「サッカーの大会は土曜・日曜・祝日のほか、週にいちどウイークデーの夜間の試合だけに限る。なおかつ2つの試合のキックオフ間は72時間以上空けなければならない」
ブラジル大統領のジャニオ・クアドロスがこの法令に署名したのは1961年7月21日のことだった。同法令には「夏期には午前10時から午後5時までにサッカーの試合を開催してはならない。すべてのサッカー選手は12月18日から1月7日まで休暇を取らなければならず、この期間はトレーニングも親善試合も不可とする」ことも明記された。
1958年にスウェーデンで開催されたワールドカップで念願の初優勝を果たしたブラジルのサッカーは、人気沸騰の時期にあった。なかでも「王様」ペレを擁するFCサントスには世界中から試合希望が殺到し、1959年には親善試合だけで40にも達した。
この年、18歳のペレはサントスで83試合、ブラジル代表で9試合に出場、計92試合で111ゴールを記録。現在では、ひとりの選手がプレーできる試合数は年間60試合が限界と言われているが、当時のペレはその1.5倍もの試合をこなしていたことになる。
クラブがカネ目当てに試合を増やすだけで選手の健康や選手生命の危機を顧みない状況に歯止めをかけるのがクアドロス大統領の狙いだった。法令が出た翌年の62年には、ペレの試合数はクラブと代表を合わせて60に減っている。
サンパウロ市市長、サンパウロ州知事から大統領になったクアドロスは、大衆的な人気をもち、大政党のことごとくから支持を得て1961年の1月に就任。キリスト教的な思想をもち、ギャンブルや海水浴場でのビキニ着用の禁止などの法令も施行した。だが冷戦のまっただなかの時期に親ソ連的な外交を展開したことから、わずか7カ月間で辞任に追い込まれる。「サッカー法令」はその短い在任期間の末期に誕生したものだった。
8月5日に開幕するリオ五輪。サッカーは8月3日に女子が、そして翌4日に男子の試合がスタートする。決勝まで6試合。正規の大会期間では消化できないのだ。かろうじて「72時間(中2日)ルール」は守られている。だが広大なブラジルの国土を移動しながらわずか2週間で6試合を戦い抜くのは、「過酷」を通り越している。「五輪でサッカーの実施は無理ではないか」とさえ思ってしまう。
サッカー以上に過酷な競技であるラグビーでは試合時間の短い「7人制」をオリンピック種目にした。サッカーも5人制のフットサル、あるいはビーチサッカーにしたほうがいいのではないか。1992年に75歳で逝去したクアドロス元大統領が健在だったら、そんな提案をしたかもしれない。
リオ五輪決勝会場のマラカナン・スタジアム
(2016年7月20日)
「偉大な仕事」とは、希有な才能によってなされるとは限らない。平凡な人びとが、ひとつの志の下、営々と続けることによって成し遂げられるもののほうが、この世の中にははるかに多い。
浦和レッズがホームの公式戦ごとに制作・発行してきたマッチデープログラム(MDP)が今週日曜日(17日)の大宮戦で500号を迎える。Jリーグ最初の公式大会ナビスコ杯が開催された1992年9月5日から24年、足かけ25シーズンの偉業である。
ただ「ホームゲーム500試合」は次の湘南戦(8月6日)。1997年5月の横浜フリューゲルス戦が雷雨で途中中止になり、改めて7月に行われた。そのときにMDPだけ1号増えてしまったのだ。
Jリーグには立派なプログラムを発行しているクラブがいくつもある。だが「ナビスコの年」から25シーズン継続しているのは浦和だけだ。
欧州のプロでは常識といっていいプログラム。Jリーグ時代になると、どのクラブも派手なものをつくり、無償配布するクラブもあった。しかし浦和は最初から「来場者に買ってもらう」方針をとり、安価に抑えた。
「毎試合必ず発行することで、10年間、20年間積み重ねれば歴史になる」という哲学の下の発行だった。
第1号は178部しか売れなかった。大赤字だった。クラブ財政が逼迫(ひっぱく)した時期には編集費の削減も余儀なくされた。だが不思議にどこからも「廃止論」は出なかった。
「ファンがスタジアムで過ごすための必需品。チームやスタッフとサポーターが気持ちを通い合わせるツールでもあります。販売員たちにも、一人ひとりのファンに対しその気持ちを込めてお売りするよう話しています」
