夢の技術がある。「バックスピン」のかかったパスだ。
カタールで行われている男子のオリンピック予選、2戦目のタイ戦で日本の快勝の大きな要因となった前半27分の先制点。相手GKのキックをDF奈良竜樹がはね返し、MF矢島慎也がつないだボールをMF遠藤航がワンタッチで相手DFラインの裏に出す。それを追ったFW鈴木武蔵が頭のワンタッチで前に出し、次の瞬間に右足を振り抜いてゴール右隅に決めた。
鈴木のシュートは本当に見事だったが、私の目を引いたのは遠藤のパスの妙なバウンドだった。鈴木は相手DFより前に出ていたわけではなかった。普通のバウンドだったら相手が先に触れ、シュートはできなかっただろう。しかし遠藤のパスはワンバウンドすると前ではなくやや右に戻りぎみに弾んだ。それを鈴木が驚異的な反応で頭に当て、シュートにもち込んだのだ。
相手DFラインの裏へ浮き球を送るパスは難しい。弱ければDFにカットされるし、強いとバウンドしたボールがGKまで行ってしまう。だがもしボールの下側を鋭くけって「バックスピン」をかけることができれば、GKに取られずにチャンスができる。
しかし小さなゴルフボールやテニスボールをクラブやラケットで打つならともかく、サッカーボールでそんなことができるのだろうか。
そんな「夢のキック」を初めて見たのは1991年11月、日本サッカーリーグの「コニカカップ」決勝戦だった。トヨタ対本田。1-1で迎えた前半32分、トヨタのMFジョルジーニョがゴール正面からけったFKは相手DFラインの裏に落ち、ブレーキがかかるように戻った。走り込んだMF江川重光がこれを拾ってゴールにけり込んだ。
現在札幌でプレーするMF小野伸二は日本サッカー史上最高のテクニシャンだ。2001年、札幌ドームでの日本代表対パラグアイ戦。彼は相手ゴールに向かって自陣から左足で40メートルのパスを送り、FW柳沢敦の先制点をアシストした。GKチラベルトはロングパスをけり返そうといちどは前進したが、バウンドを見て慌てて戻ろうとした。しかし間に合わなかった。
小野はワールドカップでも夢の技術を見せた。2002年大会初戦のベルギー戦。このときは右足で自陣から相手陣深くに40メートルを超すパスを送った。走り込んだのはFW鈴木隆行。ワンバウンドして戻るボールを、いっぱいに伸ばした右足のつま先で流し込んだ。
遠藤は意図的にバックスピンをかけたのか、それともピッチ状態によるものだったのか―。だがともかく、相手DFから逃げるように絶妙に弾んだボールは、オリンピックへの夢を大きく引き寄せた。
(2016年1月20日)
アラビア半島東岸の半島国カタール。首都ドーハの1月はとても快適だ。
日中は半袖で過ごすことができるが、日没とともに涼しい風が吹き、ジャケットがないと寒いほどになる。まさに「サッカー向き」の季節だ。
そのドーハで、日本の若い代表チームがリオ五輪出場権をかけた戦いに挑む。U-23アジア選手権。第2回の今回はリオ五輪の予選を兼ね、出場16チーム中上位3チームに出場権が与えられるのだ。
1992年のバルセロナ大会から「23歳以下」となったオリンピックのサッカー。そのアジア最終予選は2000年のシドニー大会以来「ホームアンドアウェー」形式で行われていた。4チームずつ3組に分け、グループ1位にならなければならない形も厳しかったが、ホームでしっかり勝ち点を重ねることにより、苦戦しながらも日本は連続出場を果たしてきた。
だが今回は20年ぶりの集中開催。1次リーグを2位以内で突破し、さらに決勝トーナメントを勝ち上がっていかなければならない。こうした形式の大会で、ここ数年、日本は「準々決勝敗退」を繰り返している。負けた試合の大半は、優勢に試合を進めながら勝ちきれないという内容。一発勝負の厳しさと言える。
いろいろな事情で、今回のU-23は十分なチームづくりの時間を与えられなかった。昨年12月からはかなり集中して遠征や合宿ができたが、FIFAクラブワールドカップや天皇杯、そして海外クラブとの約束などで、全員がそろったのは1月2日に日本を出発する当日のことだった。
しかし現地にはいってからの練習試合で強豪のシリアとベトナムに連勝。課題だった得点力向上の兆しが見える。手倉森誠監督が強調してきた「ダイレクトに相手ゴールを目指すプレー」が浸透し、チームとしてアグレッシブに前へボールを運ぶ意識が共有されるようになった結果だ。
