「テレビの力」を、まざまざと見る思いがした。9月1日のワールドカップ予選UAE戦である。
後半32分に日本代表FW浅野が放ったシュートは、懸命に戻ったUAEのGKエイサが空中でかき出した。ゴールラインを超えていたのかどうか、記者席の私には確認できなかった。だが帰宅して録画しておいた放送を見るとボールが完全にゴールラインを割った「証拠映像」があった。
この日はテレビ朝日とNHK・BSの2局で生中継があった。NHKのリプレーは斜め手前からゴールを映したもので、完全にラインを割ったかどうか確認はできない。しかしテレビ朝日の放送では、ゴールラインの延長線上に設置したカメラがまさに「そのシーン」をとらえていた。
私には近年の日本のサッカー放送に大きな不満がある。Jリーグの放送の大半は、オフサイドなど試合を決める重大な場面があっても判定の正誤を検証するリプレーがほとんど出ない。より正確に言えばカメラの台数が足りず、検証できる角度の映像自体がないのだ。瞬間的に、あるいは隠れた角度で何が起こっていたのか、それを白日の下にさらすのがテレビ放送の最大の「武器」のはずなのだが...。
「ことしの欧州選手権などで刺激を受けて、ホスト放送局として最高の映像をつくろうと計画しました」
9月1日の番組を担当したテレビ朝日の桜井健介プロデューサーはそう話す。Jリーグの放送ではカメラは6、7台だが、この日はピッチ上空を瞬時に移動する「スパイダーカメラ」も含めその4倍の30台近くを投入した。そして初めて設置されたのが「ゴールラインカメラ」だった。
「河本祐典チーフディレクターと技術チームが研究を重ね、観客席の手すりに無人の小型カメラを固定しました」
その最初の試合で決定的なシーンが生まれるとは、桜井さんでさえ予想しなかった。リプレー挿入のタイミングも絶妙だった。そして世界中が「幻のゴール」を知った。
カタールの審判団にとっては厳しい「証拠映像」だったかもしれない。だが私は「中東の笛」などと彼らを非難する気にはなれない。NHKの映像の角度でさえ確信はもてないのだ。主審はもちろん、副審も動きながら確認するのは極めて難しい。現行の審判制度では見きれないから、世界中が「ゴールラインテクノロジー」や「追加副審」、さらには「ビデオ副審」に血眼を上げているのではないか。
だがそうした議論も元になる「真実の映像」があればこそ。当然、制作費の制約はあるだろうが、真実を明らかにする「テレビの力」をもっともっと追及してほしいのだ。
テレ朝がとらえた「真実」の瞬間
NHKの映像では確信はもてない
(2016年9月7日)
2018年FIFAワールドカップのアジア最終予選が明日のアラブ首長国連邦(UAE)戦でスタートする。
過去3大会、順調に出場権を獲得してきた日本。だがアジア各国の力の接近で、今回は楽にはいかないだろう。最後まであきらめずに戦い抜く覚悟を、選手・チームだけでなく、メディアやファンも、もっておく必要がある。
過去20回のワールドカップすべてに出場し、5回の優勝を誇るブラジルでさえ、「こんどこそ予選敗退か」と青ざめたときがあった。1990年のイタリア大会予選だ。
89年9月3日、ブラジルは南米予選最終戦を迎えた。勝つか引き分けなら14大会連続出場。負ければ初の予選敗退となる。リオのマラカナン・スタジアムは16万人ものファンで埋まった。そして後半4分に待望の先制点。
だが後半25分、とんでもない事件が起こる。スタンドから1本の発光筒が投げ込まれてピッチに落下、チリのGKロハスが顔を覆って倒れたのだ。集まるチリの選手たち。駆けつけるドクター。頭部からおびただしい血を流したロハスが仲間に抱きかかえられて退出する。チリの選手たちは「安全が確保されていない」とピッチに戻らず、そのまま没収試合となった。
発光筒が投げ込まれたのはブラジルGKのキックがFWに渡らず、中盤でチリのDFが止めた直後。テレビカメラが映したのは、燃えさかる発光筒のそばに倒れたロハスの姿だった。発光筒が当たった瞬間の映像はなかった。
このままではブラジルが失格になることも...。国民の脳裏に「ブラジルのいないワールドカップ」がよぎる。
大混乱のなかでアルゼンチン人カメラマンのR・アルフィエリが「発光筒はロハスに当たっていない。その瞬間を撮った」と発言。役員が飛んできてフィルムの提供を求めた。だがこのとき彼は日本の『サッカー・マガジン』の契約カメラマンだった。
