中国の武漢で行われていた東アジアカップで、4チーム中、日本は女子が3位、男子は4位だった。他国のことを心配している場合ではない。しかし私は、中国のサッカーについて考えている。
私が初めて中国代表を見たのは1975年。文化大革命の荒波を経て10年ぶりに国際舞台に立ったのが、香港でのアジアカップ予選だった。
すばらしいチームだった。守備は山東省出身で大柄な主将・戚務生が引き締め、前線では広東省出身で細身の容志行がジョージ・ベストを思わせる華麗なドリブルテクニックで攻撃を切り開く。試合運びは成熟し、北と南の身体的特徴を生かした絶妙な組み合わせは、ブラジル代表の黒人と白人選手の長所のミックスのように思えた。10年後、いや5年後には、アジアの王者になるという印象だった。
しかしその後、中国代表はポテンシャルを生かし切れなかった。ワールドカップ出場は日本と韓国が予選に出なかった2002年大会のみ。それもブラジルなどを相手に3連敗、得点0だった。そして今回の東アジア大会でも、フルメンバーで出場しながら優勝を逃した。
中国で最も人気があるスポーツは、文句なくサッカーである。しかし先日までの世界水泳のようにいろいろな競技で世界を席巻する勢いを見せながら、サッカーだけはどうもうまくいかないのだ。
近年は大富豪が保有する中国クラブの派手さが世界の耳目を引いている。中国スーパーリーグの平均年俸は勝利給抜きで1億円を超すと言われる。しかしがそれが選手たちから世界に出ていこうという意欲を奪っていると、ある中国人ジャーナリストは言う。
そしてクラブの力が強くなりすぎ、中国サッカー協会もコントロールできない状態にある。リーグ期間中の東アジアカップには、協力を渋るチームも多かったという。勝利給が出ない代表でのプレーに消極的な選手も少なくない。
こうした状況にしびれを切らしたのがサッカー好きで知られる習近平・国家主席だ。サッカーでも中国を世界一にすると、競技人口を増やすために小中高の学校でプレー環境を整えようとしている。
武漢滞在中、興味深いテレビ番組を見た。地方のある小学校に真新しいボールやシューズなどが届けられ、きれいな人工芝の張られた校庭で少年少女が楽しそうにボールをけっているのだ。宣伝臭さぷんぷんの映像だったが、底辺拡大への着目は、選手育成システムにばかり注目していた数年前からは変化を感じる。
政治的な後押しでサッカーが強くなるかどうか―。中国サッカーから目を離せない時代がきたのは確かだ。
(2015年8月12日)
武漢へは、上海経由ではいった。
「中国の三大かまど」のひとつとして猛暑で知られる武漢で行われている東アジアカップ。こんな町で8月に大会を開催しなくてもいいのに...と思うが、それはさておく。
上海と武漢は長江(揚子江)で結ばれているが、河口部の上海から中流域の武漢まで飛行機で1時間40分もかかった。およそ1000キロ。中流でも長江は幅1キロ以上あり、大きな船が行き交う。中国の広大さ、奥深さを痛感する。
昭和12(1937)年7月7日の盧溝橋事件を契機に始まった日中戦争で、日本軍は上海から南京を経由し、翌年10月には当時中華民国が政府を置いていた漢口(武漢の一地区)を陥落させた。中国政府を率いる蔣介石はさらに1000キロ奥地の重慶まで逃げた。物資の輸送が難しくなった日本軍は深追いすることができず、戦争は泥沼化する。
長江を渡る長大な橋をバスで渡りながらそんなことを考えていたら、北朝鮮に逆転負けを喫した東アジアカップの男子初戦を思い出した。
文字どおりホイッスルとともに日本は勢いよく攻め込み、前半3分には代表デビューの武藤雄樹が先制点を決める。その後も攻めに攻め、相手を防戦一方に押し込む。しかしやがて日本の動きが落ちてくると、相手が活発に動いてチャンスをつくり出す。
それはまるで、南京から漢口へ、そして重慶へと逃げながら日本軍の疲弊を待った蔣介石のようだった。
サッカーは得点を取り合うゲームである。攻撃やチャンスの数でなく、相手ゴールに何回入れるかで勝負がつく。ゴールは動かないから、戦争ほど複雑ではない。
