11月11日に鹿嶋で行われたオマーン戦で、相手のカウンターアタックをかろうじて防いだ日本。しかしDF酒井高徳のクリアは小さく、ペナルティーエリアのすぐ外で相手に拾われてシュートを許した。
ふと、4年前のFIFAクラブワールドカップで見たチェルシーのDFダビドルイスのプレーが脳裏によみがえった。自陣ゴール前から、彼は相手陣の右コーナー近くまでボールをけり出したのだ。
「守備への圧力をやわらげるため、いかなる戦術的な組み立てにも優先してボールを大きくけり出すこと」
私が愛用している『サッカー用語辞典』(バラード、サフ共著、1999年)による「クリアランス」の定義である。「いかなる戦術的な組み立てにも優先して」という表現がとても素敵だ。
世界のトップクラスではDFラインからのビルドアップが常識となり、多くのクラブがそうしたサッカーを実践している。スペインのFCバルセロナなどは、GKまで含めて粘り強くパスを回し、FWへのマークにスキができるチャンスを待ち構える。
もちろん日本もその方向性を追っている。現在のJリーグでは、ただけり返すだけのDFなどまず見ない。
しかし試合には「クリア」をしなければならない状況もある。押し込まれて守備組織が乱れ、相手がかさにかかって攻めてくるとき、目の前にボールがきたら、守備側はとにかく大きくけり出さなければならない。可能ならタッチラインの外へではなく、相手最終ラインの背後へ。これで守備組織を整える時間ができる。ダビドルイスのように相手陣のコーナー付近まで届けば120点だ。
ところが日本では、いざクリアしなければならない状況で、情けないキックしか見ない。ただ足に当てるだけのキックしかできず相手に拾われて波状攻撃を受けてしまうチームがいかに多いことか。
1967年にブラジルの名門クラブ、パルメイラスが来日し、東京の駒沢競技場で日本代表が対戦した。その初戦、日本は2回のクリアミスを拾われてそのたびに失点し、0-2で敗れた。
「クリアは横浜までけれ」
ちょうどこの時期に来日していたデットマール・クラマー・コーチは、試合後、そう叱咤(しった)した。駒沢は都心から西南方向にあり、横浜はそのさらに南10数キロという位置関係。「横浜まで」と具体的なイメージを植え付けられたことで日本選手の意識が明確になり、3日の第2戦では歴史的な2-1の勝利を収めることができた。
それから約半世紀。いまの日本選手たちの情けないクリアを、天国のクラマーさんはどう見ているだろうか。
(2016年11月16日)
J2(Jリーグ2部)が大変なことになっている。
22チームのホームアンドアウェー方式。全42節の40節を終わって、J1への昇格もJ3への降格もまったく見通しが立たない状態なのだ。
J1への昇格は3チームだが、自動的に昇格できるのは2チームだけ。3位になると4チームによる過酷な昇格プレーオフに回る。過去4年間行われてきたプレーオフで3位チームが勝ち抜いたのは昨年の福岡だけ。12年と14年には6位チームがJ1への最後の一座を獲得している。
今季のJ2では、5月に札幌が首位に立ち、以後ずっとその地位を守ってきた。8月末には2位松本に勝ち点9差をつけて独走状態だった。しかし10月中旬から急に勢いが落ち、以後の5試合は1勝1分け3敗。11月6日に徳島に敗れると、ついに勝ち点81で松本に並ばれた。
この間、松本は4勝1分け。チームを率いて5シーズン目の反町康治監督仕込みのハードワークでしぶとく勝ち星を重ね、1年でのJ1復帰に集中している。
ところが、終盤にきてこの2チームを脅かす存在が出てきた。10月以来7連勝で勝ち点を78に伸ばした清水だ。鄭大世と大前元紀の「ダブルエース」が絶好調で、7連勝する間に2人で13得点。上位2チームとの勝ち点差は残り2試合で3(1試合分)あるものの、得失点差では圧倒的にリードしており、札幌か松本が1試合でも落とせば逆転する可能性は十分ある。
3位から6位の4チームで行われるプレーオフが決まっているのはC大阪と京都の2チームだけ。あと2チームの決定は11月20日の最終節までもつれ込む可能性が高い。
