キックオフ直後の連続失点が響いて敗れた決勝戦は残念だったが、カナダで行われていた女子ワールドカップのなでしこジャパンは、優勝した4年前にも負けない印象的なプレーを見せてくれた。
2011年にドイツ大会で優勝を飾って以来、なでしこジャパンは苦しみの4年間を送ってきた。翌年のロンドン五輪では銀メダルを獲得したものの試合内容には前年のような輝きはなく、粘り強さで勝ち上がった印象だった。
他国が日本対策をたててくるなか、佐々木則夫監督にはそれを乗り越える明確なビジョンがなかったか、あるいはそれを選手たちに実行させる力がなかった。今大会を迎えたときチーム力はむしろ低下しており、4年間を無駄にしたのは明白だった。
グループステージの3試合は、そうしたチーム状態そのものの内容だった。早期敗退も十分あり得た。
しかしノックアウトステージにはいってチームは俄然良くなった。FW大野忍を中心に前線からの守備が効き、チームがコンパクトになって守備が安定するとともにパスが短く、正確になったからだ。
圧倒的な力をもつストライカーがいるわけではない。個々の選手は体も小さく、スピードもない。コンビネーションに4年前ほどの切れ味がないからチャンスの数も多くはない。しかしチーム全員で協力しながら守り攻めるサッカーで、なでしこジャパンは勝利に値する試合を続けた。
それを象徴するのがいわゆる「日替わりヒロイン」だ。準々決勝までの5試合で7得点してきたなでしこジャパン。その7点が、すべて違う選手による得点だったのだ。
決勝戦の前には大会の「MVP候補」8人が発表され、キャプテンのMF宮間あやとともにDF有吉佐織が含まれていて大きな話題となった。
しかし私は、「優勝しても日本からはMVPは出ない」と確信していた。今回のなでしこジャパンは、超人的な一人の選手に頼るチームではないからだ。そしてそこにこそ、現在のチームの真骨頂があるように思った。
今大会後半のなでしこジャパンほど、ピッチに立った11人全員が高い意識で自己の責任を果たし、それを隙間なくつないでゲームを組み立てるチームを、私はこれまでに見たことがない。選手たちは例外なくエゴを捨て、チームの勝利だけを考えて行動し、走り、戦い、プレーした。
これこそ、チームゲームであるサッカーの理想の姿ではないか。
誰も突出しないチームから「MVP」は出ない。いや、なでしこジャパンは、「全員がMVP」だった。
(2015年7月8日)
昨年のワールドカップの技術と戦術を分析した日本サッカー協会の「JFAテクニカルレポート」(2015年1月発売)によれば、大会の全171ゴールのうち50ゴールが「クロス」すなわち左右からのパスによって生み出されたという。日本代表もコートジボワール戦で後半にクロスからのヘディングによる連続失点を喫した。
日本に限らず重要な課題である「クロス対策」を考えていたら、チリでのコパアメリカ(南米選手権)で興味深いものに出合った。「マークをしない守備」である。
6月24日にサンチャゴで行われた準々決勝のチリ×ウルグアイ。MFとFWに好選手を並べ、攻撃力を看板に初優勝を狙う地元チリ。ウルグアイはその圧倒的な攻撃に耐え、左右から送られるクロスを次々とはね返し続けた。
ゴディン(186センチ)、ヒメネス(185センチ)という屈強なセンターバックをもつウルグアイだが、個人的な強さに頼るわけではない。組織としてクロスに強いのだ。
よく見ると、4人の選手がゴールエリアのライン上にほぼ5メートル間隔で並び、クロスを待ち構えている。クロスが入れられようとするとき、ウルグアイの選手たちは相手選手など気にしない。ボールに集中し、自分の責任範囲に飛んできたら決然と対処する。
普通、日本では、クロスに対する守備で最も重要なのは「マーク」、すなわち相手選手にしっかりつくことと教えられる。相手選手とボールの両方を視野に入れつつ、相手選手とゴールとの間、ボールが相手選手のところに来たら競り合える距離を取る。ボールにばかり気を取られる選手は「ボール・ウォッチャー」と呼ばれ、そのひと言で「守備落第」の烙印(らくいん)となる。
それに対しウルグアイは、「ポジショニング」に重きを置いているように見える。クロスがシュートにつながるのは大半がゴールエリアライン近辺。ならばそこに隙間なく人を配置することでクロスをはね返す確率が上がるという考え方なのだろうか。マークに気をとられずボールに集中できることによって、個々の選手のクリア能力も最大限発揮されているように思えた。