大きな強みは、2年前にオマーンで開催されたこの大会の第1回大会に出場した選手が、23人のなかに12人も含まれていることだ。第2回大会がリオ五輪予選を兼ねることが決まっていたため、第1回大会で日本は制限年齢より2歳下の選手たち、すなわち、今回の制限年齢の選手だけで臨んだ。準々決勝でイラクに0-1で敗れた悔しさを、選手たちは忘れていない。
非常に大きな意味をもつ今晩の初戦の相手は北朝鮮。昨年8月にハリルホジッチ監督率いるA代表が1-2で敗れたときに出場していた選手2人を擁する手ごわい相手だ。
ほぼ3日に1試合、6試合を戦い抜かないとつかめない「リオへの切符」。特定のエースに頼ることはできない。総合力が問われる戦いだ。
(2016年1月13日)
2016年。サッカーにとって大きな岐路の年だ。
昨年来のスキャンダルの嵐のさなか、国際サッカー連盟(FIFA)は2月26日に新会長を選出する選挙を行う。すでにさまざまな改革案が出されているが、新会長の下で根本から改革ができるのか、大事なのは選挙後だ。
日本でも、創立95周年を迎える日本サッカー協会で初の「会長選挙」が行われる。2013年のFIFA総会で傘下の全協会がFIFAの定めた「標準規約」に準拠した規約制定を義務づけられたからだ。
「公益財団法人日本サッカー協会」は、当然、日本の法律に縛られている。それによると「評議員会」によって理事会のメンバーが選ばれ、選ばれた理事たちの互選で代表者(会長)を決める。これまで日本協会会長が新理事会で決められてきたのは法律に沿ったものだった。だが登録チームや選手たちから遠いところで会長が決まっているという印象は否めなかった。
FIFAの標準規約では会長選挙の実施が必須。FIFAとの調整で時間がかかったが、ようやく今回実現した。
昨年12月1日から「立候補の意向者」を受け付け、原博実専務理事と田嶋幸三副会長がその意向を表明した。
しかし必ずしもこの2人だけが候補者になるわけではない。現理事(28人)と評議員(75人)が投票を行い、理事投票で1位になった人と、評議員投票で7票以上を得た人全員が候補者となる。
12月23日に始まったこの投票はきょう1月6日に締め切られ、その後、資格を満たしているか、小倉純二名誉会長を委員長とする「選出管理委員会」が審査、会長候補者となる意向の確認後、1月21日(木)に最終候補者が告示される。最終的な「選挙」は10日後の1月31日(日)に行われる臨時評議員会。過半数を得た者が「会長予定者」となる。この時点で正式決定にならないのは、国内法で新体制の第1回理事会(3月27日)を経る必要があるためだ。
ところで、「評議員って何?」との疑問があるだろう。
日本サッカー協会を構成する単位の代表者と考えればいい。かつては47の都道府県協会から1人ずつ、計47人だった。だが現状に合わせて昨年75人に増やされた。Jリーグを筆頭にした各種連盟やJ1の18クラブからそれぞれ代表者を入れたのだ。すなわち、評議員とは、日本全国のサッカーチームや選手の意思を代表する者ということになる。
「日本代表強化」を柱にすると話す原専務理事か、「育成」の重要性を訴える田嶋副会長か、あるいは...。
この選挙を通じて、日本サッカー協会がより開かれた組織になることを期待したい。もちろん何より大事なのは、FIFAと同様、新会長が当選後に何をするかだが...。
(2016年1月6日)
2015年はなでしこジャパンの女子ワールドカップ決勝進出はあったが、日本のサッカー全体を振り返ると「苦戦の年」だった印象がある。
男子アジアカップは準々決勝敗退。日本代表監督に就任する前の八百長疑惑でアギーレ監督が契約解除となり、代わったハリルホジッチ監督下でもぱっとしない試合が続いている。AFCチャンピンズリーグは、ことしも優勝カップに手が届かなかった。
だがその年の終わりに、そんな暗雲を吹き飛ばし、これからの日本サッカーの大きな指針になるような革命的なものが完成した。来季ガンバ大阪のホームとなる「市立吹田サッカースタジアム」だ。
4万人収容、日本代表の国際試合もできるサッカー専用スタジアム。直線の組み合わせでできた外観だけでそのすばらしさが想像できる。そして一歩足を踏み入れると、期待を上回る世界第一級の施設であることがわかる。
