FIFAコンフェデレーションズカップの取材で30年ぶりにブラジルにきている。
成田からアメリカ経由でブラジリアにはいり、開幕戦取材後、空路でレシフェに移動した。直行便でも2時間半。ブラジルは広い。
国の大半が南半球にはいるブラジル。6月は「冬」、しかも標高1200メートルのブラジリアは肌寒いだろうとの予想を裏切り、初夏のような陽気だった。さらに南緯8度、北西部の大西洋岸に位置するレシフェは気温30度。日本の真夏のように蒸し暑く、到着日には激しい雨も降った。それがやむと気温はやや下がったが、湿度が80%と堪え難くなった。
来年のワールドカップ会場で最も北に位置するマナウスはアマゾン中流、熱帯の大都市。6月まで雨期にあたり、蒸し暑さは大変なものらしい。一方、最も南のポルトアレグレでは、日によっては最高気温が10度を割る。
来年のワールドカップは、そのように、ひとつの国とは思えないバラエティーに富んだ会場で行われるのだ。
今回、30年ぶりにきて驚いたのは、ブラジルの物価が非常に高いことだ。タクシーはあっという間に20リアル(約1000円)を超し、ファーストフード店でも20リアルで収まらないこともある。インフレ率が6%を超すというから、来年はもっと高くなっているだろう。20年間も物価が上がらない国からくると驚くばかりだ。
だがやはりブラジルはブラジル。開幕セレモニーは、サッカーに対する愛情にあふれて本当に楽しいものだった。約八百人のボランティアでつくられた人文字が、数人がうまく位置につけなかったためところどころに抜けがあるなど、いかにもブラジルらしいおおらかさも見られた。
最も素晴らしかったのは、八百本のヤシの木が出てきたかと思ったらそこに真っ白なゴールポストが立ち上がってサッカーのピッチになり、22人の選手の大きな人形とボールが出てきて試合が始まったことだった。赤チームが攻め込み、それを奪った白チームが逆襲をかけてゴールを奪うと、スタンドの観客から「ゴオォール!」のかけ声がかかった。
ただ、開幕日には、スタジアム外で激しいワールドカップ開催反対のデモがあった。サッカーが国教のような国かと思っていたが、ブラジルの新しい面を見た思いがした。
変わらないものと変わりつつあるもの―。そんななかで、来年、ブラジルはワールドカップを迎える。
(2013年6月19日)
35年以上前に初めてブラジルに行ったとき、驚きながら感心したことがある。
スタジアムでトイレに行くと、はいってくる人がまず石鹼で丁寧に手を洗い、それから男性用便器に向かって用を足すのである。
日本では逆に、用を足した後に手を洗うんだと話すと、ブラジル人の友人は不思議そうな顔でこう言った。
「大事なところを持つのだから、その前に手をきれいにしないといけないだろう?」
いきなりトイレの話で申し訳ないが、日本とブラジルが地球の裏側だと強く実感したのがこのときだった。
ブラジル。正式な国名はブラジル連邦共和国。時差は12時間。つまり日本とは昼と夜が完全に逆になる。南半球だから季節も逆だ。国土は日本の22.5倍もあるが、人口は1.5倍の約1億9800万人(2011年)。長い軍政の時代を経て1980年代に民政に移管し、今世紀を迎えてから著しい経済成長を続けている。
「ブラジル」とは、ポルトガル語で「赤い木」を意味する。16世紀に南米大陸の東部を支配したポルトガル人が赤い染料を採取できる木の自生地を発見、この地からの最初の輸出品とした。当時この土地はサンタクルスと呼ばれていたが、16世紀末には「ブラジル」と呼び習わされるようになった。
ポルトガルからの独立は1822年。建国200周年を前に、来年にはワールドカップ、その2年後の16年にはオリンピックと、世界規模の祭典が相次いで開催される。
日本とのつながりは深い。日本からの移民は1908(明治41)年に始まり、現在は約150万人の日系人がいる。一方、日本にも現在約21万人のブラジル人が居住し、外国人労働者の数としては中国人に次ぎ多い。
