小松原博和さん(63)が初めて日本サッカー協会の仕事をしたのは1974年11月24日のことだった。その日、東京・国立競技場で、引退したサッカーの王様・ペレ(ブラジル)が子どもたちに指導するイベントが行われ、ペレが使う更衣室の「門番」を命じられた。
濃い緑のジャージーに着替えて出てきたペレは、21歳のアルバイト学生を見ると「アリガト」と右手を差し出して握手してくれた。その手のひらのやわらかさを、小松原さんはいまでも覚えている。
正式に協会職員になったのが1977年。以来40年間にわたる仕事に、きのう、小松原さんはピリオドを打った。アルバイト時代を含めると、第4代の野津謙会長から実に11代の会長の下で働いてきたことになる。定年を延長し、来年4月の誕生日までは働くことができた。しかし昨年痛めた腰の治療を優先させた。
「こまっちゃん」。周囲からそう呼ばれ、親しまれた。小柄な体に笑顔を絶やすことなく、小松原さんはサッカーの裏方ひと筋に生きてきた。
担当は一貫して日本代表。当時協会職員はわずか11人。何でもひとりでやった。代表チームの用具管理、いまではありえない医薬品管理、来日チームの出迎え、打ち合わせから記者会見の司会...。
その間、ベッケンバウアー、クライフ、マラドーナなどスーパースターを間近で見て言葉をかわす機会もあった。
1992年以後はワールドカップの招致委員会、次いで組織委員会に出向し、スタジアム建設の支援に奔走。2002年、大会終了とともに協会に戻って審判を担当した。スタジアム建設も審判も地方協会との折衝や連絡が主な仕事。過去25年間で小松原さんは全国をくまなく回り、日本中の関係者から親しまれ、信頼された。
2003年からは川崎フロンターレの応援という楽しみができた。この年に就任した武田信平社長は若いころのサッカー仲間だった。だが何よりも、フロンターレは小松原さんの地元クラブだったのだ。
実のところ等々力運動公園の一部は祖父の土地だった。その等々力で徹底して地域に密着する活動をするフロンターレに、心が躍った。以来、家族で年間チケットを買い、試合日には朝6時の順番取りから一日をフロンターレのために過ごし、試合終了の15分後には風呂の中という天国のような週末を送っている。
「世界のスーパースターに会えて、週末にはフロンターレざんまいで、こまっちゃんほど幸せな人はいないよ」
仲間にはそう言われる。
「腰を治したらもういちどサッカーのために働きたい」(小松原さん)。少年のような笑顔には、40年間サッカーの裏方として働いてきた、価値あるしわが刻まれていた。
小松原博和さん
(2017年2月1日)
奥寺康彦(64)は、私と同学年のヒーローである。
神奈川県の相模工大(現湘南工科大)付属高を卒業後、日本リーグの古河電工と日本代表で活躍、1977年にドイツの名門1FCケルンに移籍してブンデスリーガで9シーズンプレーした。
だが現代の日本で生まれていたら、彼はプロ選手にはなれなかったかもしれない。1952年3月12日生まれ。「早生まれ」の彼は、中学時代まで小柄でフィジカルには恵まれていなかった。中学入学時にJリーグクラブの試験を受けても合格にならなかった可能性は十分にある。身長が急激に伸びて「怪物級」のプレーヤーに成長するのは、高校進学後のことだった。
昨年5月に開催された欧州サッカー連盟(UEFA)の16歳以下の大会で出場選手全288人を調査したところ、1~3月生まれの選手が全体の半数近くを占めていたという。逆に10~12月生まれは24人、わずか8.33%だった。
世界の「年齢別大会」は大会が行われる年の元日以降にその年齢になる選手という区切りである。大会が5月に行われると、年の早めに生まれた選手の有利は否めない。
こうしたことが積み重なると、年の後半生まれの選手のハンディは大きい。常に自分よりフィジカルの強い相手と対戦することによって自信を失い、指導者から見放されることにつながるからだ。
「このため私たちはタレントの25%を失っている」と、ベルギー・サッカー協会の育成年代代表を統括するボブ・ブロワイエスは分析する。
日本ではどうか。国内のサッカーは学校年度に合わせて4月1日で区切られる年齢区分。当然、1~3月の「早生まれ」はハンディを負う。
