、自分の人生でいまほど幸福な思いを味わえるのは後にも先にもないんじゃないかと思いましたね。サムライが集まって、ひとつの目標に向かって確実に進んでいる。そのなかのつかの間のやすらぎ...。その幸福感のお返しというのが、その後の私の仕事のバックボーンになっているんですよ」
 ワールドカップの招致活動は地球を何周もする忙しさだった。協会会長時代には苦労も多かった。しかしけっして苦悩の表情は見せなかった。きっといま、長沼さんは、代表合宿所の昼休みのような満ち足りた静けさのなかにいるに違いない。
 合掌。
 
(2008年6月4日)

No.699 国際親善試合の危機

 「国際親善試合」が死にかけている。
 コートジボワールとパラグアイを迎えてのキリンカップ。日本代表にとっては6月のワールドカップ予選4試合に向けてチームづくりの重要な機会だった。しかし来日2チームは、いずれも大幅に主力を欠いていた。
 代表チームが出場する国際試合には「公式戦」と「親善試合」がある。ワールドカップやその予選、アジアカップやその予選などが主な公式戦。それ以外が親善試合だ。
 サッカー史上最初の国際試合はスコットランド対イングランドの親善試合。1872年11月30日にグラスゴーで行われた。以来半世紀以上、国際試合の大半は親善試合だった。ワールドカップが始まるのは1930年のことだからだ。
 かつては、親善試合にも大変な重みがあった。「20世紀最高の試合」とまで言われるイングランド対ハンガリー(1953年)も親善試合だった。当時の親善試合は、文字どおり国際親善の推進役を果たしていた。
 だが現代、親善試合は重みどころか「やっかいもの」扱いだ。勝敗に大きな意味がない試合に、なぜ見返りもなく大事な選手を出さなければならないのかと、選手をかかえるクラブは不満を訴える。選手も、休むか、クラブの練習に出ていたほうがいいと考える。
 この傾向は、近年急速に財力をつけ、同時に過密日程になったヨーロッパのクラブに強い。主力の大半がヨーロッパでプレーするコートジボワールのような国は、親善試合にベストチームを集めるのは至難の業だ。
 国際サッカー連盟(FIFA)は、クラブの日程と競合せずに代表チームの試合を組めるよう、全世界に共通する「国際試合カレンダー」を定めた。ところがこのカレンダー自体に「親善試合軽視」の思想がある。
 2014年まで決まっている「カレンダー」の考え方では、親善試合は前々日に集合して試合をするぐらいしか日程を取れない。このままでは、遠くない未来に親善試合ができなくなる恐れもある。
 現代の親善試合は単純ではない。強化のために必要と組む場合もある。その一方で、カネ儲け目的が明白な試合(近年のブラジル代表が好例だ)もある。
 協会財政を潤すためだけの試合では、クラブや選手からそっぽを向かれるのは避けられない。親善試合の要件や基準を明確にし、誰もが喜ぶ形で再構築することが、親善試合生き残りの唯一の道だ。
 
(2008年5月28日)

