ネイマールやガブリエルジェズスを中心とした技術とスピードだけでなく、状況判断やフィジカルでも圧倒された日本代表のブラジル戦(11月10日、リール)。だが思わず声を上げるほど驚いたのは、試合の終盤近く、後半40分の1シーンだった。
前半3点を叩き込まれた日本だったが後半に1点を返し、なんとかもう1点をと相手ボールを追い回している。ブラジルも、交代出場の選手たちが意欲的な動きを見せる。
左タッチに近いハーフラインをはさんだ地域。DFアレックスサンドロからタッチライン際のFWドウグラスコスタに渡る。その瞬間、内側にいたMFレナトアウグストが前方のスペースで受けようと走る。日本のMF井手口が対応する。だがドウグラスコスタはスペースへではなく動いているレナトアウグストに向かって真横にパスを出した。これが合わず、ボールはピッチ中央に向かって転がる。
その先にはブラジルMFカゼミロと日本MF森岡。ふたりともプレー時にはほぼ立止まっていた。だがパスミスになった瞬間に動き出したのはカゼミロただひとり。森岡が反応したのはカゼミロが2歩走った後だった。森岡が取れば絶好機の場面だったが、カゼミロは何事もなかったかのように味方につないだ。
森岡の動きが特に緩慢だったとは思わない。ただカゼミロのルーズボールへの反応があまりに速かった。その差こそ、この試合の真実だった。
サッカー選手は予測によって動く。ボールをもった選手の動きとともにその周囲の両チーム選手の動きを見て、ボールをもった選手の狙いを読み、自分の動きを決める。だからプレーが行われる瞬間には動き始め、次の状況に対応することができる。
だがときに予測と大きく違うことが起こる。相手の思いがけないプレーによるときもあるが、多くは、ミスやリバウンドで読みとまったく違う方向にボールが飛ぶときだ。そんな状況への対応の速さの違いが、しばしば勝負を決める重要な要素となる。
では速い反応はどう生まれるのか。最大のポイントは試合への集中だ。一瞬一瞬で変わる状況を常に目でとらえ、視覚と行動をダイレクトに結び付ける。「見て、考えて、行動」では遅い。反応の速さを生むのは、見た瞬間に体が動くほどの高い集中力だ。
技術やスピードやフィジカル能力、あるいはワールドカップ優勝5回という歴史や選手の名声でブラジルが日本を圧倒したのではない。両チームの最大の差は、試合に対する集中度だった。
この差を、日本代表選手たちはどう感じただろうか。そしてそれを埋めるべく、翌日のトレーニングから努力を開始しただろうか。
(2017年11月22日)
日本代表を追ってフランスのリールからベルギーのブリュージュまで移動した際、乗り換え駅で途中下車した。フランスとの国境に近い人口7万5000の小さな町コルトレイク。ベルギー1部リーグのクラブがあった。
「実は今週水曜日に監督を代えたばかりなんだよ」
KVコルトレイクは現在16チーム中15位。11シーズンぶりの2部降格を阻止するためにグレン・デベック新監督の手腕に託したチームマネジャーのクロード・ゲゼルさんは、苦い顔でそう話した。
116年の歴史をもつKVコルトレイク。しかし大都市のクラブを相手になかなか華々しい活躍はできず、2012年にベルギー・カップで決勝に進出したのが唯一のハイライト。それでもここ10年間は1部の地位を確保し、2010年には5位というクラブ史上最高の成績を残した。
市の歴史はローマ時代までさかのぼる。しかし20世紀最初の年に誕生したKVコルトレイクが本当に市民のクラブになったのは、第2次世界大戦後だった。連合軍の爆撃からかろうじて直撃は免れたものの、市営の陸上競技場は使い物にならなくなっていた。そこで市はサッカー専用スタジアムにすることを決め、計画を進めた。だがすぐに困難に直面する。資金難と資材難のダブルパンチだった。
立ち上がったのは市民だった。苦しい生活のなかから建設基金を寄付し、それだけでなく多くの人がボランティアとして建設作業に参加したのだ。スタジアムは15カ月をかけて1947年8月に完成した。14世紀初頭にこの町を舞台に地域の義勇軍がフランス国王軍を撃破した「金拍車の戦い」(その英雄が先週ブリュージュのスタジアム名で紹介したヤン・ブレイデルである)を記念して「金拍車(グールデンスポーレン)スタジアム」と名付けられた。スタジアムの北側には、練習グラウンドもつくられ、完全にKVコルトレイクの「家」となった。
