「何と言っていいか、わからない状態...」
目もうつろなMF柏木陽介の言葉が、試合後の浦和の監督や選手たちのいつわらざる心境だったに違いない。
11月22日を2位G大阪に勝ち点5差で迎えた浦和は、そのG大阪に勝てば優勝決定という状況にあった。ナビスコ杯決勝や日本代表日程による3週間の準備期間を経てピッチに立った浦和は、全身全霊のプレーで攻勢に立った。
引き分けでも優勝を濃厚にできた。だが0-0で迎えた後半43分、相手陣で得たFKから決勝点を奪おうとした。守りきることなど、誰も考えていなかった。ところがそのFKをはね返されてカウンターアタックを受け、決定的な失点。ロスタイムにも1点を追加され0-2の敗戦となった。呆然とするのは当然だ。
依然として首位だが、勝ち点2差で残り2戦。G大阪が連勝するなら、浦和も連勝が優勝の絶対条件だ。圧倒的な優位が崩れ、逆に浦和が追い詰められる形となった。昨年までの浦和は、こうした状況にめっぽう弱かった。
しかし試合後の光景は「これまでとは違う」と感じさせた。ゴール裏のサポーターはひとりも席を立たなかった。そして「勝てなくて申し訳ない」と言うように頭を下げる選手たちに、大きな拍手とともに大声援を送ったのだ。
拍手は徹頭徹尾攻撃的に戦ったこの試合への高い評価。大声援は残り2試合もいっしょに戦うという決意表明―。
Jリーグ史上、今季の浦和サポーターほど不自由な思いを感じ続けた存在はなかっただろう。3月に起こった差別的内容の横断幕掲出事件。Jリーグは無観客試合というかつてない厳罰を課したが、クラブ自体も再発防止のため横断幕や自作応援旗の使用を禁止した。サポーターグループもすべて自主的に解散した。
一時は観客数が落ちた。しかし次第に盛り返し、この試合では5万6758人。選手たちは、この状況下でも懸命に励まし続けてくれたサポーターのために何としても優勝したいと思っていたはずだ。G大阪戦はその思いを一挙にかなえる絶好機だった。だがその望みはかなわなかった。呆然とするのは当然だ。
こうしたときに大きな力を与えるのが本物のサポーターというものだ。そして浦和には、その存在がいた。拍手と声援を受け、ショックは闘志に変わったに違いない。
残り2試合は、29日(土)の鳥栖戦(アウェー)と12月6日(土)の名古屋戦(ホーム)。どちらも簡単に勝てる相手ではない。しかし私は、いつまでも忘れられない、闘志と魂のこもった2試合になるのではと感じ始めている。
(2014年11月26日)
いまだ終結への道が見えないエボラ出血熱の恐怖が、アフリカのサッカー界に影響を与え始めている。
来年の1月17日から2月8日までのアフリカ・ネーションズカップ(CAN)の開催国に予定されていたモロッコが延期を要望、アフリカ・サッカー連盟が認めなかったため返上を決めた。モロッコを含む北アフリカでは現在のところエボラ感染者の報告はない。しかし「これからさらに拡大する」という世界保健機関(WHO)の勧告を受け、モロッコ政府が決断した。
そして返上決定から3日後の11月14日、連盟は赤道ギニア共和国が代替開催国になったと発表した。ギニア湾に面し、面積2万8000キロ(四国の約1.5倍)、人口72万人(島根県とほぼ同じ)という小さな国。今回のエボラ流行の震源地となったギニアとは別の国で、感染患者が出ている国とは接していない。
赤道ギニアはガボンと共同開催だった前々回の12年大会(初出場)ではベスト8だったが、今回は1次予選で出場資格のない選手を出場させ、すでに失格となっていた。思いがけない「復活劇」だ。
2003年の東アジア選手権を思い起こした人も少なくないだろう。中国南部で発生し、この年の前半に猛威をふるった新型肺炎(重症急性呼吸器症候群=SARS)への不安から開催スタジアムをもつ横浜市が延期を求め、5月下旬からの横浜開催は開幕2週間前に中止となった。前年に誕生したばかりの東アジア・サッカー連盟には代替の都市や国を探す力はなく、結局大会は12月に東京で開催された。
今回のエボラ流行は、すでにアフリカのサッカーに大きな影を落としている。
