サッカーの話をしよう

No.1187 五輪サッカー記念日

 きょう10月14日は、ちょうど50年前、1968(昭和43)年にメキシコ五輪で銅メダルを獲得した記念日である。
 21日には東京都内で50周年記念のパーティーが開かれ、その会に出席した現・日本代表の森保一監督は2020年東京五輪での金メダルを誓ったという。先人たちの偉業を思い、未来への決意に結び付ける行事は本当に意義深い。
 10月24日は、五輪のサッカー自体の記念すべき日でもある。1908年、五輪正式種目としての初めてのサッカー決勝戦が、この日だった。
 1896年にアテネで始まった近代五輪。サッカーは第2回パリ大会で公開競技となり、この1908年ロンドン大会で正式競技となった。日本では明治41年のこと。国際サッカー連盟(FIFA)は誕生から5年目で加盟は欧州の15カ国に過ぎず、国際オリンピック委員会(IOC)の代表は45歳の初代会長ピエール・ド・クーベルタン男爵だった。
 実はこの1908年夏期五輪はイタリアのローマで開催の予定だった。だが2年前のベスビオ火山の噴火でナポリが甚大な被害を受け、復興に資金が必要なため返上を余儀なくされてロンドン開催となった経緯があった。ロンドンではこの年巨大イベント「英仏博覧会」計画されており、その会場内に建設されたホワイトシティ競技場を主会場として使ったのだ。博覧会の一部のようにさみだれ式に五輪の各競技が行われたため、開幕は4月27日、閉幕は10月31日と、半年間以上にわたる「超ロングラン五輪」となった。
 サッカーには英国のほか欧州の7カ国がエントリーしたが、ハンガリーとボヘミアが棄権して5カ国となり、フランスが2チームエントリーして6チームの大会となった。ただフランスBは10月19日の大会初戦でデンマークに0−9で完敗、フランスAも準決勝で同じデンマークに1−17という現在も残る五輪記録で大敗。失望したフランスは3位決定戦を棄権した。
 10月24日、最初の「五輪金メダルマッチ」は英国×デンマーク。だが7万人収容のスタンドを埋めたのはわずか8000人だった。英国は各クラブから1人ずつ選出した実質「イングランドB代表」だったが、英国人コーチに鍛えられて黄金期にあったデンマークのスピード攻撃に耐え、前後半に1点ずつ取って2−0で優勝。見事「母国」の意地を見せた。
 日本が初めて五輪に選手団(といっても嘉納治五郎団長と選手2人)を送るのはこの4年後の1912年ストックホルム大会。サッカーの五輪初出場は28年後の1936年ベルリン大会。そしてメダル(銅)に手を届かせるのは、最初のサッカー決勝戦からちょうど60年後のメキシコ大会ということになる。

(2018年10月24日) 

No.1186 ABBAかABBAか

 10月14日のJリーグ・ルヴァンカップ準決勝第2戦、湘南×柏で、久々に心を揺さぶられるPK戦を見た。
 湘南が先制し、柏が追いついて1−1で延長戦に突入。ここでも湘南が先に取ったが113分に柏が同点としてPK戦となる。先攻湘南の3番手梅崎が上に外すと、柏も4番手が失敗。最後は柏の6番手、延長戦で同点ゴールを決めた山崎が外し、湘南が初の決勝戦進出を決めた。
 ところでこのPK戦は従来どおりの方法で行われた。コイントスで勝ったチームが先攻か後攻かを決め、1人ずつ交互にけっていく方法だ。実は、ことしのルヴァンカップでは別の方法が使われることになっていた。昨年「試験導入」が認められた「ABBA方式」である。
 従来の「先攻--後攻--先攻...」という「ABAB方式」ではなく、「先攻が1人けったら後攻が2人けり、また先攻が2人...」という形が「ABBA方式」だ。
 従来の「ABAB」では、先攻が有利とされてきた。心理的なものだろうが、ある調査では先攻チームの勝率は6割を超すという。その不公平感を解消するためにと提唱されたのが「ABBA」方式だった。昨年「試験導入」が認められ、日本も参加したU−20ワールドカップ(韓国)で採用された。ことしのロシア・ワールドカップでも使われると予想されたため、ルヴァンカップとともに天皇杯全日本選手権で「ABBA方式」が採用されることになった。
 5月に1回戦が行われ、先月のラウンド16(4回戦)まで80試合が消化された天皇杯では、ほぼ6試合に1試合、計13試合がPK戦となった。結果は「先攻」の9勝4敗。勝率は7割近くになる。ただし「ABBA」の導入可否を論ずるには、この試合数ではまったく足りない。
 天皇杯では6月の2回戦で審判団がPK戦の運用を間違え、3週間後にPK戦のみやり直すという大きな不手際があった。不正なキックを「失敗」とすべきところを「やり直し」させてしまったのだが、審判たちは初めて経験する「ABBA方式」に気を取られてしまっていたらしい。
 ワールドカップで採用されなかったこともあり、Jリーグはルヴァンカップの準々決勝(9月)から「ABAB方式」に戻すことを決定した。この大会ではそれ以前にはPK戦がなく、10月14日の準決勝、湘南×柏がことしの大会で初のPK戦だった。
 湘南の決勝進出が決まった瞬間、PKを失敗した梅崎は安堵のあまりか、ピッチに突っ伏した。選手にとって、PK戦は通常のプレーとは比較にならない重圧だ。キックの順番を変えても、その重圧が軽減されるわけではない。