東京の編集部に電話を入れると、千野圭一編集長は『サッカー・マガジン』の発売前には他のメディアには出さないという条件でその写真を国際サッカー連盟(FIFA)に提出することを認めた。
深夜までに及んだ現像で浮かび上がったのは、発光筒がロハスの数メートル背後に落下する決定的なシーンだった。ロハスはケガを装い、あらかじめ用意した刃物で自らの額を切って血を流したのだ。1週間後、FIFAはブラジルの2-0の勝利を発表した。
もちろん、こんな「悪だくみ」がしょっちゅうあるわけではない。だが過去20回連続出場のブラジルにもこんなに際どい予選があった。私たちも、「覚悟」なくして予選を迎えることはできない。
(2016年8月31日)
日本選手の連日の活躍に沸いたリオ五輪。しかしサッカーはグループリーグを抜け出すことができず、残念な結果に終わった。
3試合で7得点。手倉森誠監督が率いた今回の五輪代表は、これまでにない攻撃力を世界に示した。しかし守備面で「幼稚さ」を露呈、初歩的なミスやコミュニケーション不足により次々と得点を献上してしまった。チームとしての戦い方、守備の場面での個々の選手の一瞬の決断力など、考えさせられる点の多い大会だった。
だが今回ブラジルで戦った18人の選手にとって、いや、大会直前に所属クラブの都合で出場できなくなったFW久保裕也や、悔しい思いを抱きつつ「バックアップメンバー」としてチームに帯同した4人の選手、さらにはメンバー選考からもれてJリーグで戦い続けた選手たちにとって、「リオ2016」はけっしてゴールではない。
五輪のサッカーは原則として23歳以下という年齢制限のある大会に過ぎない。言うまでもないことだが、サッカーには「ワールドカップ」という最高の目標があるからだ。
世界から隔離された28年間の暗闇を開き、久々に五輪出場を果たしたのが1996年のアトランタ大会。以後、2000年シドニー、2004年アテネ、2008年北京、2012年ロンドン、そして2014年リオと、日本は6大会連続出場を果たしてきた。ロンドン大会までの5大会に出場した選手の総数は、2大会に出場した4人を考慮すると86人になる。そしてその半数近くにあたる29人が、その後にワールドカップ出場を果たしている。
2004年アテネ大会で五輪代表を率いた山本昌邦監督は「アテネ経由ドイツ行き」というメッセージを掲げた。2006年のワールドカップ・ドイツ大会を、常に選手たちの視野に置かせたのだ。
この大会は1勝2敗に終わり、残念ながら「ドイツ」の地を踏めた選手もわずか3人に過ぎなかった。しかしその4年後の2010年ワールドカップ(南アフリカ)には「アテネ組」が6人もはいり、そのうち5人がレギュラーとして活躍、日本サッカー史上初のアウェーでのベスト16進出の原動力となった。
ことし8月10日、ブラジル北東部のサルバドールでほぼ完璧と言っていい試合をしてスウェーデンを1-0で下しながら敗退が決まった後、肩を落とす選手たちに、手倉森監督はこう声をかけた。
「あとはA代表にからんでほしい」
9月1日にスタートするワールドカップ2018ロシア大会のアジア最終予選から、「リオ世代」の新しい挑戦が始まる。
(2016年8月24日)
「リオ2016」の開幕が目前となった。総合開会式に先んじて、今夜(日本時間明日午前)には女子の、そして明日には男子のサッカー競技がキックオフされる。
「23歳以下」の年齢制限に加え、クラブに選手の放出義務がないことで、今回の男子サッカーはやや精彩に欠ける印象がある。だが南米のサッカーにとって、オリンピックは歴史的に重要な意味をもつ大会なのだ。
南米サッカー連盟は加盟わずか10カ国。現在国際サッカー連盟(FIFA)に加盟している209カ国の5%にも満たない。だがこの南米がなかったら、世界のサッカーはどれだけ味気のないものになっていただろう―。
航空交通が一般化するのは20世紀後半のこと。1920年代初頭、世界はまだ広く、欧州―南米間で2週間もの船旅を必要とした。この時代、サッカーで「世界」と言えば欧州だけだった。1904年に誕生したFIFAに欧州以外から加盟国が出るのに8年間も待たなければならず、加盟しても欧州との交流があるわけではなかった。
