サッカーの話をしよう

ブラジル・ワールドカップコラム「王国にて」No.3 ~「魂は売らないが心はブラジル」

 準決勝での地元ブラジルの大敗は意外だったが、今大会はどの試合も満席ですばらしい雰囲気だった。その最大の功労者は、どんなカードでも黄色いシャツを着てスタジアムにやってきたブラジル人ファンたちだっただろう。
 「バッタ屋天国」のブラジル。よく見ると同じ黄色でも人ごとに違うシャツだ。そこに面白いものを見つけた。ブラジル代表ではなくクラブチームのエンブレムを胸に付けているのだ。リオならフラメンゴやフルミネンセ、サンパウロならパルメイラスやコリンチャンス、そしてサルバドールならエスポルチのエンブレムが付いた黄色いシャツを着たファンをたくさん見た。
 37年前、アルゼンチンとブラジルで代表戦を取材した。ブエノスアイレスでは観客全員がアルゼンチン代表の白と水色のシャツを着て試合中ずっと跳び跳ねていた。しかしリオデジャネイロのマラカナン・スタジアムには黄色いシャツなどひとりもいなかった。ファンはそれぞれ自分が応援するクラブカラーのシャツを着、そのクラブの選手だけに声援を送っていたのだ。
 同じ町のライバルクラブの選手にはブラジル選手でも遠慮なくブーイングだ。極めつけは「サポーターバトル」。試合中、1階スタンドの観客が大きく崩れるように動き出したと思ったら、フラメンゴのサポーターがフルミネンセのサポーターを追い回していた。それも何千人単位で!
 そのブラジルが、兎にも角にも「セレソン(ブラジル代表)応援」でまとまったのが今大会だった。クラブエンブレムが付いた黄色いシャツは「魂は売らないが心はブラジル」ということなのだろう。
 スタジアムだけではない。大会中、町のあちこちで黄色いシャツを見た。店員や、ウェートレスが黄色でそろえていたところもたくさんあった。「こんなにブラジル人の心がひとつになったのは初めてだ」と、レストランで隣に座った初老の男性が語った。

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(2014年7月12日、リオデジャネイロ)

ブラジル・ワールドカップコラム「王国にて」No.2 ~「国民の宝」を伝える

 サンパウロの街角に紫色のジャカランダの花が目につくようになった。気がつけば7月。日本で言えば「桜」に当たる季節を感じさせる花だ。7月が最盛期という。
 大会も後半。「コパ(ワールドカップ)熱」は上がる一方だ。試合のない日も、テレビではこれまでの好試合を繰り返し流している。
 興味深いCMも多い。難しいメロディーのブラジル国歌を、4歳か5歳ぐらいの子どもたちが歌い継ぐ銀行のCMは、とてもかわいい。だが私のいちばんのお気に入りは、ある自動車会社のCMだ。
 路上サッカーに興じる少年たち。3つの得点シーンが流れる。最初は相手の頭上にボールを浮かせて抜き、ボレーで決める。続いて人壁の前に立つ味方が動いたスキを針の穴を通すような左足キックで破る。最後は、ゴール正面から右前に転がしたボールを、走り込んできた選手が右足を振り抜いてアウトサイドキックで低く左隅に決める。
 実はこれらすべてがブラジルが過去のワールドカップで記録したゴールシーンのコピー。最初は58年大会決勝戦で17歳のペレが見せた超個人技ゴール。次は74年大会でリベリーノが決めたFK。そして最後は70年大会の決勝戦、カルロスアルベルトの4点目。ブラジル・サッカーの別名でもある「ジョゴボニート(ビューティフルゲーム)」のシンボルとも言うべき得点だ。
 テレビでは今大会の映像だけでなく過去の大会の名シーンも繰り返し使われ、語られている。その積み重ねで、いつかこうした名ゴールが人々の脳裏に焼き付けられ、定着したものに違いない。それは「国宝」あるいは「国民の宝」と言っていいいものだ。
 ひるがえって日本のサッカーに「国民の宝的シーン」があるだろうかと考える。半世紀以上前のゴールシーンを子どもたちまでが詳細に頭に描けるように、現在のスターの動向だけでなく、過去の名シーンを繰り返し伝えていくことが「サッカー文化」の醸成に不可欠なことを思った。

(2014年7月5日、サンパウロ)

ブラジル・ワールドカップコラム「王国にて」No.1 ~ 賀川浩さん89歳の「ワールドカップの旅」

 開幕のころ真ん丸だった月が「下弦」を過ぎ、だいぶ細くなってきた。そして賀川浩さん(89)の10回目のワールドカップが終わった。
 小柄な賀川さんがリュックを背負い杖をついてスタジアムに現れると、前日本代表監督の岡田武史さんが飛んできた。中学3年の岡田さんがドイツにサッカー留学したいと賀川さんを訪ねて以来、40年になるつきあいだという。
 「こんなところまで、本当に見えたんですね」と、岡田さんは目を丸くした。
 今大会最年長の取材記者。日本のではない。大会の最年長である。世界中の記者も寄ってきて話を聞き、写真を撮らせてくれと頼む。国際サッカー連盟(FIFA)の公式サイトの取材まで受けた。
 「取材にきたのか、取材されにきたのか、わからんな」と、賀川さんは笑った。
 戦争から復員して新聞記者になった。だがワールドカップ取材は編集局のトップという重責で思うにまかせず、最初の現地取材は74年の西ドイツ大会。49歳のときだった。
 「最初で最後だから」と出掛けていったが、この言葉ほどあてにならないのは、ファンも記者も同じ。以後毎回取材し、雑誌に連載されたその取材記は、サッカー愛にあふれ、日本サッカーの宝と言っていいものとなった。
 ところが4年前の南アフリカ大会は、腰を痛め、医師からストップをかけられた。「残る思い」に突き動かされて、ブラジル行きを決意。ただ、6月19日の日本×ギリシャまでの取材とすることにした。
 取材を受けると、若い記者たちが古い話をあまりに知らないのが残念だという。
 「その国のサッカーの積み重ねのうえに現在のサッカーや代表がある。記者たるもの歴史を学ばないと...」
 その歴史を語り継ぐためにも、サッカー記者としての活動はやめられない。賀川さんの「ワールドカップの旅」はまだ終わらない。