(2018年10月17日) 

No.1185 死語になった『衣替え』

 夜の試合の取材に何を着ていくか、毎回迷ってしまう。10月にはいってから、「11月下旬なみ」の予報が出たかと思うと、別の日には30度を超す「真夏日」となった。
 「衣替え」という言葉も、すっかり死語になってしまったようだ。以前は10月1日になると高校生たちがいっせいに「冬服」になり、季節を感じさせたが、最近はコート姿と半そで姿が入り交じって歩いていても違和感がない。
 サッカーのユニホームも、同じようなことが言える。
 ずいぶん昔の話になるが、1970年の11月にユールゴルデンというスウェーデンのクラブが来日し、日本代表と4試合を戦った。東京・国立競技場での初戦は降りしきる雨の中での一戦。ユールゴルデンが若手主体の日本代表に6−1で圧勝したのだが、何より驚いたのは、凍えるような雨のなか、ユールゴルデンの選手たちが半そで姿でプレーしていたことだった。日本代表は、もちろん、全員が長そでだった。
 サッカーのユニホームは、昔は生地も厚手で、私のような「草の根プレーヤー」は半そでのユニホームなどもっておらず、長そで1枚で1年を通した。秋から春まで3シーズン使えるからだ。夏には、そでを折り曲げ、たくし上げてプレーした。
 それぞれの選手はシャツ、パンツ、ストッキングとも、色の違う2種類を用意する必要がある。シャツだけと言っても、そのうえにさらに半そでを2枚購入するのは大きな出費だった。もちろん、トップクラスのリーグや日本代表では、半そでも用意されていたが...。
 最近は「草の根」でも半そでが基本のようだ。素材も、暑い時期の体温放出機能が重視された薄手のものになっている。寒い時期にはアンダーシャツを着用して対応するスタイルが違和感なく受け入れられるようになったからだ。現在では公式ルールにもアンダーシャツについての規定が盛り込まれ、ユニホームの主たる色と同色でなければならないと定められている。
 寒い時期の試合で長そでを着るか、半そでにアンダーシャツのスタイルにするかは、個人の好みのようだ。その結果、冬になると両スタイルが混在することになる。よく見ると少し違うのだが、大きな問題ではない。
 プロの試合では、近年、真冬でも半そで姿でプレーする選手を見るのが珍しくなくなった。私の感覚では、長そで(あるいは半そでプラスアンダーシャツ)にしたほうがけがの予防にもなるのではないかと思うのだが、それぞれの考えでプレーしやすい形にした結果なのだろう。サッカーでも、「衣替え」は完全に死語になったようだ。

(2018年10月10日) 