コーナーキックに対してなら、こうした「ゾーン守備」は日本でも珍しいものではない。しかし流れのなかのクロスに対してこの守備の考え方を実践するのは初めて見た。
守備の目的はゴールを守ること。その手段としてマークがある。だが手段は一つではない。組織的なポジショニングでボールをはね返すことに集中するというやり方も、考えてみる価値のある「クロス対策」のように感じた。
(2015年7月1日)
テレビのニュースで「○○紙によれば...」という形式の報道によく出合う。独自取材が不可能な状況、あるいは詳細報道より第一報が重要だと判断したときにこうした形式があるのは理解できる。
だが6月20日(土)の朝刊各紙に載った「長沼健・元日本サッカー協会会長が2000年に南米サッカー連盟に150万ドル送金か」にはあきれた。
「FIFAの金権汚職体質が日本にも...」と思った読者も多いだろう。だが実際にはいい加減な記事だった。
日本の報道の直接の出どころは日本最大の通信社である「共同通信社」のロンドン支局が日本時間で19日22時31分に配信した記事。「スペインのスポーツ紙アス(電子版)が19日付で報じた」とある。だが「AS」自体も、独自取材による記事ではなかった。パラグアイの日刊紙「ABCコロール」の記事を情報源にしたものだった。
すなわち共同通信の報道は「孫引き」どころか「曾孫引き」だった。軽い話題ならともかく、故人であり、日本サッカーを世界に導いた功労者のひとりである長沼氏の名誉を不必要に傷つけかねない話題を、英語版を含めこうも手軽に記事にして世界に配信することの責任を、共同通信はどう感じているのだろうか。そして「共同の記事だから」と無批判で掲載する日本の新聞はどうなっているのか。
ちなみに『東京新聞』も20日付け朝刊社会面にこの共同の記事を掲載している。『朝日新聞』はサンパウロ支局発となっているが、内容は共同のものと驚くほど似ている。
結論から言えば、「AS」の記事は現場から遠く離れたところでの無責任な憶測に過ぎず、論評の価値すらない。「ABCコロール」では送金理由を「南米選手権(コパアメリカ)1999年パラグアイ大会に招待してくれたことに対する謝礼」としているのだが、「AS」はそれを勝手に「2002年ワールドカップ招致の謝礼」と置き換え、情報元には出てこない長沼氏の名前まで出して「当時の日本協会会長」としている。2000年当時の会長は岡野俊一郎氏である。
「ABCコロールが言う『送金理由』も、まったく理にかなっていない」と話すのは、日本サッカー協会の海外委員のひとりでブエノスアイレス在住の北山朝徳さんだ。
「事実は正反対。日本協会は、逆に南米サッカー連盟から大会出場料を受け取っている。さらに日本だけは『遠いところから来てもらうので』と、ビジネスクラスの航空券まで用意してくれた」
右から流れてきた情報を左に流すだけなら報道機関とは言えない。正しい情報か、すぐに流すべき情報か、それとも一歩待ってできうる限りの確認をするべきものか、報道機関の見識が問われている。
「AS」の記事(左)と「ABCコロール」の記事(右)
(2015年6月24日)
<おことわり>
この記事は東京新聞編集局で問題になり、「掲載見送り」の可能性もありましたが、「共同通信」などのメディア名を出さないこと、表現を少し柔らかくすることの提案があり、大住はそれを了解しました。2015年6月24日付け東京新聞夕刊に掲載された記事は下のとおりです。
日本代表がイラクに4-0で快勝した先週木曜日、アジアの各地ではワールドカップ・アジア第2次予選の第1節15試合が行われた。そのなかで最も驚いたのは、H組でフィリピンがバーレーンに2-1で勝ったことだった。
フィリピンというと1967年9月に行われたメキシコ五輪予選の15-0が思い浮かぶ。日本を五輪銅メダルに導いたのはこの大量点だった。
フィリピンではバスケットボールの人気が高く、サッカーはマイナー競技のひとつに過ぎなかった。だが2009年にセミプロの「ユナイテッドリーグ」がスタート、育成に力を入れるようになる。近年はフィリピンにルーツをもつ選手のリクルートも進み、現在のFIFAランキングは137位。アジアで中位に位置するまでになった。
