4月16日のFC東京戦の興梠慎三(浦和レッズ)のゴールは、彼の非凡な才能を感じさせるものだった。
前半14分、押し込まれていた浦和が中盤で相手のプレスをかいくぐり、FWラファエルシルバが中央から持ち上がる。その十数メートル前を相手ゴールに向かって興梠が走る。だが彼の周囲には徳永、森重、丸山という3人のDFが互いに近距離で並んでいる。普通ならラファエルシルバはスペースのあるサイドへのパスを選択する状況だっただろう。
興梠は縦に走りながらまず自分の右前のスペースに出すように求め、パスが出てこないと反転してこんどは左前のスペースを示す。そこにラファエルシルバから絶妙のパスが出る。だが彼の右には大柄な丸山が遅れずにぴったりとついている。シュートしても丸山がブロックするか、GK林が止める―。そんな状況だった。林はすでに前に出て止まり、両足をピッチにつけた十分な体勢だった。
しかし興梠はボールに追い付いた瞬間に左足の内側でボールをとらえる。ボールは力なくころころと転がったが、林は反応できず、FC東京ゴールの右隅に転がり込んだ。
普通の選手ならもう1歩右足を踏み出し、次の左足でシュートだっただろう。「1、2、3」でシュートという形だ。だが興梠は「1」の段階でけってしまった。完全にタイミングをずらせたことが、ブロックもセーブも許さなかった理由だった。
半世紀にわたってサッカーを見てきたなかで、「シュートの才能」という面で図抜けていたのは、1970代を中心にバイエルン・ミュンヘンと西ドイツ代表で活躍したゲルト・ミュラーだった。
「リトルゴール」と呼ばれた。ペナルティーエリア外からのゴールなど見た記憶がない。ペナルティーエリア内、それもほとんどがゴールエリア近辺からのものだったからだ。彼は絶妙にGKのタイミングを外し、思いがけないところにボールを送り込んだ。
1974年ワールドカップ決勝、オランダ戦の決勝ゴールは、まさにそうした得点だった。ゴールに向かってトップスピードで走り込みながら右からのパスを受けたミュラーは、ボールを2メートルも自分の体の後ろに止めた。そして反転してそのボールに近づくと、再び180度のターンをしながらゴールにけり込んだのだ。
目の覚めるような強烈なシュートはすばらしい。しかし私は、GKのタイミングを外す興梠やミュラーのシュートにより強く惹きつけられる。
こんなタイミングがあったのかと、ゴールがはいってから気付かせる創造性あふれるシュート...。それは、私の想像力を刺激し、サッカーを見る喜びを倍加させる。
(2017年4月19日)
4月15日は「ヒルズボロの日」である。
1989年のこの日、4月にしては気温の高い午後だった。イングランド中部シェフィールドの「シェフィールド・ウェンズデー」が所有するヒルズボロ・スタジアムでFAカップ準決勝「リバプール×ノッティンガム」が行われた。そして試合が始まって間もなく大きな悲劇が起こる。
西側のゴール裏1階、通常ならビジターのサポーターを収容する立ち見席で、キックオフ後に入場してきた人びとの圧力で先に入場していた人びとが押しつぶされ、96人ものリバプール・サポーターが犠牲になったのだ。
リバプールのサポーターはこの4年前にベルギーで行われた試合でユベントス(イタリア)のファン39人を圧死させる大惨事を起こしていた。ヒルズボロでも、地元警察は「彼らは泥酔し、入場券を持たない者も多数いた」とメディアに語り、「またもやフーリガンが事件を起こした」という印象を世界に与えた。
だがその後の調査で驚くべきことがわかった。入場した大半は正規のチケットの所有者だった。泥酔者などほとんどいなかった。悲劇を生んだのは、施設の不備と警備の不手際だった。この立ち見席は鉄柵と金網で5ブロックに分けられていたのだが、警官が中央の2ブロックに規定以上のサポーターを流し込んでしまったのだ。入場できていない人が2000人もいる状況で試合を始めたことも、運営上の大きな落ち度だった。
リバプールGKグロベラーが守るゴール側は開始直後から騒然としていた。身動きもできない混雑から逃げようと高さ2メートルの鉄柵を人びとが次々と乗り越え、広告看板まで乗り越えてゴール横にあふれるようになっていた。