No.1184 判断の速さが武藤雄樹の力

 台風24号が迫るなか開催された9月30日のJリーグ浦和×柏。FW興梠の才能あふれる2本のシュートが浦和に3−2の勝利をもたらしたが、浦和の全3得点を「アシスト」したFW武藤雄樹の活躍も見逃せないものだった。
 この試合、武藤は興梠との「2トップ」の一角として先発、0−1で迎えた前半38分に右サイドに流れてパスを受け、走り上がってくるMF長沢にタイミングを逃さずクロスを送って1点目を演出、3分後には興梠へのスルーパスで逆転ゴールを生みだした。そして2−2で迎えた後半36分には、左からのクロスをペナルティーエリア右で受け、正確なクロスを興梠に送って勝利をもたらした。
 3−5−2システムの2トップだったが、後半28分に右ウイングバックの橋岡に代えてFW李が送り出されると、以後武藤は右ウイングバックでプレーした。守備で柏のクリスティアーノに対応しながら、決勝点を生みだす攻め上がりを見せたのだ。
 仙台から浦和に移籍して4シーズン目。1988年11月7日生まれの武藤は、もうすぐ30歳を迎える。神奈川県中央部の座間市出身。横浜市の武相高校、茨城県の流通経済大学を経て仙台でプロになったのは、2011年のことだった。この年の開幕直後に東日本大震災。武藤は9月にJリーグ・デビューを飾る。
 だが武藤がその才能を開花させるのは、プロ5シーズン目の2015年に浦和に移籍してからだった。当時ミハイロ・ペトロヴィッチ監督が指向していた高度なコンビネーションのサッカーにまたたく間に順応し、欠くことのできない選手になったのだ。浦和での活躍を認められて日本代表にも選出され、2試合に出場、2ゴールを決めた。
 身長170センチ、体重68キロ。強さやパワーの面では、Jリーグでも平均以下だろう。武藤の最大の「武器」は、労を惜しむことのない運動量と、何よりも判断の速さだ。
 パスを受け、ターンする。顔を上げ、状況を見る。そしてその瞬間には、正確なパスが出ている--。見てからプレーまでが異常に速い。見た情報が「脳経由」ではなく直接足に行くかのように見える。
 「体が小さいので、とくにプロになってから速い判断を意識してきた。判断を間違えなければ、ボールを奪われることはない」と武藤は語る。
 「判断とは見ること。見なければ判断はできない。ボールがくる前から周りを見て、相手の位置を確認する」
 その努力の積み重ねがプレーの速さにつながり、彼をチームにとって不可欠な存在にした。武藤雄樹は、サッカーに取り組んでいる少年少女たちに、スタジアムでぜひとも見てほしい選手のひとりだ。

(2018年10月3日) 

No.1183 欠落したヘディングの指導

 ことしのワールドカップ、準々決勝のイングランド×スウェーデンで「ヘディングの芸術」のような試合を見た。両チームとも頭で美しくパスをつないだ。
 1993年にスタートしたJリーグの25年間で、日本のサッカーは長足の進歩を遂げた。技術、戦術だけでなく、フィジカルもメンタルも、25年前の選手たちと大きな違いがある。だがただひとつ、まったく進歩していないものがある。ヘディングの技術だ。
 頭でボールを打つ「ヘディング」というプレーは、サッカーにしかないもの。「手を使えない」ということとともに、ヘディングはサッカーを特徴づけるプレーといえる。
 私は、ヘディングは基本的に簡単な技術だと思っている。両目にいちばん近いところでできるプレーだからだ。手や、目からいちばん遠い足でボールをとらえるより、ほぼ両目の間でボールをとらえるほうがはるかに簡単だ。
 日本選手がヘディングができないというわけではない。みんな毎日の練習のなかで必ずヘディングを繰り返している。私が言いたいのは、ヘディングで味方に渡すことができないということだ。
 この25年間で、キックの精度は明らかに向上している。長短のパスを必要に応じて使い分け、パスをつなぐ技術はワールドカップでもけっしてひけを取らない。しかしいったんボールが空中に上がり、頭で味方につなげなければならなくなったとき、日本選手のヘディング技術はまるで幼児のようになってしまう。
 相手がいる状況、すなわちヘディングの競り合いかどうかは関係がない。相手がいなくても、日本選手のようにただ前にはね返すだけでは、相手に渡る確率が高い。これはサッカーという競技の自然の姿と言ってよい。自分がプレーするとき、味方は10人、相手は11人だからだ。
 日本選手がヘディングがへたなのは、明らかに指導の欠陥といえる。ヘディングといえばいかに相手に競り勝つかの練習しか行われておらず、「正確に味方につなげる」という、キックでは当たり前のテーマが欠落しているのだ。
 日本選手は上がったボールしか見ず、ただ相手より先にボールに触れようとする。だが正確に味方に渡すには、ボールの落下点を見極めた後、ボールから目を離して味方と相手選手の状況を見、どこにどんな「パス」をするか、判断する必要がある。そして再びボールを見て正確にヘディングをする。このトレーニングを集中的にすれば、ヘディングでのパス能力は短期間で飛躍的に向上するはずだ。
 日本選手にイングランドやスウェーデンのようなヘディングができたら、Jリーグの試合は確実に質が変わる。

(2018年9月26日) 

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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