10月末までに1000人近い死者を出しているシエラレオネはセイシェルとの2次予選の第2戦(セイシェルで開催予定)を拒否され、不戦勝で最終予選に進んだが、9月からの最終予選をホームで戦うことができず、すべてアウェーでの開催となった。そして選手たちは行く先々で「エボラ!」と敬遠され、大半が欧州のクラブに所属しているにもかかわらず、缶詰にされたホテルで毎日2回の血液検査を強要されたという。
「アフリカでは高度な教育を受けた人は少ない。彼らを非難することはできない」
FWのカマラは、ため息交じりにそう話す。
有効なワクチンも治療薬も開発されておらず、感染したら死亡率が50~90%というエボラへの恐怖を簡単にぬぐうことはできない。しかしそれがいわれのない差別にまでつながってしまうのは、とても悲しい気がする。
(2014年11月19日)
まさに「夢の試合」だ。
国際サッカー連盟(FIFA)に加盟さえ認められていない「小国」が世界チャンピオンと公式戦で対戦する―。
11月14日(金)、2016年の欧州選手権出場をかけた予選D組で、ジブラルタルがドイツに挑む。会場はドイツのニュルンベルク。ワールドカップで優勝を飾りFIFAランキング1位のドイツに、「ランク外」のジブラルタルがぶつかる。もちろん初対戦だ。
ジブラルタルについては2007年にも書いた。欧州サッカー連盟(UEFA)への加盟申請が拒否されたという話だった。イベリア半島南端近くの半島に位置する面積6.5平方キロ、人口3万弱の英国領。英海軍の基地を中心とした地域だ。サッカー協会設立は1895年と古い。そのジブラルタルの15年来の夢が、昨年5月についに実現した。ロンドンで行われたUEFA総会で加盟が認められたのだ。そして臨む最初の公式大会が、欧州選手権予選だった。
9月7日、待ちに待った公式戦デビューの日がきた。だがホームゲームの試合会場は250キロも離れたポルトガル南部のファロ。ジブラルタルにはUEFAの公式戦開催基準に適合したスタジアムがなく、関係の悪い隣国スペインでの開催は不可能だった。
予選突破有力国のポーランドを相手にジブラルタルは前半こそ0-1と粘りを見せたが、後半は次々と失点、0-7で敗れた。続くアイルランド戦も0-7。グルジアとは0-3だった。3戦3敗、失点17、得点0。予想されていたこととはいえ厳しい結果だ。そして今週迎える4戦目の相手が、世界チャンピオンなのだ。だがジブラルタル・チームの意気は衰えない。
「3試合の経験で選手たちは急速な成長を見せている。グルジア戦ではシュートを7本も打ち、もう少しで得点できるところだった。世界チャンピオンを相手にしても良い試合ができるはず。とても楽しみだ」(ブラ監督)
スペイン2部でのプロ経験をもち、フットサル代表でもあるDFのR・チポリナは、「経験したことのないレベルで、毎試合学ぶことが多い。私は31歳だが、もし10年前にこんな経験ができていたら、ずっと良い選手になることができただろう」と語り、次の世代は必ず強くなると期待をふくらませる。
UEFA基準の競技場建設計画も進んでいる。半島最南端の「ヨーロッパポイント」にある土のクリケット場を建設地にあて、2016年の完成予定だ。反対意見もあるが、「夢の試合」で奮戦すれば「夢の新スタジアム」実現への大きな推進力になると、選手たちは張り切っている。
(2014年11月12日)
Jリーグの9月の「月間ベストゴール」に、浦和の柏木陽介が第24節(9月20日)に記録した得点が選ばれた。
当然だと思う。月間どころか、「年間ベストゴール」に選んでもいい得点だ。ただしそう思うわけは、今回の選考理由とはずいぶん違う。
埼玉スタジアムに柏を迎えた一戦。この得点は、DF那須が先制点を決めた7分後の前半28分に生まれた。
ちょうどハーフライン上、左タッチライン近くで後方からボールを受けた浦和DF槙野が右足ワンタッチで柏ゴールに向かって大きくけった。その直後、柏FWドゥドゥが激しくタックル。槙野が吹っ飛ぶ。非常にラフで危険な反則だ。だが笛は吹かれない。
高く上がったボールが柏ペナルティーエリア手前に落ちる。胸でコントロールした浦和FW興梠からFW李に。左に一歩もった李がヒールで右に流す。走り込んできたのが柏木だ。右足で持ち出し、当たりにくる柏のDF2人を右足切り返しで一気にかわして左足シュート。ボールはゴール右隅に吸い込まれた。
