2015年は日本人監督の「豊作」だった。
就任2年目で磐田をJ1に復帰させた名波浩監督(43)、シーズン半ばに就任して鹿島を変貌させた石井正忠監督(48)、ACLで旋風を巻き起こした柏の吉田達磨監督(41)、就任1年目で福岡を戦えるチームに仕立て上げた井原正巳監督(48)、そして山口をホップ、ステップ、ジャンプのようにJ2まで引き上げた上野展裕監督(50)...。
そうしたなかでさらに強い印象を受けたのは、天皇杯の2回戦でJ1きっての攻撃力をもつ川崎に真っ向からぶつかった島根県代表・松江シティFCのサッカーだった。
J1から数えれば5部にあたる中国リーグのクラブ。もちろん選手は全員アマチュアである。前半こそ押し込まれたが、後半には伸び伸びと自分たちのサッカーを展開、何回も川崎ゴールを脅かした。そのチームを率いていたのが独自の理論で指導に当たってきた片山博義監督(43)だ。
東京で生まれ、高校卒業後にドイツに渡ってプレー。ケガで引退を余儀なくされたが、指導者に転じてドイツでライセンスを取得した。2014年に松江のヘッドコーチとなり、9月に監督に就任して、ことしは2季目だった。
ピッチを32分割し、ボールがどこにあるかで自分がどこにいるべきかポジション取りを明確にする、攻撃の優先順位やパスをつなぎやすい距離を共有する...。片山監督の指導は、少しというより、かなり風変わりだ。
「99%が攻撃のサッカー」と、片山監督は自らのサッカーを表現する。相手がボールをもっている状況でも、選手たちに「相手にもたせて奪いにいく時間」ととらえさせ、攻守一体を実現した。
はっきり言ってJ1と中国リーグの選手たちでは「個」の能力に大きな差がある。しかし片山監督にプレーの原則を叩き込まれた松江の選手たちはそんなことはものともせず、チームとしてのプレーで渡り合い、プロの守備を何回も突破して見せた。
片山監督や冒頭に挙げた日本人監督たちは、個の力に頼るのではなく、それぞれの創造性あふれる手法で勇敢にそして前向きに攻撃を展開するサッカーを実現した。それが勝ち負けを超え、浮き立つような試合につながった。
サッカーは試合内容と結果がつながりにくい競技。勇敢なチャレンジがいつも勝利に結びつくわけではない。それでも志を捨てず、信じる道を進んでほしいと思う。
柏の吉田監督と松江の片山監督は今季終了とともに退任する。今後、どんなチームでどんなサッカーを見せてくれるのか、楽しみに待ちたい。
片山博義監督(松江シティFC)
(2015年12月2日)
「どんな作家でもこんなシナリオは書けない」
あるサッカー番組で、司会者がこう表現した。11月23日、日本の各地でJ2が11、J3が6つ、計17の試合が行われた。どちらも最終節。そして昇格をめぐって、予想もつかないドラマがあった。
優勝ならJ2に自動昇格、2位ならJ2の21位と入れ替え戦となるJ3。最終戦を前に、1位山口と2位町田が勝ち点77で並んでいた。得失点差では山口が大きくリードしている。
山口は鳥取、町田は長野と、ともにアウェーゲーム。開始早々に失点して苦しんだ山口だったが、後半17分にFW岸田のヘディングで追いつく。その直後には、町田が長野に先制点を許し、山口ベンチに安堵(あんど)の表情が広がる。
だが10分後、鳥取のMFフェルナンジーニョに個人技で決められ1-2。するとこんどはその直後に町田が同点に追いつく。そして町田はそのまま1-1で引き分ける。
山口が負けなら優勝は町田だ。だが時間がなくなっても山口はパスをつなぐスタイルを捨てず、「4分間」と示されたロスタイムが過ぎても辛抱強くチャンスをうかがう。そしてロスタイムが5分を回ったとき、ゴール右でパスを受けたMF平林が思い切りよくシュート、密集を抜けて低く決まり、2-2の同点。山口のJ3昇格1年目での優勝とJ2昇格が決まった。
J2は前節に大宮の優勝とJ1昇格が決まり、残りひとつの「自動昇格枠」をめぐって磐田と福岡がともに79勝ち点で争っていた。
こちらも得失点差で勝る磐田が有利な状況。しかし磐田は21位でJ3との入れ替え戦出場が濃厚な大分の奮闘に苦しめられ、ようやく先制点が生まれたのは後半17分。この時点で福岡は岐阜と1-1だったが、その後3連続得点して4-1と勝利を決定的にした。だが得失点差で磐田を追い抜くことはできない。