しかし代表クラスでは少し様子が違う。昨年のU-16アジア選手権に出場した日本代表25選手では早生まれがわずか3人だったが、過去5回のU-16アジア選手権出場117選手を調べると早生まれは27人。4~6月生まれ(36人)、7~9月(31人)、10~12月(23人)と大きな差があるわけではない。早生まれには1学年上の選手も含まれ、国際大会の年齢区分が日本の年齢区分によるひずみを修正する面ももっているようだ。2014年ワールドカップの日本代表23人では、早生まれが10人もいた。
欧州では自然年齢ではなく「生物年齢(成長度。具体的には成人時の予想身長に対する現在の身長の割合)」別のトレーニングや大会の試行が始まっているという。肉体面でも精神面でも成長する時期のトレーニングが一生を決めると言っても過言ではないサッカー。タレントを失わないよう、個別の「成長期」を考慮した指導が必要だ。
(2017年1月25日)
私がFIFAワールドカップを初めて取材した1974年西ドイツ大会。2日間試合があったら2日休みというのんびりしたものだった。基本的に1日4試合、25日間で38試合。期間中に試合が行われたのは半分以下の12日間しかなく、原則的に1試合日のすべての試合は同時刻開始だった。
現代のワールドカップは忙しい。2018年ロシア大会の例をとると32日間で64試合。大会が始まると15日間連続で試合があり、大会期間中に試合がないのはわずか7日間にすぎない。そして1日3試合を時間をずらせて開催するから、キックオフが正午になったり深夜になったりする。開始時刻が他の試合と重なるのは、1次リーグの最終節だけだ。
この大きな違いの理由は明白だ。テレビ放映の都合である。現在の試合日程なら1チャンネルだけでの放映でも56試合を生で放送できる。ワールドカップはかつて選手と観客の大会だったが、現在ではテレビの都合が最優先だ。無理もない。国際サッカー連盟(FIFA)は、1大会で2000億円もの収入をテレビから得ているからだ。
先週、FIFAは2026年大会からワールドカップ出場チーム数を現行の32から48に増やすことを決めた。ワールドカップは誕生時の1930年に16チーム制がとられ、82年に24、98年に32と、近年急激に出場チーム数を増やしてきた。
ワールドカップに限った話ではない。欧州選手権は昨年のフランス大会から24チームとなり、アジアカップも2019年UAE大会からやはり24チームの大会となる。巨大化の波の要因はただひとつ。より巨額の放映権収入獲得だ。
ワールドカップには「1カ月間、決勝まで7試合」という不文律がある。それ以上の日程も試合数も、主要国の選手の大半を契約下に置く欧州のクラブが認めないからだ。
「48チームのワールドカップ」では、3チームずつ16組で1次リーグ、その後に各組2チーム、計32チームでノックアウト方式の決勝トーナメントを行い、「不文律」を守ることができるという。
だが3チームグループは日程の不公平を生み、増えた試合を無理やりこの日程に押し込むため、選手や観戦客のストレスはさらに増大する。「レベルが下がる」という反対論もあるが、収益増を目指すあまり「サッカー(選手と観客)不在」がさらに広がるのがより大きな問題だ。
こうまでして収入を増やす必要が、FIFAにはあるのだろうか。現状の収入でも、何十人もの汚職役員が巨額を懐に押し込むのに十分だったではないか。48チームに増やして世界の多くの選手にチャンスを広げると言うなら、17歳以下や20歳以下の育成年代の大会のほうがふさわしい。
(2017年1月18日)
年末年始で最も驚いたニュースは、2020年の東京五輪のために建設されている新国立競技場をJリーグのクラブのホームスタジアムにしたいという話だ。12月30日に『スポーツ報知』が伝えた。
同紙のサイトによると、取材を受けた政府関係者は「Jリーグのクラブが東京23区内に存在しないのは今後のサッカー界の発展につながらない。一からクラブをつくるのが難しいのであれば、既存クラブの移転が可能かどうかも検討している」と語ったという。そして候補として首都圏のクラブが有力であり、鹿島アントラーズとFC東京の名が挙がっているとする。
Jリーグとの話し合いはこれからのようだが、「どうしたら国立競技場をJリーグクラブのホームにできるか」という話ではなく、最初から特定のクラブの「移転」を示唆していることにあぜんとする。鹿島の名が出てきたのは、年末のFIFAクラブワールドカップでの活躍から思いついたのだろうか。