それにしてもバーレーンがフィリピンに敗れるとは...。2006年と2010年のワールドカップ予選では大陸間のプレーオフに進出、ワールドカップ出場にあと一歩まで迫った中東の強豪である。
6月11日の試合はフィリピンのホーム。前半はバーレーンが主導権を握る。フィリピンはよく戦い、無失点で耐えたが、攻撃は大きくけるだけでなかなか形にならない。
しかし後半、試合は大きく変わる。フィリピンが自信をもってパスをつなぎ、攻め込むようになったのだ。そして後半5分、左からMFヤングハズバンドがクロス、FWバハドランが決めて先制する。そして9分後にはMFオットのFKからFWパティノが決めて差を広げる。終盤に1点を返されたが、アメリカ人のドゥーリー監督が「全員がヒーローだ」と語ったとおり、会心の勝利だった。
攻撃をリードしたのはイングランド生まれでフィリピン人の母をもつMFヤングハズバンド。チェルシーの2軍でプレーした後、23歳でフィリピンに渡った。本来はFWだが、ドゥーリー監督はこの試合でいきなり彼を3-4-3システムのボランチに置き、ゲームメーカー役を任せた。
守備では日本人の父をもつ佐藤大介が大活躍した。ダバオで生まれ、戸田市の少年団でサッカーを始めて中学1年から6年間を浦和レッズのアカデミーで過ごした。そして仙台大学を1年で中退して昨年3月にフィリピンの強豪グローバルに加入、すぐに代表に選ばれた。まだ20歳ながらこの試合では3バックの左でスタート、スピードと正確なパスを見せ、2点をリードした後には4バックの左サイドバックとしてプレーした。
フィリピンの試合ぶりを見るだけも、アジアのサッカーの急激な変化と成長がよくわかる。「アジア第2次予選」は油断を許さない戦いだ。
(2015年6月17日)
「サッカーボールを描いてみてください」
そう求められたら、いまでも多くの人が「白黒ボール」を描くのではないか―。
黒い正五角形12枚と白い正六角形20枚、計32枚のパネルを組み合わせることでつくられたサッカーボール。実際に使われた期間はそう長くはないのだが、日本に限らず世界中でいまもサッカーボールというとまずこのデザインが出てくるのは不思議だ。
1963年に西ドイツで考案された。当時までサッカーボールは12枚か18枚貼りで皮革のままの茶色か白だった。
元日本サッカー協会会長の岡野俊一郎さんによればスポーツボールに初めて32枚パネルを使ったのは水球だった。つかみやすくするための工夫だったという。32枚パネルは紀元前3世紀の数学者アルキメデス考案の種類の「半正多面体」の1つ「切頂二十面体(正二十面体の12の頂点を切り落としたもの)」だ。
サッカーボールを白黒にしたのは「夜間の試合でも見やすいもの」という意図だったとどこかで読んだ記憶があるのだが、「当時白黒放送だったテレビで見やすくした」というのが現在の通説だ。
誕生したばかりのブンデスリーガで使用され、ワールドカップでは70年と74年の両大会で使われた。32枚パネルはその後もずっとサッカーボールの主流だが、デザインはたびたび変わった。ワールドカップでの白黒ボールの寿命はわずか2大会だった。
1963年、生まれたばかりの白黒ボールを日本人も目にした。ドイツ遠征中に日本代表が使い、10月に来日した西ドイツのアマ代表も数個の白黒ボールを持参した。
2年後、日本サッカーリーグ(JSL)の初年度スタートに先立ち、常任運営委員のひとり西本八寿雄(古河電工=当時30歳)が採用を提案。日本サッカー協会の猛反対に屈せず使用を断行した。ドイツ製を手本にミカサが製作、後期開幕に間に合わせた。
その日、1965年9月12日、横浜の三ツ沢球技場での「古河電工×豊田織機」では、美しい緑の芝に白黒のボールが映え、スピーディーに動いた。年末の大学や高校の全国大会でも使われ、白黒ボールはたちまち日本中に広まった。
日本においてサッカーという競技が「アイデンティティー」のようなものを確立するのに、白黒ボール以上の役割を果たしたものはない。Jリーグ時代になってからはいちども使われたことがない。それでも、いまも多くの人が「サッカーボールといえば白と黒」と思っている。
きのう都内で、JSL発足50年を祝うパーティーが開かれた。「JSL50年」は「白黒ボール50年」でもある。
1986年 ドイツにて
(2016年6月9日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。