鹿島アントラーズがホームとするカシマスタジアムの2階席に上がると、屋根とスタンドの間に鹿島灘が見える。海までわずか1キロあまり。夏場にはときおり濃い海霧が発生するが、Jリーグの試合がこれほどの「直撃」を受けたのは初めてだった。8月5日の仙台戦、前半20分ごろにピッチを覆い始めた霧で2回の中断をはさみながら、なんとか試合は終了した。
まず驚いたのは、オレンジ色のカラーボールの登場だった。前半25分過ぎに使用球がすべて代えられた。Jリーグによれば「雪対策」としてつくられ、主に北国のクラブに配布されているもの。鹿島は過去に豪雨や霧でボールが見えにくくなったことがあり、用意していたという。それまでの白いボールと比較するとずっと見えるようになった。
飯田淳平主審は前後半1回ずつ試合を止めた。前半は28分過ぎから約3分間、後半は16分過ぎから約10分間。前半は「追加タイム」に加算し、後半は時計を止めた。メインスタンド上部から俯瞰(ふかん)する映像では、その時間帯にはピッチが中央付近までしか見えず、逆サイドに展開されると選手もボールもまったく見えなかった。それでもプレーが続いていたのは、ピッチレベルではある程度見えていたからだろう。
飯田主審の判断基準は明確だった。その第一は選手の安全であり、もうひとつは正確な判定である。副審が逆サイドのタッチラインまで見通せなければオフサイドの判定を下すことができない。
彼は運営担当者と話し、両チームの主将を呼んで状況を説明した。主将以外の選手が質問にきてもその都度しっかり対応した。両監督とも話した。審判、選手、監督、誰もが理解し合い、協力し合って試合を成立させようという姿勢は、感動的ですらあった。
後半にあった10分間の中断後の時間表示をどうするかが徹底されていなかったこと、放送局にも伝えられていなかったことでやや混乱があったが、選手たちは中断を含めて59分間近くになった後半を最後まで集中して戦った。この状況下、誰もが全力を尽くした立派な試合だった。
ただ、選手や観客の安全、正確な判定が可能かのほか、もうひとつ「判断基準」が必要だったのではないか。「観戦可能か」という視点だ。スタジアムとテレビでたくさんの人がこの試合を楽しんでいた。どこにボールがあるかさえわからない状況なら、試合は「商品」として成り立たないのではないだろうか。
落雷、豪雨など、これまでもさまざまな自然現象が試合をさまたげ、ときに中止に追い込んできた。だが濃霧は想定外だった。ガイドラインの策定が急務と感じられた。
(2017年8月9日)
東京都女子サッカーリーグの試合のためにようやく確保できたグラウンドが7月30日の午後1時。熱中症対策を万全にして臨むことにした。
だが前夜は豪雨。朝方になって雨が止んだが、グラウンドに行ってみると、ところどころに水たまりがある。テントなどの準備のために早めに集まった両チームは、蒸し暑さが高まるなか、会場設営だけでなく、協力して水たまりの水を周囲に散らし、そこに土を入れる作業を行った。試合に出る選手たちがである。
チームの別などなく、黙々と働く彼女たちの姿を見て、「駆け出し記者」時代のことが急によみがえった。40年以上前の話である。
日本サッカーリーグの入れ替え戦が予定されていた前夜、「10年ぶり」という大雪が降った。取材に向かう新幹線も大幅に遅れた。
「行っても延期になるかもしれない」と思いつつキックオフ予定時刻ぎりぎりにグラウンドに到着すると、ピッチは大半が真っ白で、ホームチームの選手たちが懸命に雪かきをしている。その数時間前に雪が止んだので、チーム関係者総出で作業を始めたという。積雪量は20センチだった。
プレーしているときは窮屈に感じるが、雪かきなどの作業をするとサッカーグラウンドはとてつもなく広い。ピッチ内だけで7140平方メートル。芝生を守るために機械など入れられないから、すべて手作業で行う必要がある。平地だから雪は重く、作業をしていると汗でぐっしょりになる。
雪がすべて出されて、ようやくピッチが現れたのがキックオフ予定時刻から2時間も過ぎた午後3時過ぎ。試合は3時45分キックオフ、後半はナイターとなった。
この試合は1部最下位チームホームでの第1戦だった。戦前の予想では、2部で圧倒的な強さを見せて優勝したチームが有利とみられていた。