「6月のシンガポール戦ほどではなくても、チャンスはできていた」と、ハリルホジッチ監督が語ったとおり、立ち上がりの日本の動きはとても良かった。初代表あるいはそれに近い選手が半数近くいて、わずか1日しか練習していないチームには、とても見えなかった。
だが試合は90分間ある。気温34.66度という厳しい環境の下で、途中から動きが落ちるのは明白だった。11人ではなく交代を含めて14人で戦うプランと作戦が必要だったはずだ。相手をたたきつぶす強力な武器(決定力)がないなか、90分間の「補給プラン」を欠くチームが負けるのは半ば必然だったかもしれない。
ただ、サッカーは戦争ではない。終わった試合の結果は変えられないが、失敗を取り戻すチャンスはいくらでもある。準備不足と猛烈な暑さを計算に入れ、残り2試合を賢く粘り強く戦い抜くことを期待したい。
(2015年8月5日)
あの日から49年もたったのか―。あらためて思った。
1966年7月30日は、イングランドを舞台に開催された第8回FIFAワールドカップの決勝戦だった。ロンドンのウェンブリースタジアムでイングランドと西ドイツが対戦し、延長の末4-2でイングランドが優勝を飾った。
「あの日」と書くのは、私が当時スポーツとは縁のない中学三年生で、この試合をきっかけにサッカーにのめり込むことになるからだ。
生放送があったわけではない。ワールドカップの世界中継が始まるのは4年後の1970年メキシコ大会である。だが試合からわずか1週間後の8月7日に日本でもテレビ放映されたのだ。わずか1時間の番組だったが...。
夏休みも半ば。まだ宿題に手をつける気にもならず、私は怠惰な日々を送っていた。そんなある午後、ふとテレビのスイッチを入れると、この試合が飛び込んできた。
新聞報道でイングランドが優勝したことだけは知っていた。スイッチを入れたときには1-1だったが、やがてイングランドが得点し、2-1となった。後半33分。「これで勝ったんだな」と思った。
ところが終了直前、西ドイツがFKを得る。シュートはDFが止めたが、こぼれ球を拾った西ドイツのFWがシュート、そのボールが味方選手の背中に当たってこぼれたところを、DFのウェーバーが倒れながら押し込んだ。
寝転がって見ていた私は、飛び起きると思わず正座していた。それからの延長30分間は目も離せない熱戦だった。延長前半にイングランドが再度引き離すゴール(バーの下に当たって真下に落ちた歴史的な「疑惑のゴール」)を決め、延長戦終了直前にはカウンターから4点目を決めてようやく勝負をつけた。
夏休みが終わると、私は迷わずサッカー部に入部し、以後49年間にもなるサッカーとのつきあいが始まる。
サッカー報道の仕事に就いてから、あの試合の情報をいろいろと目にするようになった。7月30日といえば日本では真夏だが、イングランドでは夏の終わりで、当日は雨が降って気温が下がり、VIP席には毛布が置いてあった。イングランドの中心選手であったB・チャールトンは後半33分の勝ち越し点の直後、仲間に「これで勝ったぞ!」と叫んだ。優勝に導いたラムゼー監督は、ホテルでの祝賀会が終わるとウェンブリースタジアムに戻り、ただひとりでピッチ内を一周した...。
そしてイングランドと西ドイツの22人が見せた死闘は、日本の怠惰な中学三年生をサッカーに駆り立て、49年後のいま、猛烈な暑さでもピッチから離れられなくしている。
(2015年7月29日)
新潟市で行われていた男子17歳以下の国際大会で、「海の日」の20日にセルビア代表2選手が熱中症で救急搬送されるという事故が起こった。
試合は14時10分キックオフのU-17日本代表戦。前半終了の少し前に2人が相次いで倒れ、セルビア代表は試合続行を拒否して、そのまま中止となったという(インターネット『サッカーキング』の川端暁彦氏のレポートより)。
この日の新潟市は気温30.6度。しかし日差しが強く、午前中までの雨が上がったばかりで湿度は86%、猛烈な蒸し暑さだった。しかも3日連続の昼間の90分マッチ。前半だけで飲水タイムを2回とったというが、起こるべくして起こった事故のように思う。
台風の影響による大雨がやみ、関東地方が一挙に梅雨明けしたこの連休、私も熱中症対策に頭を痛めた。私のチームは、年間の目標のひとつである大事な大会の準々決勝と準決勝を、この猛暑のなか、2日連続でこなさなければならなかったからだ。