J2残留争いも熾烈だ。最下位(22位)が自動降格で21位はJ3の2位と入れ替え戦を戦うが、残り2試合で7つものチームが入れ替え戦どころか自動降格の危機からさえ抜け出せていない。なかでも19位岐阜から22位金沢まで4チームのの勝ち点差はわずか3。過去5節、毎節順位が入れ替わるつばぜり合いのなかで終盤まできてしまった。
J2の残り2節は、12日と20日に一斉に行われる。今季のJ2はこれまでの40節(計440試合)で300万6256人(1試合平均6832人)の観客を集めているが、終盤の2節22試合の大半に各チームの明暗がかかっているだけに、昨年の316万2194人(平均6845人)を上回る最多記録を達成する可能性は十分ある。
史上まれに見る激戦となったJ2。1シーズン、40試合を戦い抜いて蓄積した疲労はピークに達しているだろう。しかし「ラスト2」に向け、どのチームも集中力を最大限に高めているに違いない。
(2016年11月9日)
「どんな結果であれ、良いサッカーが勝利者となりますように」
2008年1月、東京の国立競技場で日本代表がボスニアヘルツェゴビナ代表と対戦した。前年11月に脳梗塞で倒れて日本代表監督を退いたイビチャ・オシムさんがリハビリ入院中の病院から観戦に訪れ、大型スクリーンにそのメッセージが流れた。
生命を削るように指導してきた日本代表。そして自らの祖国であるボスニア代表。その対戦に、70歳を目前にしたオシムさんも心躍らないわけがなかった。
さて、24シーズン目のJリーグもいよいよ大詰め。明日3日には「第2ステージ」の最終節9試合が開催される。浦和と川崎の「年間勝ち点1位争い」が最大の注目だ。
昨年、Jリーグは「スポンサー収入の大幅減」を理由に2ステージ制の導入を決断した。最多5チームによるプレーオフ「チャンピオンシップ」で得られる放映権料で収入を確保する狙いだった。
多方面から激しい反対意見が出た。Jリーグ自体も、本来の形ではないことを認めていた。だが財政面の理由で踏み切った。実際には昨季開幕前に「タイトルパートナー」契約の獲得に成功し、財政面での不安は解消されていた。それでもJリーグは2ステージ制を2シーズン続けた。
プレーオフにはビジネス上のメリットはあるだろう。しかし1年間の努力より短期決戦が重い制度に、「スポーツとしての正義」はない。昨年は年間勝ち点2位(72)の浦和が3位(63)のG大阪に準決勝で敗れ、記録上の年間順位は3位となった。
第1ステージはともかく、第2ステージにはいると下位のチームはステージ順位など眼中になくなる。残留と降格は両ステージを通算した年間順位で決まるからだ。誰も気にしていない第2ステージ優勝チーム決定を声高に報じるテレビのニュースが空しい。
先週第2ステージ優勝を決めた浦和にも、興奮はなかった。チャンピオンシップで決勝にシードされる年間1位の座に、川崎が勝ち点1差で追いすがっているからだ。優勝トロフィー授与のセレモニーの寒々しさは、Jリーグが2シーズンにわたって行ってきた愚行を象徴していた。
圧倒的にボールを支配しても、良い試合をしても、何本シュートを放っても、勝てるとは言えないのがサッカーの難しさであり、同時に面白さでもある。だができるなら、より良いサッカーをしたチームが、そして年間を通じて1ポイントでも多くの勝ち点を取ったチームが、勝者として称えられてほしいと思う。
オシムさんの言葉は、サッカーを愛するすべての人の祈りに違いない。
(2016年11月2日)
「木々の葉が落ち、風が冷たくなるころ。それこそフットボールの季節だ。退屈な日々に喜びを与えてくれる、これ以上の存在はない」
そう書いたのは、「サッカーライターの祖」と言われるジョン・D・カートライトである。1863年10月24日、野外スポーツを扱う英国の週刊新聞『ザフィールド』に掲載された記事だ。
その2日後の10月26日月曜日夕刻、ロンドンを中心とするクラブや学校、12のフットボールチームの代表が都心の「フリーメイソンズ・タバーン」に集まった。「フットボール・アソシエーション(サッカー協会=FA)」を設立する初めての会合だった。
「フットボールのルールを定め、必要に応じて改正していく本部の設置は、人びとが熱望していたものだった」
10月31日付けの記事でカートライトはこう書いている。
10月26日は「サッカーの誕生日」と言ってよい。