Jリーグ20年間の歴史で最も多くプレーした外国籍選手はもちろんブラジル人。「地球の裏側」だが、ブラジルはけっして遠くなく、近しく感じる国だ。
しかし実際には、生活習慣や文化など多くの面での違いがある。サッカーもそのひとつに違いない。
1894年に最初のタネがまかれ、20世紀にはいって爆発的な進化を遂げたブラジルのサッカー。ワールドカップ優勝5回を誇る「王国」のけんらんたるサッカー文化のなかで、FIFAコンフェデレーションズカップ(15日開幕)とワールドカップ(来年6月)が開催される。日本代表がその舞台に立つことで、私たちはまた新しい驚きに出合う。
(2013年6月12日)
11日にイラクとのワールドカップ予選最終戦(ドーハ)を終えると、日本代表はブラジルに直行する。15日に開幕するFIFAコンフェデレーションズカップ(コンフェデ)に参加するためだ。
コンフェデは国際サッカー連盟(FIFA)傘下の6地域連盟のチャンピオンが集う大会。そこに世界チャンピオン(前回ワールドカップ優勝国)と開催国を加え、8チームで開催される。ワールドカップの前年に、ワールドカップ開催国を舞台に行われる「プレ大会」の位置付けだ。
大会が始まったのは1992年10月。サウジアラビア協会が主催する招待大会だった。4チーム参加、全4試合のミニトーナメントだったが、意外に好評で、95年の第2回大会に続く97年の第3回大会で正式に「FIFAコンフェデレーションズカップ」となり、第4回大会からサウジアラビアを離れて世界各地での開催となった。
05年までは2年にいちどの大会だった。以後4年にいちど、ワールドカップの開催国でワールドカップの前年開催となった。
日本はこの大会に縁が深い。過去8回の大会のうち4回出場。第9回を迎える今回、5回目の出場は、ブラジル(7回目)、メキシコ(6回目)に次ぎ第3位だ。01年には準優勝を飾っている。
初出場はサウジアラビアの首都リヤドで行われた95年の第2回大会。92年アジアカップ優勝による出場だった。1月6日の初戦でナイジェリアに0-3、2日後にはアルゼンチンに1-5。2戦2敗で大会を終えた。加茂周監督就任直後でチームを固める時間がなかったうえにシーズン終了直後でコンディションが整わず、力を出し切れなかった。
だが日本代表にとっては、これが「世界大会」へのデビューだった。オリンピックや年代別ワールドカップへの出場はあっても、ナショナルチームが集う世界大会への出場は初めてのことだった。
1月8日のアルゼンチン戦、4点をリードされた後半12分に日本は相手ペナルティーエリアの右外、ゴールまで25メートルでFKのチャンスを得た。キッカーは当時ジェノア所属のカズ(三浦知良)。左足を振り抜き、右隅に決めた。日本の「世界大会第一号ゴール」だ。
さてブラジルで開催されることしの大会、日本は開催国ブラジルとの開幕戦に出場する。会場は首都ブラジリア。入場券は早々と完売している。世界の耳目を集めるなか、日本代表はどんなサッカーを見せてくれるか―。
(2013年6月5日)
そのアイデアがひらめいたのは、いまから47年前の1966年7月24日、イングランドを舞台に開催されていたワールドカップの期間中のことだった。
3年前に審判員を引退し、国際サッカー連盟の審判委員会委員となったケン・アストンは、ロンドン市内で車を走らせながら、考えごとをしていた。
前日の準々決勝イングランド対アルゼンチンでアルゼンチンのラティン主将が主審に暴言を吐いたとして退場を命じられた。ドイツ人主審はスペイン語がわからず、ラティンもまったくドイツ語を解さなかった。おまけに翌朝の新聞でイングランドのJ・チャールトンも警告を受けたとの報道があり、この朝彼自身からアストンに確認の電話がはいっていた。誤報だった。
言葉が通じない国際試合での審判員と選手のコミュニケーションを改善しなければならない。だがどうすればいいのか...。