「挟み込まれそうになりながらも相手選手をかわし、空いたスペースを作り左足で決める一瞬の判断力は見事」(選考委員会の説明=Jリーグの公式サイトから)
この試合を担当していたのは佐藤隆治主審(37歳)である。彼はドゥドゥの反則を確認していた。だがボールが上がった瞬間に振り向いてゴール前を見ると、両手を前に出すジェスチャーを見せた。「アドバンテージ」をとったのだ。
「反則をされたチームがアドバンテージによって利益を受けそうなときは、プレーを続けさせる」と、ルールの第5条に明記されている。しかしこれがなかなか難しい。
「反則を見逃さないぞ」という意識が、審判たちからどうしても抜けないからだ。反則を見ると反射的に笛を吹いてしまう。だが重要なのは、反則があったかどうかではなく、その結果攻撃側が利益を失ったかどうかなのだ。
槙野のキックは非常に大ざっぱだったうえに、飛んだ先には柏の黄色いユニホームが密集していた。そこから直接チャンスが生まれるようには見えなかった。笛が吹かれ、イエローカードが出され、FKで再開という形で、まったくおかしくなかった。だが何かを感じたのだろう、佐藤主審は待った。その結果、世にも美しいゴールが生まれた。
得点の直後、浦和のペトロヴィッチ監督は、振り向いて「主審がよく見たな」と杉浦コーチにささやいたという。
浦和の2点目を審判カードに記入した後、佐藤主審はゆっくりとドゥドゥに近より、イエローカードを示した。
(2014年11月5日)
「さまざまなことが総合的にこのクラブの伝統を継承・継続させる要素になり、クラブにかかわるいろいろな人がその次の世代のタネをまき水を与えて、選手が積む経験が肥料となって花開いてきた」
Jリーグ逆転優勝をかけて首位浦和に挑んだ鹿島アントラーズ。日曜日(10月26日)の試合は1-1の引き分けに終わったが、トニーニョセレーゾ監督は若い選手たちの戦いぶりを誇らしげにこう話した。
今季の鹿島は開幕から先発の半数が二十歳そこそこの若い選手たちで占められた。経験不足で崩れるのではないかと懸念されたが、終盤まで優勝争いに踏みとどまる奮闘には驚かされた。浦和を相手に一歩も引かない戦いを見せたこの試合からは、鹿島が積み重ねてきた23シーズンで生まれた「伝統」が感じられた。
クラブ誕生は1992年だった。日本サッカーリーグで1部と2部を行き来する地味なチームだった住友金属が、92年に始まる新しいプロリーグ参加に名乗りを上げたのが90年。翌91年夏、引退していたブラジルの伝説の名手ジーコ(当時38歳)と、世界を驚かせる契約をしたことが、このクラブの運命を決めた。
その天才でチームを牽引したにとどまらず、ジーコはクラブ組織、クラブハウスや練習場など、プロサッカークラブづくりのあらゆる側面で提案を出し、クラブはその具現化に全力を注いだ。そして何よりも、若い選手たちにプロとして生きる姿勢、練習や試合への心構え、勝負に対する厳しさなどを伝えた。
「ジーコイズム」の継承こそ、鹿島の力の源だった。23シーズンで指揮をとった監督は10人。初代の宮本征勝(故人)、短期間代行を務めた関塚隆を除く8人がすべてブラジル人であることでも、ひとつの哲学が貫かれてきたことがわかる。そしてどこよりも多くのタイトルが生まれた。Jリーグ7回、天皇杯4回、ナビスコ杯5回は、いずれもこの期間の最多優勝記録だ。
一貫したプレースタイルの下、厳しい競争環境のなかで選手が成長し、23シーズンで30人を超す日本代表選手が輩出されてきた。代表選手を獲得したのではない。大半は、鹿島でプレーして日本代表に選ばれた選手たちだ。
他クラブがそのときどきの経営者や強化部長の考えで揺れ動くなか、鹿島はひとつの哲学で強化を進めてきた。とくに1996年に強化部長就任以来、ジーコイズムを継承することを自らの責務としてきた鈴木満さんの存在は大きい。
プロ2年目、20歳の若手にも、23年間の歴史と伝統が立派に受け継がれている。ひとつの哲学を貫くこと、継続の力を、あらためて感じる。
(2014年10月29日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。