試合は最初からハイスピードの攻め合い。前半6分、リバプールFWベアズリーのシュートがゴールのバーを直撃すると、興奮は早くも最高潮に達した。その大歓声に、入場をあせっていた人びとが強く反応した。早く入ろうと前の人を押す。逃げ場のない前方の人びとが次々と将棋倒しになり、押しつぶされた。
ゴール裏スタンドを警備していたグリーンウッドという名の警官がピッチ内に走り込み、ルイス主審に試合中止を求めたが、そのときにはすでに遅かった。犠牲者は10歳から68歳まで。多くが若者で、女性も7人含まれていた。
幸い、Jリーグではこのような悲劇は起きていない。しかしときに何万人もの熱狂したファンを扱わなければならない人びとにとって、「ヒルズボロ」は常に肝に銘じ、理解しておかなければならない事案のはずだ。毎年4月15日に「スタジアム安全研修会」を開催したらどうだろうか。
(2017年4月12日)
「このたび、○○部から××部へ異動することになりました...」
日本の4月は、新スタートの時期である。新しい学校、新しい学年、新しい会社、そして新しい部署。Jリーグのクラブにも「異動」がある。同じクラブ内で、これまでとはまったく違った分野の仕事を任せられる人びとがいる。冒頭の手紙は、そうしたひとりから送られてきたものだ。
日本の企業では定期的な人事異動があるのが普通だ。
「スペシャリストよりゼネラリストをつくろうとしているんだ」という説明を聞いたことがある。いろいろな部署を経験させることで、総合的に仕事を進めていける人材を育てようという狙いだ。部署の年齢的なバランスを取る、業務のマンネリ化や取引先との癒着を回避するなどの意味もあるという。だがこうした「一般企業システム」をそのままJリーグクラブに当てはめるのは適当なのだろうか。
私が欧州や南米のトップクラブを集中的に取材する機会を与えられたのは1980年代のことだった。そこで思い知ったのは、「サッカーの面で成功しているところはクラブ経営がうまくいっている」という、実に当たり前のことだった。会長たちは野心的にスタジアムなどのクラブ施設を改善してファンの心をとらえ、観客数増加による収入増をチーム強化に投入することによって欧州や南米、さらには世界の王者になるという夢を実現させていた。
そして同時に、成功しているクラブには、各部門にプロ中のプロが配置されていることも知った。大きなクラブでも、クラブスタッフは信じ難いほど少なかった。極端に言えば、各部門に割り当てられた予算の範囲で決裁権をもつ経験豊富なマネジャーが1人と、その人をサポートするスタッフあるいは秘書が1人だけという形だった。
役員、そしてコーチなどの現場スタッフを除けば、クラブの被雇用者は、どんなクラブでも20数人というところだったろう。「ゼネラリスト」などいない。各部門のマネジャーたちは例外なく「スペシャリスト」であり、それぞれの職務の「プロフェッショナル」だった。この「スリム構造」こそ、サッカーの面で成功するためのもうひとつの秘密だった。
30年を経た現在、世界のトップクラブの組織も大きくなっているだろう。しかし基本的なあり方は変わっていないはずだ。サッカーのクラブとしてそれぞれの部門にプロフェッショナルを置くことで、組織のいたずらな肥大化を防ぐという考え方だ。
無関係な部門への定期的な「社内異動」がプロのサッカークラブにふさわしいとは、どうしても思えない。
(2017年4月5日)
「先覚者」大相撲から遅れること半世紀でようやく「ビデオ判定」の時代を迎えるサッカー。3月3日にロンドンで開催された国際サッカー評議会(ルール制定組織=IFAB)の年次総会では、ビデオ副審(VAR)のテスト導入の継続が確認された。
昨年来、いくつかの国の下部リーグ、国際親善試合、そして12月に日本で開催されたFIFAクラブワールドカップ(FCWC)でテストが実施され、FCWCでは試合結果を左右する2つの判定がVARのアシストで行われて大きな話題となった。
ことしのテスト結果が良ければ、来年の6月から7月にかけてロシアで開催されるワールドカップでの採用が期待されている。すでに使われているゴール判定装置(GLT)との組み合わせにより、試合結果を左右する判定のミスはほぼなくなるはずだ。