「アカデミー(育成組織)は約250人。だが才能のある少年はビッグクラブにもっていかれてしまう。ベルギーは小さな国だからね」とゲゼルさん。飛躍には、新スタジアムが必要と力説する。
「市民や市の支援でさまざまな改修をしてきたが、現在の収容は約1万。施設も古ぼけてしまった。新しくオーナーになったマレーシア人実業家が5年以内に新スタジアムをつくると言っているので、大いに期待している」
市民の愛情と支援がプロサッカークラブの根源的な力であることは、永遠の真実だ。しかし現代の「プロサッカー・ビッグビジネス時代」での生き残りは、有効な投資を呼び込めるかどうかにかかっているのかもしれない。
チームマネジャーのゲゼルさん
(2017年11月15日)
日本代表は欧州遠征でブラジル、ベルギーという強豪と対戦する。その第2戦、ベルギー戦が行われるのがベルギー北西部のブルッヘ(ブリュージュ、ブルージュ)。世界遺産に登録されている中世の町並み、そして市内に張り巡らされた美しい運河で知られる町だ。都市の名は、この運河にかかる無数の橋に由来するという。
この町の西の郊外に、今回の試合の舞台となる「ヤン・ブレイデル・スタジアム」がある。1975年建設。当初の名称は「オリンピアスタディオン」だったが、2000年欧州選手権のための大改修にあたり、この町があるフランドル地方に対するフランスの圧政に反抗した14世紀の英雄の名をにちなんで、98年に改称された。現在の収容数は2万9062人。独立した4つのスタンドで囲まれたサッカー専用スタジアムである。
何の変哲もない中規模スタジアムに見える。だが大きな特徴がある。「スタジアム・シェアリング」。このスタジアム完成以後、2つのクラブが非常に良い関係で「共用」しているのだ。両クラブの事務所もスタジアム内にある。
所有はブルッヘ市。使用者はこの町の2つのプロクラブ「クラブ・ブルッヘ」と「サークル・ブルッヘ」だ。1891年創立、青と黒の縦じまユニホームを着る「クラブ」は、ベルギー・リーグ優勝14回を誇る名門。今季もリーグ首位を独走している。一方、5年遅れて創設された「サークル」は緑のユニホーム。浮き沈みがあって現在は2部所属だが、1980年代には欧州の舞台でも活躍した。
「クラブ」は1981年の第4回キリンカップで来日したことがある。福島県郡山市での準決勝で日本代表に2-0で勝ち、決勝戦では同じクラブカラーのインテル・ミラノ(イタリア)と対戦してやはり2-0で勝って見事優勝を飾っている。
その5年後の1986年5月3日土曜日は、ブルッヘ市民にとって最も忘れ難く、誇りに満ちた日となった。連覇を目指す「サークル」と2回目の優勝を目指す「クラブ」、この町が誇る両クラブが、ベルギー・カップの決勝戦で対戦。この大会史上初めて、決勝戦の会場が首都ブリュッセルを離れ、オリンピアスタディオンで行われたのだ。
2本のPKをフランス代表FWパパンが決めた「クラブ」が3-0で勝った。だが試合後、ブルッヘ市内は、どちらのファンも入り交じって夜遅くまでお祭り騒ぎが続いたという。10年後にも決勝で両クラブが対戦したが、ブリュッセルでの開催だった。
世界には、ミラノなどいくつかの「スタジアム・シェアリング」がある。しかし「良好な関係」において、ブルッヘの右に出る例はない。
※一般的には「ブリュージュ」(Bruggeのフランス語読み)と表記されますが、この町はベルギーでもフラマン語(オランダ語)地域のため、現地では「ブルッヘ」に近い発音になります。
2000年欧州選手権時のブルッヘのスタジアム
(2017年11月8日)
優勝争い、昇格争い、そして残留争い...。シーズン終盤を迎えたJリーグ。J1からJ3まで合わせて20試合が行われた10月29日は、日本の南岸に沿って西から東へ走り抜けた台風22号に襲われた。
J2の名古屋グランパス×ザスパクサツ群馬は、ちょうど台風が紀伊半島の沖を通過中の試合。強風と激しい雨で前半23分に試合が中断され、再開までなんと54分間かかった。J3のアスルクラロ沼津×セレッソ大阪U-23では、雷が近づいたため後半に19分間の中断があった。
前日からの雨、そしてこの日の豪雨で、どのスタジアムも芝生に水が浮き、通常の状態からほど遠かった。グラウンダーのパスが多いサッカーでは、水がたまるとボールがそこで止まってしまい、思いがけないことが起こる。