そう語るのは、かつて広報担当でMDP制作も担当し、現在は浦和のマーチャンダイジング課長として販売を取り仕切る丸山大輔さんだ。
浦和のMDPは当初埼玉新聞社が制作を請け負い、2005年以後はクラブの直接制作となった。だが1992年以来一貫して編集に当たっているのが清尾淳さんだ。2005年、清尾さんはごく自然に埼玉新聞を退職し、浦和と直接契約した。
「選手や監督の生のコメントをサポーターに届ける。サポーターの生の声を選手に聞いてもらう。その思いでやってきました。実際、選手たちがスタジアムに到着してロッカールームにはいったとき、真っ先に手に取るのがMDPなんです。サポーターの声を読んで、『よしやるぞ!』と闘志をかきたてる選手もたくさんいます」(清尾さん)
ファン、サポーターとチーム、選手をつないで25シーズン。積み重ねが歴史となり、500号の偉業となった。
(2016年7月13日)
左タッチライン際から守備ラインの背後にワンタッチで大きく出されたパス。タイミングよく走りだした青いユニホームの7番が追う。追いすがるのは白いユニホームの5番。ペナルティーエリアにはいったところで青の7番が前傾しながらぐっと加速して体を前に入れる。遅れた白の5番は両手を相手の肩にかけ、2人はもつれながら倒れる。
7月2日、Jリーグ第2ステージ第1節のアビスパ福岡対浦和レッズ。青の7番は福岡MF金森健志、白の5番は浦和DF槙野智章である。そこに走ってきた池内明彦主審は右手でペナルティースポットを指し(ペナルティーキック=PK)、続いて腰のポケットからレッドカードを取り出して槙野に示した。
相手の決定的な得点の機会を阻止する反則を犯した選手を退場処分(レッドカード)で罰するルールが定められたのは1991年のこと。前年にイタリアで開催されたワールドカップで、こうした反則が横行した。イエローカード(警告)で済むなら、反則で止めたほうが得...。「プロフェッショナル・ファウル」とも呼ばれた行為を撲滅し、サッカーの魅力を取り戻すことが目的だった。
そのルールが、ことし25年ぶりに改正され、反則の種類によってはイエローカードだけで済むことになった。
欧州ではもう10年ほど前から「三重罰」への不満が募っていた。ペナルティーエリア内で「決定的得点機会阻止」の反則を犯すと、PK、退場(1人少なくなる)、そして少なくとも1試合の出場停止と、3つもの懲罰が重なり、厳しすぎるというのだ。何年間もの検討の末、ことしようやくルール改正された。
DFがスライディングで、あるいはGKが相手の足元に飛び込んで正当に防ごうとした結果、反則になってしまった場合には、イエローカードで済ませることにしたのだ。
ただし、こうした正当なプレーを試みた結果ではない反則、たとえば相手を押したり引っぱったり、プレーできる可能性がないのに体をぶつけた場合には、これまでどおりレッドカードが出される。槙野の場合には、絵に描いたような退場のケースだった。
その翌日、J2のロアッソ熊本対セレッソ大阪でもまったく同じような状況の反則で熊本DF薗田淳が退場となった。J1でもJ2でも、この週が新ルール適用の最初の試合だった。
奇妙なことに、前週までのJ1とJ2合わせて368試合では、決定的得点機会阻止による退場は皆無だった。新ルールが施行されたとたんに2例も生まれた理由がもし選手の理解不足にあったとしたら、恥ずかしいことだ。
(2016年7月6日)
初めて「EU(欧州連合)旗」を見たのは、1990年ワールドカップをイタリアで取材していたときだった。ナポリの丘の上の古城。その頂上に、青地に12の星が円形に並ぶ旗が翻っていた。
「2年後には、ヨーロッパは本当にひとつになるんだ」
居合わせたドイツ人観光客が誇らしげに話してくれた。
EEC(欧州経済共同体)やEC(欧州共同体)と呼ばれていたこの当時の加盟国は12。星の数は加盟国数と思っていた。だがこのデザインは6カ国によってEECが設立される1957年以前からあり、加盟10カ国だった1985年に正式採用されたものだった。
そして経済面だけでなく多くの面で加盟国が一体となったEUの成立(1993年)後も、さらに加盟28カ国に拡大した現在も、そのままの形で使われている。「12」という数字は、完全無欠さ、幸運、永遠を表しているという。