目の前の信号が黄色から赤に変わり、アストンは無意識のうちにブレーキを踏んだ。
そのときだった。
「そうか、黄色は注意、赤は止まれ。これなら誰にもわかるぞ」
警告にイエローカード、退場にはレッドカードというシステムが生まれた瞬間だった。2年後のメキシコ五輪で初めて使われ、以後世界中に普及した。いまではサッカーにとどまらず10を超す競技で使用されている。
警告と退場を黄色と赤のカードで示すのは、審判と選手間のコミュニケーション向上が最大の目的だった。ところが近年の日本のサッカーでは逆に審判と選手が互いのコミュニケーションを拒絶する道具のように見えてならないときがある。
有無を言わさずカードを突きつける主審。警告になりそうな反則をするとさっさと背を向けてその場から逃走をはかる選手。その結果、主審は遠くからカードを示し、誰が受けたのかさえわからないケースも頻発する。
1960年代、「カードシステム」が導入される前には、警告を与える手順が審判員に指導されていた。
①選手に名前を聞く。
②警告であることを明確に告げる。
③さらに反則を犯した場合には退場になることを、明確に告げる。
そのうえで主審は自分のノートに警告者の名前を書いた。言葉さえ通じれば、コミュニケーションはかえって優れていた。
何より重要なのは互いのコミュニケーション。審判と選手の両者がもっとそれを意識すれば、試合は気持ちのいいものになる。
(2013年5月29日)
Jリーグ第11節、5月11日の浦和×鹿島での誤審事件。原因は主審と副審が話し合わなかったことに尽きる。
浦和のMF梅崎がシュート性のボールを送り、FW興梠が頭で触れて右隅に決めた。佐藤隆治主審は興梠がオフサイドの位置ではなかったと思った。竹田明弘副審は興梠がオフサイドポジションにいたことはわかっていたが、梅崎のシュートが誰にも触れずにはいったと判断した。
角度や距離で正しい判定が難しい場合がある。だから主審と副審はひとつのプレーを違う角度から見るべく、位置をとる努力をする。ゴールの判定を下す前に主審と副審が互いの判断を確認し合っていれば、簡単に誤審は避けられた。だが話し合いは行われず、浦和の得点が認められた。
オフサイドであることを示す映像が大型スクリーンに流れてしまったのは浦和の失態だった。それを見た鹿島の選手たちが佐藤主審に詰め寄るという事態になり、話し合うタイミングを逸したのかもしれない。しかしそれは二次的なことに過ぎない。すべての過ちは、判定を下す前に主審と副審が話し合わなかったことにある。
難しい判断の場面でも、主審と副審がめったに話さないことに驚く。ほんの数十㍍走って確認し合えば済むのに、主審は自らの判断を信じて疑わず、副審もアピールしない。
最終的な決断は主審に委ねられるが、「主審(レフェリー)」と「副審(アシスタントレフェリー)」はけっして主従の関係ではない。だが実際には、たとえば経験豊富な主審と若い副審との組み合わせやクラス(国際主審と1級審判)の違いなどで、無意識のうちに互いに上下の感覚があるのではないか。
翌週の浦和×鳥栖で、浦和FW興梠と鳥栖DF呂成海がからみ、浦和にPKが与えられた。中村太主審は自信をもって呂の反則と判断した。だが呂の足が先にボールを突き、その足に興梠がつまずいたようにも見えた。自信があっても、違う角度から見ていた山際将史副審と話してから判定を下したほうがよかったのではないか。
判定の正しさは何より大事だ。だが「審判チーム」が全力で正しい判定を下そうと努力していることを示すことにも、小さからぬ意味がある。多少時間はかかるかもしれないが、主審と副審がしっかり話しての結論であれば、選手も納得しやすいのではないか。
浦和×鹿島の「大事件」の教訓を生かすべきときだったと、私は感じた。
(2013年5月22日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。