だがいろいろな試合を見比べてみると、最もピッチ状態が悪かったのは、私が取材したJ1の柏レイソル×川崎フロンターレ、日立柏サッカー場での試合だったようだ。ウォーミングアップ開始前から大きな水たまりがいくつもあったが、水たまりに見えないところも実際には水が浮いており、ペナルティーエリア内でもボールを落とすとまったくバウンドしなかった。
アップ終了後、キックオフを30分間遅らせ、手押し式排水機5台をフル稼働させて排水作業が行われた。最後には雑巾まで持ち出した作業には頭が下がったが、水たまりは見えなくなったものの試合が始まるとボールはいたるところで思いがけない止まり方をし、選手たちを苦しめた。
大雨というと、1993年の国立競技場を思い出す。日本で行われたU-17ワールドカップの最終日は、午前中まで台風の影響で豪雨。主催の国際サッカー連盟(FIFA)は3位決定戦を中止にして決勝戦だけにする方針を決めた。しかし日本側はとにかく競技場に行って最終決定をしようと主張。昼すぎに雨が上がって競技場に行くと、ピッチは何もなかったかのように光り輝いていた。FIFAが2002年ワールドカップを日本に任せてよいと確信した瞬間だったという。
現在のJリーグの「スタジアム検査要項」のピッチの項には、「水はけがよいこと」という抽象的な基準しか書かれていない。水はけを良くする工事自体は複雑なものではないが、工事から何年かすると当初の排水能力を保てなくなることもあり、数値的な基準をつくることが適切かどうか難しいところだという。
年々過激さが増し、「想定外」が続出する印象がある日本の自然。そのなかで「雨に強いピッチ」をどうつくり、維持するか―。全国のスタジアムが協力して取り組むべき課題ではないだろうか。
柏では懸命に作業が行われたが...
(2017年11月1日)
アフリカ地区の11試合と他地区のプレーオフ12試合、計23試合を残すだけとなったワールドカップ予選。敗退が決まった国のなかで私が最も気にしているのがアメリカだ。
アメリカには、1930年第1回ワールドカップ3位、1950年大会でイングランドを破るという大番狂わせの歴史があるが、以後は「サッカー不毛の地」と言われてきた。しかし1994年大会の自国開催が決まると1990年大会で40年ぶりに予選を突破し、以後7大会連続出場。2002年にベスト8、2010年、2014年と連続して1次リーグを突破し、世界に伍する力をつけてきた。国内でも1996年にプロリーグMLSが発足して人気を高めている。
現時点のFIFAランキングは27位。44位の日本よりだいぶ上だが、過去20年間でサッカーが盛んになった新勢力として共通するものがある。32年ぶりの予選敗退でどんな影響が出るのか―。遅かれ早かれ日本にも必ずくる事態。反応が気になったのだ。
ショックは大きかったが、ヒステリックな反応は意外になかった。冷静な分析のなかで、ポール・ガードナーというジャーナリストの「クリンスマン前監督時代の失敗」という論評が目についた。
6カ国で争われた北中米カリブ海地区最終予選。アメリカは初戦ホームでメキシコに1-2で敗れ、第2戦はアウェーでコスタリカに0-4の完敗でクリンスマンは解任、アメリカ人のブルース・アレーナが監督となった。だが立ち上がり連敗のハンディを取り戻すことはできなかった。
1990年ワールドカップで西ドイツが優勝したときのエースだったクリンスマン。2006年に自国開催のワールドカップでドイツを3位に導いた後に2011年にアメリカ代表監督に就任し、2014年ブラジル大会ではベスト16進出の成績を残した。
だがクリンスマンはアメリカ・サッカーを信じていなかったと、ガードナーは書く。
MLSが低レベルだから代表も強くなれないと公言してはばからなかった。アメリカに大勝したコスタリカは約半数がMLSの選手だったのだが...。アメリカ育ちの選手の能力を認めず、何人ものドイツ生まれの選手に強引にアメリカ国籍を取らせて代表にした。アメリカ・サッカーを見下したことが敗因だった。
何やら人ごとではないような...。「Jリーグが低レベルだから」と言って「欧州組」ばかりに頼り、試合に出ていなくても欧州の一流クラブ在籍というだけで先発させて痛い目にあった日本代表監督もいた。アメリカでいま何が起こっていて来年のワールドカップ時にどうなり、その後どう進展していくのか、MLSにどう影響するのか―。日本のサッカー界はきちんと検証しておく必要がある。
(2017年10月25日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。