試合前、5時間近くの「重労働」でホームチームの選手たちの表情には疲労の色が見えた。彼らが懸命に雪かきをしている間、ビジターチームはグラウンドを見渡す暖房の効いたティールームで雑談に花を咲かせていたのだ。
だが勝ったのはホームチームだった。疲れてはいただろうが、気迫でまさり、当たり勝った。前半終了間際に得たPKのチャンスをしっかりと決め、1-0で勝ちきってしまったのだ。そして1週間後のアウェーでも勝ち、1部の座を守り抜いた。
この経験から、私はよく選手たちを「試合前に準備で働いたチームが勝つ」と励ますのだが、先週の真夏の試合では、両チームの選手がいやな顔ひとつ見せず協力して作業を行ってしまった。結果はともかく、集中した好試合になったのは言うまでもない。
(2017年8月2日)
「ワールドカップ史で最もばかげた審判」という汚名を被せられているのが1978年アルゼンチン大会、スウェーデン×ブラジルのクライブ・トーマス主審(ウェールズ)だ。
終了間際のブラジルの右CK。スコアは1-1。ネリーニョがキック、ジーコが頭で決める。しかし得点は認められなかった。トーマス主審はネリーニョのキックがジーコの頭に当たる前に試合終了の笛を吹いていたのだ―。
サッカーの試合は前後半45分の90分間。だが誰にも見える時計があるわけではない。時間の管理は主審に一任されており、主審は負傷者の手当てや交代などで空費された時間を加算して45分に追加し、前後半を終了させる。
今日では「前半1分、後半3分」ほどの追加タイムが常識的だが、これに敢然と挑戦したのが6月15日の国際サッカー評議会(IFBA)と国際サッカー連盟(FIFA)の共同会見だった。ロシアでのFIFAコンフェデレーションズカップ(6月17日~7月2日)で、厳格に追加タイムをとると発表した。
PK(判定が下されてからけられるまで)、得点(得点があってから次のキックオフまで)、負傷(主審が当該選手に手当てが必要か聞いてからプレー再開まで)、レッドカードとイエローカード(主審がカードを示してから再開まで)、交代(主審が認めてから再開まで)、9.15メートル(主審がこの距離を測り始めてから開始の合図まで)の6項目。すべて追加タイムに入れると宣言したのだ。
だが結果は啞然とするものだった。全16試合平均で前半の追加タイムは1.3分、後半は3.6分(延長戦は含まず)だった。この大会では1試合平均3回もビデオ判定があってさらに時間をとられたにもかかわらず、2014年ワールドカップの全64試合の平均とほぼ同じ数字だった。
「6月15日宣言」は、まったくの絵空事だった。何らかの事情で今大会での実行は無理という判断だったのか。
1978年ワールドカップ。ブラジルのCKが「時間切れ」になったのは、ネリーニョがコーナーエリアの外にボールを置いて「置き直し」となり、そこで時間を使ってしまったためだった。トーマス主審はアマの試合で45分間の追加タイムをとったことがあった。ピッチが丘の上にあり、ボールが出るたびに麓まで拾いに行かなければならなかったからだ。彼はただ、ルールに厳格な主審だったのだ。
現在でも追加タイムは主審にとって大きなプレッシャーだ。その間に結果を左右する大きな出来事がある可能性があるからだ。「宣言」どおり厳格にとっていたら、優に10分間を超えてしまうだろう。その重荷を主審ひとりに負わせるのは正しいのだろうか。
(2017年7月26日)
「海の日」に埼玉スタジアムで行われた鈴木啓太(元浦和)の引退試合は、とても楽しい試合だった。
浦和と日本代表で「ケイタ」のチームメートだった旧友たちが50人近くも出場、例外なくファンを喜ばせようという姿勢は、心を打った。
なかでも圧巻だったのは、代表OBで出場した中村俊輔(磐田)だ。絶妙のパスを飽きることなくケイタに送り続け、なんと前半の45分間だけで10本ものシュートを打たせたのだ。ケイタが2ゴールを記録できたのは、中村がその天才を彼に点を取らせるためだけに使った結果だった。
前半中村のリードで3-0と大差をつけた代表OBだったが、後半になるとユニホームを着替えたケイタを含む浦和OBが反撃、4-3と大逆転した。しかし終了間際、PKのチャンスが訪れる。
間髪を置かず、代表OBの岡田武史監督が岡野雅行(元浦和)を送り出す。前半浦和OBで出場、猛烈な走りでファンを沸かせた岡野は、すでに代表OBのユニホームに着替え、背番号17をつけてベンチに控えていた。