1924年、その「未開の大陸」南米から初めて欧州の地に上陸したのがウルグアイだった。パリで開催されたオリンピックに出場したのだ。もちろん全員がアマチュア。キャプテンのホセ・ナサシは大理石を扱う工員だったが、1カ月以上に及ぶ欠勤により失職するのは確実だった。
欧州の強豪に叩きのめされるのが明白と思われるなか、国の援助も少なく、チームは最も安い便で渡航した。そしてスペインに到着すると練習試合を重ねて出場料を稼ぎながらパリにたどり着いた。
だが大会が始まるとパリのファンはウルグアイのサッカーに心を奪われる。魔法のようなボール扱い、小気味よいショートパス、チーム一丸の攻守...。なかでも「鉄のカーテン」と呼ばれたMFラインで圧倒的な存在感を見せたホセ・アンドラーデのプレーは最大の話題となる。そしてウルグアイは5戦全勝で優勝を飾る。決勝戦もスイスに3-0の完勝だった。
ウルグアイは4年後のアムステルダム大会で連覇を達成する。余談ながらウルグアイという国がこれまでのオリンピックで得た金メダルは、この2大会のサッカーでの優勝だけだ。その2年後、1930年には、地元開催の第1回ワールドカップで優勝、南米が欧州勢に対抗する勢力であることを世界に納得させる。以後、世界のサッカーは「欧州対南米」の対決構造のなかで発展していく。
南米サッカーが「世界」へ向け大きく飛躍するきっかけとなったオリンピック。南米で初めての大会が、いよいよ幕を開ける。
El Graficoより
(2016年8月3日)
「こういう『守備力』もあるのか―」
改めて目を開かされる思いがした。鹿島アントラーズMF小笠原満男である。
先週末、カシマスタジアムでJリーグ第2ステージ第5節の浦和戦を見た。第1ステージ優勝の鹿島対3位に終わった浦和。年間勝ち点上位争いに関わる重要な一戦だ。
小笠原の異様な能力に気づいたのは後半なかばだった。1-1の状況で、鹿島は攻撃の圧力を高めた。次々とペナルティーエリアに送り込まれるボール。浦和守備陣が懸命にはね返す。そのボールが、驚くべき確率で小笠原のところに飛ぶのだ。確実に止め、的確に味方につなぐ小笠原。鹿島が2次攻撃をかける。
若いMF柴崎岳と「ボランチ」を組む小笠原。攻撃になると、柴崎は右サイドを中心にどんどん前線の選手たちにからんでいく。小笠原は大きく空いた中盤をほぼひとりでカバーし、浦和のクリアを磁石のように引きつける。
「守備力のあるMF」というと、一対一でボールを奪う能力の高い選手というイメージが強い。この面で現在のJリーグで際立つ存在が新潟のレオシルバだ。相手への寄せが速く、足を出せばほとんどボールを自分のものとし、奪ったボールは相手との間に体を入れて絶対に奪われない。
小笠原も一対一に強く、ボールを奪う力は高い。しかしこの日私が見たのは、広大なスペースのなかにぽつんと立っているように見えて、まるで巨大な網を張っているかのようにクリアをつかまえる、尋常ではない能力だった。
帰宅してからビデオで確認してみた。後半15分からの15分間で、小笠原は5回もこの能力を披露していた。
相手がぎりぎりのところでクリアするボール。鹿島がこうしたボールを回収したのは前半の45分間で8回。何人もが中盤で待ち構えるなか、小笠原はその半数の4本を拾った。後半45分間では15本中8本。だが後半なかばの15分間では鹿島が拾った8本のクリアボールのうち小笠原のところに5本も飛んできたのだ。この時間帯、どちらかといえば小柄な小笠原がどんどん巨大化するようにさえ感じた。
1979年4月5日岩手県生まれ、37歳。鹿島とともに6回のリーグ優勝を経験し、J1出場484試合。2011年の大震災後に「東北人魂をもつJ選手の会」を立ち上げ、率先して被災地支援活動を続けてきたことでも知られる小笠原。
身長173センチ、フィジカルに恵まれているわけではない。他に類を見ない能力は、経験とともに、誰にも負けたくないという気持ち、そして抜群の頭脳から生まれたものに違いない。小笠原の「特技」に、「守備」というものの奥深さを見た思いがした。
(2016年7月27日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。