東京の最高気温は、19日は34.8度、20日は33.6度。強烈な日差しの下、風もほとんどない中での試合だった。
「食事と睡眠をしっかりとり、良い体調で試合に臨むこと。試合前から水分を摂り、少しでも具合が悪くなったら無理をしないように」。プレーに関することより、私は、選手たちにとって百も承知の注意事項を繰り返さなければならなかった。
最近は、気温だけでなく人体の熱収支に影響の大きい湿度と日射・放射の要素を加えた「暑さ指数(湿球黒球温度=WBGT)」を判断の指標にするという。その数値を見ると、19日、20日とも東京は環境省が定めた基準の最高ランクである「危険」となっており、「運動は原則禁止」とされていた。20日の新潟も同様だった。ちなみに「危険」のひとつ下のランクが「厳重警戒」であり、「激しい運動は禁止」である。
そうしたなかで、サッカーの「公式戦」が堂々と行われているのである。幸い、私たちの試合では事故は起きなかったが、20日には午後8時までに全国の44都道府県で少なくとも833人が熱中症で救急搬送され、山梨県の中学校でサッカーをしていた男子生徒3人も病院に搬送された(NHKの調べによる)。
日本サッカー協会は早急に「真夏の日中の公式戦」について実施の可否を決める基準をつくるべきだ。試合日程の問題、中止にした場合の代替グラウンドの問題など、難しい問題がたくさんあるのはわかる。しかしそんなことと、プレーヤーがさらされている生命の危険とがてんびんにかけられていいはずがない。
(2015年7月22日)
「走りだせ~、マツモトヤマガ、つかみ取れ~、きょうの勝利を」
人気ロックバンド「THE BOOM」のヒット曲『中央線』のメロディーに乗せた応援歌とともに両チームが入場する。緑のユニホームに身を包んだすべての老若男女が立ち上がり、手にしたタオルマフラーをぐるぐると振り回す。歌のテンポが上がり、興奮はピークに達する―。
1965年に長野県松本市で誕生したクラブを2004年に法人化してJリーグ入りを目標に定めてからわずか10年間でJ1昇格を果たした松本山雅FC。J2昇格の2012年から指揮をとっている智将・反町康治監督の指導とともにこのクラブを支えているのは熱烈なサポーターだ。
「あそこのサポーターは熱い。ものすごいプレッシャーを感じる」。ここでアウェーチームとしてプレーしたJリーグ選手たちが口々に語る。
ホームのアルウィン(長野県松本平広域公園総合球技場)は収容2万人の美しい専用スタジアム。四方を囲む観客席がピッチに近く、試合が熱してくるとサポーターとピッチ上の選手たちが共鳴するようにパワーを増す。それがアウェーチームを追い詰める。
J1「第2ステージ」開幕の7月11日、第1ステージ優勝の浦和を迎えた松本は、2点差をつけられた後半10分過ぎから攻勢に転じた。17分にDF酒井が1点を返すと、それからは猛攻に次ぐ猛攻だ。
「得点の半分がセットプレーから」と言われる松本。MF岩上のCKとロングスローで浦和を防戦一方に追い込む。サポーターの声が緑のうねりのようにピッチに注ぎ込まれ、疲れ切っているはずの選手たちの足を動かす。結局1-2のまま逃げ切られたが、スタジアムを後にするサポーターの表情には落胆の色はなかった。全力を尽くした競技者のような、生き生きとした明るい顔ばかりだった。
私が初めてアルウィンを訪れたのはスタジアム完成から2年後の2003年。前年のワールドカップのキャンプ地として建設され、パラグアイ代表の誘致にも成功した。しかし地元にはJリーグクラブはなく、その日は千葉×名古屋だった。当時「山雅サッカークラブ」は北信越リーグでプレーしていた。もちろんサポーターなどいなかった。
翌年にスタートした「Jリーグへの夢」のなかで他クラブの選手たちを恐れさせるサポーターが生まれ、クラブは全市民が誇りとし愛する存在となった。温かな愛に支えられた選手たちの奮闘が、人口約24万人のホームタウンに新たな喜びをもたらした。
松本山雅には、Jリーグの理想像のひとつがある。
(2015年7月15日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。