思い切り下がってから走り込み、同点ゴールを左隅にけり込んだ岡野。すると両手を真横に広げ、ベンチに向かって走り始めた。
20年前、1977年11月16日、マレーシアのジョホールバル。イランと戦った日本代表は、2-2で迎えた延長後半13分に岡野が決勝点。この「ゴールデンゴール」で日本中の誰もが夢見たワールドカップ初出場が決まった。殊勲の岡野は両手を広げてベンチに向かって走り、真っ先にベンチを飛び出した岡田監督とぶつかり合うように抱き合った。その場面の再現パフォーマンスだった。
自分に向かって疾走してくる岡野に、一瞬遅れて岡田監督も気付き、ベンチを出る。そして岡野と抱き合う。
もちろん「引退試合」とは無関係だった。だが20年もの時間を超えて、瞬時にあの日がよみがえった。スタンドのファンも同じ思いだったに違いない。浦和のサポーターたちも大喜びだった。
若いファンにとって20年前は「大昔」かもしれない。しかし「ジョホールバル」は日本のサッカー史に残る重要な歴史である。すでにワールドカップに5回も出場した現在では想像もつかない巨大な歓喜の一瞬があったことを、その時代を知る者が語り継ぎ、若い世代がまるで体験したかのように理解することこそ、「文化」なのだろう。
50人近い選手がケイタへの友情を「ファンサービス」で示した試合は、楽しさにあふれていた。そして岡野が見せた「即興」に、Jリーグが積み重ねてきた四半世紀で育まれた「文化」を感じた。
(2017年7月19日)
ミハイロ・ペトロヴィッチが日本にやってきたのは2006年6月14日。48歳のときだった。以後サンフレッチェ広島と浦和レッズで指揮をとり、彼は59歳になった。
ドイツで開催されていたワールドカップの期間中。この8日後に日本代表の敗退が決まり、さらに2日後には、当時の日本サッカー協会・川淵三郎会長が「オシムが...」と口を滑らせ、その後の話題をジーコの後任監督問題で独占したことを考えると、ずいぶん昔の話のように感じる。
実際、この年、J1とJ2で計31クラブあったが、31人の監督中、現在もJリーグで指揮をとっているのは長谷川健太監督(当時清水、現在はG大阪)ら数人にすぎない。ただし長谷川監督には2年間の「浪人生活」があった。
2006年、ペトロヴィッチはシーズン半ばに広島の監督に就任し、5年半の指導で高い評価を受けた。そして2012年以降は浦和で指揮をとっている。
旧ユーゴスラビア、現セルビアの西部、ボスニアヘルツェゴビナと国境を接するロズニツァという小さな町で生まれ、ユーゴスラビア代表としても活躍したペトロヴィッチは、オーストリアで引退すると、オーストリアに留まってまるで「サッカー伝道」のような指導の道を始めた。
ミッションはただひとつ。心から愛するサッカーをより魅力あふれるものとし、サッカーを愛する人びとにより多くの喜びを与えることだ。
広島で6シーズン、そして浦和に移っても6シーズンの長きにわたって監督の座にある一事だけでも、いかに評価が高いかわかる。
広島でも浦和でも、共通するのは魅力あふれる攻撃的サッカーだ。独特の3-4-2-1システムは、奇異に見られた時期もあったが、いまでは日本の多くのチームに影響を与えている。特定の選手に頼らず、磨き抜いたコンビネーションでつくり出す攻撃には、息をのむような美しさがある。常に新しいコンビネーションを考案し、練習方法を開発する手腕は天才的だ。ただ、そうしたサッカーをつくるには時間がかかる。
今日の世界では、監督たちはマジックのように即座に結果を出すことを求められている。コンビネーションを磨こうとする監督などほとんどいない。大半は選手の「組み合わせ」で勝利に近づこうとする。必然的に、成績は怪物のような能力をもつFWがいるかどうかで決まる。言い換えれば、資金力で決まる。
こうした世界の潮流に完全に逆行するペトロヴィッチの生き方。「いかに勝つか」では満足せず、「いかに美しく勝つか」を追及する、世界でも希有な天才指導者がJリーグで12シーズンも活動していることの幸運を、私たちは絶対に手放すべきではない。
(2017年7月12日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。