そしてことし、2年目のテストには、注目の大会が加わる。メジャーなリーグとして初めて、日本人選手も多数プレーするドイツのブンデスリーガ1部全306試合にVARが導入されるのだ。しかもブンデスリーガのVARシステムは、昨年テストが行われた各国リーグより一歩進んだものになるという。
昨年のテストでは、試合ごとにスタジアム外に置かれたバンのなかにモニターを並べた部屋を設け、そこでVARがリプレーを見ながらピッチ上の主審に無線で情報を伝えるという形だった。しかしブンデスリーガでは、ケルンにある放送センターに設けた部屋にVARが陣取り、ドイツ全国の18スタジアムとの高速専用回線を通じてピッチ上のレフェリーとやりとりをするという。今後の欧州のトップリーグのスタンダードになりそうなシステムである。
VARシステムでとくに重要なのがピッチ上のレフェリーとVAR間のコミュニケーションだ。的確なタイミングで、明確な言葉で伝えないと逆に大きな混乱のもとになってしまう。ブンデスリーガでは現在主審として活動している23人のレフェリー全員に各自2回ずつのVARトレーニングを行い、この春のうちにもう1回ずつのトレーニングが行われる。さらにはブンデスリーガ・レフェリーの「定年」である47歳を超えた人のなかから、VAR専任者も使う予定だという。
Jリーグは今季放映権契約が変わり、映像制作態勢も変わった。しかし開幕から数節を見る限り、決定的な場面を確実に検証する角度からの映像がない場合も多く、VARシステムを実施するレベルにはまだ遠いように感じる。資金力が決め手になる分野だけに、広がり続ける「世界」との差に暗然たる思いがする。
(2017年3月29日)
明日(3月23日)夜、日本代表はアルアインで地元UAEと今回のワールドカップ予選で最も重要な試合に臨む。勝てば「ロシア行き」に大きく前進する。勝てなければ非常に苦しい状況に追い込まれる。
UAEはこれまでの予選ホームゲームのすべてをアブダビで戦ってきたが、日本戦はアルアインに会場を移した。
代表チームのベースのひとつがアルアインFC。昨年9月の日本戦では、エースのMFオマル・アブドゥルラフマンを筆頭に先発のうち6人がアルアインFCの選手だった。紫のユニホームで知られるアルアインFCは、2003年の第1回AFCチャンピオンズカップ優勝チームである。
アルアインは内陸のオアシスの町。「アイン」とはアラビア語で「泉」を意味する。周辺には、荒涼とした砂漠が広がっている。
アラビア半島の東にあるUAE(アラブ首長国連邦)。アルアインは連邦を構成する7つの首長国のひとつアブダビ首長国に属し、ともにペルシャ湾に面する連邦首都のアブダビ、連邦最大の都市ドバイとは、いずれも130キロほどの距離で「正三角形」のような位置関係になる。オマーンとの国境の町でもある。
ここに人類が住み始めたのは紀元前5000年、日本でいえば、縄文時代中期だという。周囲には当時からの遺跡が点在しており、「アルアインの文化的遺跡群」として2011年に世界遺産に登録された。
1996年12月のアジアカップでこの町に2週間ほど滞在した。グループリーグから準々決勝まで、日本の全4試合がここで行われたからだ。
日本の試合がない日には大会組織委員会が出してくれたメディア用のバスでアブダビやドバイの試合に出掛けた。試合が終わってアルアインに帰るのは夜中過ぎ。町が近づくと、この町のシンボルと言っていいハフィート山のシルエットが迎えてくれた。
現在は世界遺産の一部になっている標高1249㍍の岩山には、その稜線(りょうせん)に添うように道路が敷設され、街路灯が夜空に山のシルエットを浮かび上がらせていたのだ。アブダビやドバイからの「バス旅行」はわずか2時間。それでも、単調さに飽きたころに現れるハフィート山のシルエットは「やっと帰ってきたな」という感慨に似た感情を生んだ。砂漠を越えてアルアインに向かった昔のアラブ商人たちも、きっと同じ思いを抱いただろう。
明日の試合が行われるハッザ・ビン・ザイド・スタジアムは2014年に完成したばかりのサッカー専用競技場。収容は約2万6000人と小ぶりだが、UAEで最も熱いサポーターが待ち構える。日本代表の奮闘を期待するばかりだ。
photo by Y. Osumi
(2017年3月22日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。