英国各地で、あるいは各学校で、さまざまなルールの下で行われてきた「フットボール」。その統一ルールをつくろうという試みは1848年の「ケンブリッジ・ルール」で完成したかと思われたが、その後も混乱が続いていた。それに決着をつけたのが、15年後、1863年のFA設立だった。基本的に手を使わない現代スポーツとしてのサッカーが生まれ、そこから急速に人気競技に発展し、20年後にはプロも誕生している。
カートライトの記事は、サッカーの誕生時からメディアが深く関わっていたことを示している。実際のところ、メディアとサッカーは、誕生当時から切っても切れない関係にあった。
最初の「マスメディア」である新聞をつくるには安価の紙が大量生産されなければならなかった。19世紀はじめの蒸気機関の普及と、19世紀なかばのパルプ(木材)からの紙づくりの実用化で、ようやくそれが実現した。
サッカーもまた、蒸気機関をシンボルとする産業革命の申し子である。工場ができて都市に労働者が集まり、1850年の工場法改正により土曜日の午後が休みになった。人びとはその余暇を利用してスポーツを楽しむようになり、サッカー観戦に行くという文化が生まれた。
同時期に生まれたメディアとサッカー。新聞は大衆に人気のあるサッカーを報道することで発行部数を伸ばしていった。そしてサッカーも、新聞に報じられることによってファン層を広げていった。
さて今日、サッカーとメディアはどんな関係になっているだろうか。たまには、本来「互いに持ちつ持たれつ」であることを思い出してみるのもいいのではないだろうか。
フリーメイソンズ・タバーン
(2016年10月26日)
もしかすると、ミシャはタイトル獲得で不幸せになってしまうのだろうか―。一瞬だが、そんな思いがよぎった。
先週土曜日に行われたJリーグ・ルヴァンカップ決勝。浦和レッズが13年ぶりの優勝を飾った。ファンやサポーターから「ミシャ」の愛称で呼ばれるミハイロ・ペトロヴィッチ監督(59)にとっては、初のメジャータイトルだった。
旧ユーゴスラビア、現在のセルビア出身。選手時代はユーゴ代表歴ももつ。指導者になってスロベニアとオーストリアのクラブを率いた後、2006年6月にサンフレッチェ広島の監督に就任、MF柏木陽介(現浦和)ら若手を起用して大胆な攻撃サッカーを展開、強豪に仕立て挙げた。そして広島との契約が切れた2012年に浦和の監督に就任した。
そんななかでミシャは「タイトルの取れない監督」というレッテルを貼られてきた。浦和では毎年のようにリーグ優勝争いで最後に脱落し、カップ戦でも広島時代から4回連続で決勝戦で敗れてきたからだ。圧倒的な強さを誇った昨年、チャンピオンシップ準決勝で「過去最高の内容の試合」(ミシャ)をしながらG大阪に屈したのは痛かった。
全員で動きながらパスをつなぎ、チャンスをつくるサッカー。ときには7人、8人が相手ペナルティーエリアに迫る勇敢な攻撃は、相手にカウンターアタックを受けるリスクと背中合わせだった。
ことしミシャは興味深い目標を語った。「出場するすべての大会で昨年より一歩前進する」。今季の浦和はその目標を着実に達成してきた。そして手にしたのが「ルヴァンカップ優勝」だった。
表彰式に臨む選手たちを、ミシャはピッチから見上げていた。だがその表情は、どこか寂しげに見えた。
「タイトルを取る前と後とで、私はベターな監督になっただろうか。個人的には、何も変わっていないと思う」
この試合を前に彼は1週間もひげを剃らなかった。何かを変えたかった。それほどまでに欲しいタイトルだった。
最高のコンビネーション攻撃を見せても、無冠というだけで評価されなかった。だがタイトルを取ればすべてが変わるのか―。彼の胸には、やり続けてきたことへの自信と、世間の評価というものの空しさが交錯していた。
初優勝という大きな山を乗り越え、ミシャは今後タイトルを積み重ねていくだろう。だがそれで彼が不幸せになるというわけではないようだ。続く言葉には、彼らしい優しさがあふれていた。
「私にとって非常にうれしいのは、長い間待ちわびていたファン、サポーターにこのタイトルを捧げられたことです。そしてこれまでがんばってきた選手たちが幸せな気持ちであることです」
(2016年10月19日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。