No.698 資源のむだづかい

 「資源のむだづかい--」。試合を見ながら、なんどもこんな言葉が頭をよぎった。
 5月17日のJリーグ浦和対G大阪。ホームの浦和は渾身の攻めを見せたが、G大阪の守備は固く、崩しきれない。押し込んではいても、点がはいりそうなのはFKやCKなどのリスタートぐらい。その攻撃を見ながら浮かんできたのが冒頭の言葉だった。
 味方がボールを受けに寄ってきてもなかなかパスが出ない。タイミングよくパスを受ける動きをしても、ボールをもった選手はその動きを「おとり」に使い、自分へのマークを外してドリブルで進もうとする。そうしたプレーが頻繁に出た結果、浦和の攻撃は相手の懸命な守備にとらえられてしまったのだ。
 Jリーグレベルの試合になると、どちらのチームもある段階までは苦もなくパスを回しているように見える。しかし実際には、互いに一瞬でもスキがあればボールを奪回しようと狙っている。パスがつながっていくのは、ボールを保持した側がいろいろな仕掛けを講じて次々とパスの受け手をつくりだしているからなのだ。
 その仕掛けの重要なひとつが、スペースをつくり、そして生かすことだ。たとえばマークを引き連れてひとりが動く。すると彼がいた場所が誰もいない状態になる。そこにすかさず別の選手が走り込んでパスを受ける。
 ひとりでもスペースはできる。前に出る動きをしておいてマークを動かし、急に反転して最初に自分がいたところに戻ってパスを受けるのだ。
 このように、スペースは攻撃側の重要な味方と言える。だが大きな問題がある。「ナマもの」と言っていいほどこわれやすいのだ。走り込みやパスが少し遅れると、あっという間に相手選手がはいってきて消してしまう。
 それはあたかも電力資源のようなものだ。電力はどんな仕事でもしてくれるが、貯めておくことはできない。つくった瞬間に使われなければ、永遠に使うことはできない。
 G大阪戦の浦和には、スペースをつくってパスを受ける動きをしてもそれを生かすパスがなかなか出なかった。一瞬パスが遅れたために、受け手が相手に厳しい当たりを受けることも多かった。
 その原因は単純ではないのだろう。しかしスペースを的確に使えないチームが勝つのは難しい。資源は無限ではないのだから...。
 
(2008年5月21日)

No.697 痛がり屋の文化

 5月21日のUEFAチャンピオンズリーグ決勝戦はイングランド同士の対戦となった。イングランドのクラブ、そしてプレミアリーグは、いまや人気だけでなく実力でも世界を席巻する勢いにある。
 プレミアリーグの最大の魅力はスピード感だ。プレーが止まる時間が短く、FKやCKが実にすばやく行われる。そしてJリーグとの大きな違いは、ファウルを受けて痛がっている選手をほとんど見かけないことだ。
 Jリーグでは、得点を見ない試合はあっても痛がっている選手を見ない試合はない。反則を受けて倒れる。そこまではプレミアリーグも同じだ。しかしJリーグでは、倒れたままの選手が1試合に何人もいるのだ。
 深刻な負傷なのかと思うとそうでもない。プレーが止められ、レフェリーが寄ってきて何か話すと、平気な顔をして立ち上がる。何割かは担架で運び出され、タッチラインの外に出るとすぐに立ってピッチに戻りたいとアピールする...。
 サッカー選手であれば、子どものころから何万回もの接触プレーの経験がある。痛みが骨折などの大けがなのか、ただその瞬間痛いだけなのか、ほとんどの場合即座に判断できる。それなのに、プレーを続けられないけがではないとわかっていても、大げさに痛がって見せるのである。
 その結果、Jリーグの試合はたびたび中断する。担架が1試合で何回もピッチにはいるのは、世界広しといえどもJリーグだけなのではないか。あまりに頻繁に使われるので、担架に広告を掲載しているクラブさえある。
 「痛がり屋文化」の背景には甘えの精神がある。ママが優しい言葉をかけてくれるまで起き上がらない子どもと同じだ。プロのサッカー選手ではみっともないだけだ。
 「痛がり屋」を見るたび、、私はイングランド代表FWオーウェンを思い出す。06年ワールドカップのスウェーデン戦、彼は左タッチライン近くでタックルを受けて倒れた。試合開始からわずか1分。ひどい負傷であることは明白だった。しかしその直後、彼は信じ難い行動を取った。苦痛に顔をゆがめながら、自ら這ってタッチライン外に出たのである。もちろん、試合は中断されなかった。
 彼の負傷は、左ひざの前十字靱帯(じんたい)断裂。全治5カ月という重傷だった。
 Jリーグの会場で、私は何回もこう叫ぶ。
 「立て! 痛いだけだろう?」
 
(2008年5月7日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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