そのEUから主要国のひとつである英国が離脱することが国民投票で決まった。開票結果の現地速報の直後から株式市場や為替相場が大幅に動き、実際の離脱にはまだ年月はかかるというのに、世界に与えた衝撃は大きかった。
当然、サッカーへの影響もある。現在世界で最も多くのスター選手を擁し、華やかなだけでなく信じ難いほどの収益を挙げているイングランド・プレミアリーグを頂点とした英国のプロサッカーも、EUから離脱することにより、外国籍選手のプレーの可能性が減ると言われている。
現代のプロサッカーにとってEUの存在は大きい。1995年の「ボスマン判決」である。EUの最高司法機関が下したひとつの判決が、プロサッカー百年の歴史を変えた。
EU域内のプロリーグで他の国籍の選手の登録を制限してはいけないという決定は、世界中からスターというスターをかき集める「超ビッグクラブ」を生んだ。クラブが契約満了後も選手を拘束できる「保有権」という悪慣習を違法とする判決は、その後世界中に広げられ、クラブの所有物同然だったプロ選手を自由な身分に解放した。
ボスマン判決と前後してテレビのデジタル多チャンネル化の時代が訪れ、それまでのプロサッカーでは考えられなかった巨額がテレビ業界から舞い込むようになる。そして欧州のサッカーは空前の繁栄時代を迎えるのである。
そのEUから、英国が抜ける。EU旗の星の数が減るわけではない。だが「完全無欠さ」は大きく損なわれる。フランスやドイツなど主要国の国民にも「反EU」の空気が広がっているという。四半世紀前のボスマン判決のように、英国のEU離脱は、世界のサッカーの新たな変わり目になるのだろうか。
パリ (大原智子撮影)
(2016年6月29日)
ペナルティーキック(PK)を得たベネズエラ。MFセイハスが軽く浮かせてゴール中央にける。GKを先に跳ばせ、空いたところに決める狙いだ。だがアルゼンチンGKロメロは立ったまま。力なく浮いてきたボールを、ロメロは楽々とキャッチした...。
アメリカで開催されている南米サッカー連盟主催「コパアメリカ」の準々決勝。このPK失敗が響いたのか、ベネズエラは1-4で敗退した。
セイハスのPKには「パネンカ」という名前がある。サッカーで技に個人名がつくのはきわめて珍しい。
いまフランスでは24チームで欧州選手権が争われているが、40年前、1976年の欧州選手権決勝大会は出場わずか4チーム。5日間で準決勝から決勝までを戦う「ミニ大会」だった。6月20日の決勝戦でチェコスロバキアが世界チャンピオン(1974年ワールドカップ優勝)の西ドイツと対戦。そのチェコのMFが、アントニン・パネンカだった。
西ドイツにはDFベッケンバウアーなど世界的な選手がいたがチェコは2-2で延長戦を終える。そしてメジャーな国際大会では初めて、PK戦で優勝が争われることになる。
その4人目で西ドイツのヘーネスがゴール上に外す。チェコは5人目が決めれば初のビッグタイトルだ。そこに登場するのがパネンカである。
ボールを置き、ペナルティーエリア外まで下がるパネンカ。主審の笛を待ち、長い助走を一気に走る。そして最後の一歩を踏み込む直前に体をわずかに右に開く。西ドイツGKマイヤーが思い切り右に跳ぶ。だがパネンカは右足のスイングを急激にゆるめて軽くボールを浮かし、ゆっくりとゴール中央に送り込んだ。
この重要な場面でこの余裕のキック。誰もが驚愕した。
4年後、8チーム出場となった欧州選手権の3位決定戦で、彼は再びPK戦の舞台に立つ。また「パネンカ」がくるのではないかと疑心暗鬼のイタリアGKゾフ。だが彼は右足を振り抜き、右上隅に強いシュートを突き刺した。
その後、多くの選手が「パネンカ」を試みた。2006年ワールドカップの決勝戦では、フランスのジダンが見事な「パネンカ」で先制した。もちろん、ベネズエラのセイハスのようにみじめな失敗に終わった(失敗すれば当然笑い物になる)選手もたくさんいる。
最近は「パネンカ」を含めゴール中央にけるPKが増えている。詳細に数えたわけではないが、3回にいちどほどの割合ではないか。ならばGKはアルゼンチンのロメロのように真ん中に立っているのがいいと思うのだが、なぜか大半のGKが「読み」あるいは「ヤマ勘」に頼り、どちらかに跳んでしまう。
(2016年6月22日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。