ところが後半45分、大分のMFパウリーニョが強烈なロングシュートを決め、磐田は同点に追いつかれる。このまま終われば福岡が昇格だ。
だが磐田の闘志はくじけなかった。左から攻め上がり、MF上田がクロス。FW森島のジャンプは届かなかったが、その背後に走り込んだMF小林が胸で止め、得意の左足を振り抜くと、ボールはGKの手をはじいてネットに突き刺さった。同点にされてから決勝ゴールまで、わずか62秒間の出来事だった。
J2もJ3もあまりに劇的だった最終日。しかし町田も福岡も落ち込んでいる時間はない。町田は大分との入れ替え戦が、そして福岡はJ1昇格の最後の1枠をかけた「プレーオフ」が11月29日に始まる。
(2015年11月25日)
日本代表は成長しているだろうか―。
昨夜のカンボジア戦で、日本代表は2015年の活動をすべて終えた。
昨年夏に就任したハビエル・アギーレ監督が契約解除となり、バヒド・ハリルホジッチ監督が就任して9カ月。
就任前に昨年のワールドカップの日本の試合をビデオで分析したハリルホジッチ監督は、相手のゴールによりダイレクトに向かっていく攻撃、よりアグレッシブにボールを奪いに行く守備を求めた。どちらも現在の世界のサッカーのトレンドと言ってよい。
最初の親善試合では、目に見える変化があった。攻撃にスピードが生まれ、アフリカやアジアのトップクラスを相手に3連勝、得点11、失点はわずか1。だがワールドカップ2次予選初戦のシンガポール戦を0-0で引き分け、急激に風向きが変わった。
秋にはいって、予選では着実に勝利を収めたが、ハリルホジッチ監督就任当初の試合にあふれていた意欲や破壊力は影をひそめたままだ。思い切りの良さがなくなって、どこかミスを恐れるプレーばかりになってしまっている。
ハリルホジッチ監督の9カ月間で、日本代表は成長したのか―。
「した」と言い切れないのが残念だ。現在の日本代表からは、試合ごとに、そしてひとつの試合のなかでさえ新しいものが生まれるような躍動感、「成長する力」が伝わってこないのだ。
最近の日本代表でそうした伸びが見られたのは2010年から2011年にかけてだった。DF長友佑都、MF本田圭佑、MF香川真司、DF吉田麻也、FW岡崎慎司らがこの時期に次々と所属の欧州クラブで頭角を現し、日本代表でも主力となった。だが彼らが中心という時代が4年以上経たいまも続いていることこそ、閉塞(へいそく)感の最大の理由だ。
昨年からことしにかけて、2人の代表監督の下で何人もの若手が代表にデビューし、注目を浴びた。しかしその誰もが「中心選手」と呼ばれるほどにはなっていない。
ただ出場試合数を伸ばすだけでは足りない。先輩たちを押しのけ、中心選手となって日本代表を引っ張る存在にならなければならない。
来年、日本代表はワールドカップのアジア最終予選という正念場に臨む。その大事な時期に急成長を見せる選手が何人いるか―。MF山口蛍、FW宇佐美貴史、MF清武弘嗣、FW武藤嘉紀、FW金崎夢生、そしてFW南野拓実、あるいは...。
監督はチームを整備することはできる。だが成長させることはできない。それを可能にするのは、選手自身の「成長する力」以外にない。
(2015年11月18日)
自らの不明を恥じている。
26年前、国際サッカー連盟(FIFA)は1989年の「FIFAフェアプレー賞」をトリニダード・トバゴに与えた。この国はワールドカップ出場に王手をかけていたが、ホームでの最終戦でアメリカに敗れ、その夢が破れた。しかしサポーターたちは試合後もにぎやかに歌い、踊り、自分たちを楽しませてくれた代表チームを称賛した。
「予選の終結は、なんとカラフルで喜びにあふれていたことだろう」。FIFA事務総長ジョゼフ・ブラッター(現会長)は絶賛し、トリニダード協会と観客にフェアプレー賞を授与した。彼はこの賞を決める立場にあった。
フェアプレーの見本のひとつとして、私はなんどもこの「美談」を紹介してきた。しかしとんだ「裏」があった。
予選は90年イタリア大会出場権をめぐるもの。次回、94年は当時サッカー不毛の地と言われたアメリカでの開催だった。U-20大会で年齢制限を超えた選手を出したメキシコへの90年大会「出場停止処分」には、なんとしてもアメリカを出場させ、94年の盛り上げにつなげようというFIFAの意図が透けて見えた。しかし予選の試合にまで「工作」があったとは...。