Jリーグのクラブは単なる「プロ球団」ではない。それぞれ「ホームタウン」とする地域に立脚し、地域の人びとに支えられて活動している。
そもそも鹿島アントラーズというクラブは、鹿島地域に巨大工場をもつ住友金属が地域の活性化のために1992年にプロサッカークラブを設立、その理念に賛同した茨城県がスタジアムを建設して生まれたものだ。若者を中心とした地域の人びとの熱いサポートに応えようと選手たちが奮闘し、これまでにJリーグ8回を含む19ものビッグタイトルを獲得してきた。
たとえて言えば、鹿島アントラーズはこの地域に大きく根を張った「巨木」であり、地域から与えられる栄養や水分への感謝として、大きく広げた枝葉で地域に潤いと喜びを返している存在なのだ。無理やりどこか別の地域に移そうとすれば巨木は枯れ、地域も無味乾燥な工場地帯へと戻ってしまうだろう。
FC東京も同様だ。このクラブは2001年にスタジアムが完成するのを待って練習場を小平市につくり、調布市など東京西部で地道にファン層を広げる活動を続け、地域と深く結び付いてきた。「もっと大きく新しい家ができたからこっちに越してきて」と誘っても、地域のなかに生まれた絆を簡単に断ち切ることなどできるはずがない。
新国立競技場をホームとするクラブができるということ自体はすばらしい。しかしそれは、すでにそれぞれの地域に根を張っている既存の人気クラブを引き抜いてくることではない。地域との深い結び付き、互いに努力を積み重ねた「歴史」を奪うことなど、誰にも許されない。
(2017年1月11日)
元日の東海道新幹線は予想外の満席だった。鹿島アントラーズの赤や川崎フロンターレの水色を着たグループもあちこちに見受けられた。
52年ぶりに関西で、そして56年ぶりに大阪府で開催された天皇杯全日本選手権決勝。落成からわずか1年の吹田スタジアムをホームとするガンバ大阪は準々決勝で敗退したものの、ほぼ満員と言っていい3万4166人の観客で埋まり、「決勝」にふさわしい雰囲気となった。
日本サッカー協会(当初の名称は大日本蹴球協会)誕生とともに1921(大正10)年に始まった全日本選手権。1951(昭和26)年の第31大会以来天皇杯が授与され、1968(昭和43)年の第48回大会以降は決勝会場が年を越した元日に東京・国立競技場と固定され、ほぼ半世紀を経た。
私が初めて天皇杯決勝を見たのは大学生1年生の71(昭和46)年元日。釜本邦茂の2得点により、ヤンマー(現C大阪)が延長の末東洋工業(現広島)に2-1で勝った試合だった。以後47回の天皇杯決勝を欠かさず見てきた。2014(平成26)年大会の決勝は2015年1月早々に開幕するアジアカップ(オーストラリア)への対応で12月13日に実施されたが、それ以外は元日に開催されてきた。すなわち私は、大学生時代以降、ほぼ一貫して元日を国立競技場で過ごしてきたことになる。
きっと、東京やその近郊には同じような習慣をもつサッカーファンがたくさんいるだろう。「元日イコール天皇杯決勝」は、首都圏のファン固有の「文化」と言っても過言ではない。地元チームのいない決勝戦に人が集まるのだろうか―。「大阪決勝」を心配したのには、わけがある。
だがそれは杞憂(きゆう)だった。気温12度。晴れて風もなく、苦になる寒さではなかった。大阪府警音楽隊の演奏もすばらしかった。鹿島は鹿島らしく、川崎は川崎らしく、全身全霊を傾けたサッカーを見せ、スタンドを沸かせ続けた。「大阪決勝」は見事な成功だったと思う。
2014年元日の決勝を最後に国立競技場は建て替え工事にはいり、以後天皇杯決勝は埼玉スタジアム、味の素スタジアム(東京)と会場を移してきた。そしてことし半世紀ぶりに首都圏から大きく離れた。
次回、2018年元日に決勝戦が行われる第97回大会は、開幕が4カ月早まり、1回戦が4月に行われる。準々決勝は10月、準決勝は12月23日。ラウンド間はほぼ1カ月間あり、原則として対戦チームどちらかのホームでの開催となる。
決勝戦の会場はまだ決まっていない。「大阪決勝」の成功を見て、2020年に新国立競技場が完成するまでは、いろいろな地域で持ち回りにするのも悪くないと感じた。
(2017年1月4日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。