スタンドとピッチの距離は選手に手が届きそうなほど近い。ゆったりとした座席、第一層のスタンドの背後に設けられた広いコンコース、観客席を完全に覆う屋根...。ストレスなしに観戦を楽しむことを最優先に考えた設計思想を感じ、知らないうちに頬がゆるんでいる自分に気づく。
同時に、美しい八角形の外観は軽量で耐震性の高い屋根の設置を可能にし、その屋根につけたソーラーパネル、照明をすべてLEDにするなど、最新の安全技術とエコ技術が採り入れられている最先端のスタジアムでもある。
だが「革命的」なのはそうしたことではない。140億円の建設費は、106億円近くを法人や個人からの募金でまかない、そこにスポーツ振興くじを中心とした補助金を加えて達成した。一切、国や自治体の手をわずらわせずに造り上げたスタジアムなのだ。「市立」になったのは完成後に吹田市に寄贈されたため。管理運営は全面的にガンバ大阪に任されている。
いわばサッカーファンとサッカーを応援する地域財界の手だけでつくられたスタジアム。だからこそ、使用するクラブや選手、そしてそこで試合を楽しむファンのために徹した施設が実現したのだ。
2016年に24季目を迎えるJリーグ。初期のスタジアムの大半は「代替わり」したが、2002年ワールドカップで使用したスタジアムも陸上競技型のものは時代後れになりつつある。新時代を切り開くことができるのは「利用する者」が主体的に建設するスタジアムに違いない。
正面ゲートの前に立つと、スタンド一体の歓声やファンの笑顔まで感じることができる。このスタジアムは、間違いなくガンバ大阪と日本のサッカーに新しい時代を開く。
(2015年12月16日)
いまから61年前の1954年12月13日月曜日、イングランド中部のウォルバーハンプトンで地元クラブのワンダラーズ(愛称ウルブズ)がハンガリーのホンベドを迎えた親善試合が行われた。
前年、ウルブズはクラブ所有のモリノー・スタジアムに1万ポンド(現在の感覚では1億円ほどだろうか)で夜間照明設備をつけた。サッカー場の照明は19世紀に生まれたが、イングランドでは1930年に禁止され、ようやく51年に解禁された。いち早く飛び付いたのがウルブズだった。
ウルブズは53年の秋から欧州の強豪を招いてウイークデーの夜に親善試合のシリーズを開催した。照明に映えるようにと、クラブは光沢のある絹地の特別なユニホームを用意した。その8試合目が54年12月のホンベド戦だった。
前年11月にロンドンでイングランドを6-3で下して世界に名をとどろかせたハンガリー代表の中核をなすのがホンベド。自他ともに「世界最強クラブ」と認めていた。
迎えるウルブズはこの年初めてイングランド・リーグで優勝。当然、大きく注目された。このシリーズではどの試合もスタジアムは5万5000人の観客で満員だったが、この日は特別にBBCテレビで生中継されたほどだった。
そしてウルブズは勝った。序盤に2点を許したが、後半立ち上がりに怪しいPKの判定で1点を返すと、終盤にはエースのロイ・スウィンボーンが連続得点して逆転、3-2の勝利をものにしたのだ。
狂喜したのはハンガリー・サッカーに強烈なコンプレックスを抱いていた英国メディアだ。『デイリーメール』紙は「世界チャンピオン」とウルブズを持ち上げた。この年のワールドカップ優勝こそ逃したが、ハンガリーは依然として世界最強と評価されており、ホンベドには名手フェレンツ・プスカシュを筆頭にハンガリー代表の主力が6人も並んでいたから無理もない。
だが...。「それを書くならウルブズがアウェーでもホンベドに勝ってからだろう」
2日後のパリ。英国から到着した新聞を広げてつぶやいたのはフランスのスポーツ専門紙『レキップ』編集長ガブリエル・アノだ。「しかしウイークデーに強豪クラブ同士が対戦するアイデアは面白い。世界チャンピオンとまではいかなくても、欧州の王者はそれで決められるかも...」
彼の提案から翌年誕生したのが欧州チャンピオンズカップである。5年後には南米チャンピオンを決めるリベルタドーレス杯が始まり、クラブ世界一を決める試合も誕生した。その試合はトヨタカップを経て2005年に「FIFAクラブワールドカップ」となった。2年ぶりの日本開催。明日、横浜で開幕する。
(2015年12月9日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。