近刊『FIFA腐敗の全内幕』(A・ジェニングス著、文藝春秋社刊)によれば、トリニダード代表チームはFIFA理事であり同国サッカー協会の事務局長(!)ジャック・ワーナーから露骨な妨害を受けていた。自らの野望のために、彼は祖国のワールドカップ初出場を売ったのだ。
チームの意向に反して宿舎を競技場まで1時間半もかかるところに置き、選手たちが頼りにしていた心理学者を合宿から追い出した。試合日の移動はおんぼろのミニバン。さらには収容人数を大幅に上回る入場券を販売した。試合前の大混乱のなか、バンは路上で止められ、選手たちは怒る群集をかき分けてようやく更衣室にはいった。
試合は圧倒的に有利とされていたトリニダードが集中を欠いた前半にアメリカが先制。後半、トリニダードは猛攻を仕掛けたがゴールを割ることはできず、アメリカの40年ぶりの出場が決まった。
この結果は94年大会のアメリカ開催を強引に推し進めたFIFA会長ジョアン・アベランジェと事務総長ブラッターを狂喜させた。翌年、アベランジェは「功労者」ワーナーを強く推薦して北中米カリブ海サッカー連盟会長の座に据え、ここからアベランジェとワーナーを軸とするFIFAの巨大汚職が本格化する。
「フェアプレー賞」の美名の陰で行われたサッカーやファンへの裏切り行為。その罪が「公正(フェア)」に裁かれる日は来るのだろうか。
(2015年11月11日)
チリで開催中の17歳以下のワールドカップで、ナイジェリアの強さが際立っている。
前回のチャンピオンでもあるナイジェリアは、ラウンド16でオーストラリアに6-0で大勝。準々決勝のブラジル戦では、序盤こそ攻め込まれたものの前半29分から3点を連取してなんと3-0で完勝したのだ。2大会連続、5回目の優勝も見えてきた。
ナイジェリアは1985年に中国で開催されたこの大会の第1回大会チャンピオン。「黄金世代」と呼ばれたその選手たちを中心に1994年にFIFAランキングで5位を記録し、96年にはオリンピックの金メダルも獲得した。「21世紀はアフリカの時代」と言われたのはこのころだ。
実際、現在では世界各地で200人を超えるナイジェリア選手が活躍している。だがナイジェリア代表自体は順調ではなく、現在のFIFAランキングは52位。アフリカでも10番目。アフリカ最大の人口(1億7850万)を誇る「盟主」としては寂しい。
しかし今回のU-17ワールドカップを見ても、ナイジェリアの潜在力は明らかだ。
今大会で脚光を浴びているのは、5試合にフル出場、全試合で得点しているFWビクター・オシメン。通算8得点で早くも得点王確実と言われている。大会前は仲間の陰に隠れていたが、184センチの長身、スピードと強さを備え、右利きながら左足でも頭でも決める力をもつストライカーだ。ブラジル戦も彼のヘディングで先制点が生まれた。
こうしたタレントが続々と輩出される背景には、「アカデミー」の存在がある。
サッカー選手育成のための組織であるアカデミーが初めて設立されたのは1995年。ペプシコーラの出資によるものだった。そして続々と代表選手を生み出すと、ここ10年ほどのうちに欧州のクラブやマネージメント会社が投資して次々にアカデミーを設立、現在は百を超えるアカデミーが国内に乱立する。オシメンもそうしたアカデミーのひとつに所属している。
サッカー指導とともに中等教育も施すアカデミーの存在により、選手たちは欧州のクラブに行っても文化の違いに戸惑うことはないという。
「得点王など二の次。チームが優勝することが何にも優先する目標だ。僕たちはチームとしてプレーし、チームとして勝ち、また敗れる」
16歳のエース、オシメンの言葉には、かつてのナイジェリアのスターたちのような傲慢(ごうまん)さはない。
1994年ワールドカップのヒーローでスペインのバルセロナでもプレーしたアムニケ監督の影響もあるだろう。しかしそれ以上に、アカデミーのしっかりとした「教育」の成果であるような気がする。
(2015年11月4日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。