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(2014年6月22日、ナタル)

No.982 開幕の地サンパウロ

 開幕まで残り8日。スタジアムが完成するかの話題ばかりのワールドカップ・ブラジル大会だが、私は楽観的だ。ブラジル人には、世界中がやきもきしているのを楽しんでいるフシさえある。
 開幕の地はサンパウロ。市域だけで人口1100万、近郊都市圏を含むと2000万を超す南半球最大の都市である。中心部には高層ビルが林立する。
 ブラジルの経済を牽引するサンパウロ。この街の人びとは「サンパウロが稼いでリオが遊ぶ」と、勤勉な「市民性」を誇りにするとともに、何事につけ派手に世界の耳目を引くリオデジャネイロに対抗意識を見せる。
 1930年の第1回ワールドカップ(ウルグアイ)では、コーチ陣がリオ勢だけなのに怒ったサンパウロのクラブが選手を出さず、リオの選手だけでブラジル代表を組んだ。近年ブラジル代表の大半が欧州でプレーするようになるまで、代表監督の頭痛のタネは、リオとサンパウロから選出する選手数のバランスを取ることだった。
 リオに裕福な階層の支持を受けるフルミネンセと大衆層の人気を独占するフラメンゴの2大クラブがあれば、サンパウロではサンパウロFCとコリンチャンスが同じ構図でライバル心を燃やす。
 ブラジルのサッカーがまだ揺籃(ようらん)期にあった1910年、英国から名門アマクラブ「コリンシャンズ」が訪れ、圧倒的な強さを見せた。当時のサッカークラブは裕福な階級だけのものだったが、試合を見たサンパウロの5人の労働者が「労働者のためのクラブを」と話し合った。そうして生まれたのが「コリンチャンス」。ブラジルで最も熱いサポーターをもつクラブだ。
 そのコリンチャンスの新しいスタジアムこそ、今回の開幕戦会場だ。2万人にも満たないスタジアムしか持たず他クラブのスタジアムを借り歩いていたコリンチャンスが、サンパウロの東郊にようやく夢のホームを持つことができたのだ。
 工事の遅ればかり伝えられているが、試合終了後に一挙に列車を走らせられるようにスタジアムを取り巻くように地下鉄3号線の引き込み線がつくられるなど、見事な建設計画であることがわかる。
 ワールドカップ時は収容6万1606人。だが大会後にはゴール裏の2階席を外し、4万8000人収容となる。400万人が暮らすサンパウロ東部の再開発の核と位置付けられる施設。コリンチャンスとブラジルサッカーの新しい歴史が、ここで幕を開ける。

(2014年6月4日) 

No.981 第3GKの誇り

 フランス1部バスティアのゴールキーパー(GK)ミカエル・ランドロー(35)はフランス代表としてブラジルに行く。しかし彼がピッチに立つことは99%ない。「第3GK」だからだ。
 国際サッカー連盟(FIFA)のウェブ週刊誌に掲載されたインタビューによると、彼は2012年8月にデシャン監督が就任したときに「第3GK」に指名され、以後その地位にあるという。
 フランス代表デビューは02年。11試合の出場歴があるが、07年を最後に出場がない。すなわちデシャン監督の下では、彼は「第3GK」という役割に徹してきたことになる。
 ワールドカップ出場32チームはそれぞれ3人のGKを登録しなければならない。だが実際に使うのは、大半のチームが1人だけだ。
 2010年南アフリカ大会では2人を使ったのはわずか5チーム。27チームがGK1人で全試合を戦った。「第3GK」が出場した例は過去3大会では皆無だ。
 「ときにフラストレーションを感じるときがあるだろうが、いつでも国のために戦う準備ができていなければならない」と、ランドローは「第3GKの心得」を語る。
 「自分のほうが良い選手だと思っても、どんな決定でも受け入れる努力をしなければならない。代表チームにいるのは、祖国に奉仕するためなのだから」
 選ばれ続けてきた第一の理由はもちろんGKとしての実力だ。身長184センチ。現代のGKとしては「中背」だが、どんな状況でも相手のシュートの瞬間には両足に均等に体重を乗せている高い技術で驚異的な反応を誇る。
 だが同時に、ランドローの人格への全幅の信頼があったのは間違いない。試合に出られないことが続いてもトレーニングで全力を尽くし、前向きの精神を失わない彼に、デシャン監督は尊敬の念さえ抱いているだろう。
 川島永嗣と西川周作の間で「第1GK」の座が競われると見られる今回の日本代表。権田修一は第3GKということになる。ザッケローニ監督は就任以来一貫して権田を選んできたが出場は昨年の東アジアカップ1試合。だがそこにこそ、25歳になったばかりの権田にかけるザッケローニ監督の期待がある。
 今回は出番はなくても、第3GKの役割を全うすることで自らピッチに立つ将来のワールドカップへの財産になるに違いない。
 ランドローは今季で現役を引退する。ブラジルでの第3GKが、彼のサッカー選手としての最後の仕事だ。

(2014年5月28日) 

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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