70年代の後半に「サッカー・マガジン」の編集部にいたころ、仲間の編集者がおかしなことを言い出した。
「もうすぐ誕生1万日ですよ」
彼の手には買ったばかりの電卓があった。その電卓に「日齢」を計算する機能がついていたのだ。当時私は27歳。30年近い年月に、「1万」という数字の大きさを実感した。
その「1万」まで秒読みになったのが、Jリーグだ。予定どおり試合が行われれば、今月の28日(日)にはリーグ戦通算1万試合を超えることになる。
1993年5月15日の「横浜マリノス×ヴェルディ川崎」で歴史の幕を開けたJリーグ。20年を迎えることし5月にはいろいろなイベントが企画されているが、その前に大きな節目を迎えるのだ。
初年度はわずか10クラブ。「2ステージ制」で同じチームとの対戦が4回あったが、年間180試合にしかならなかった。その後毎年のように加盟クラブを増やし、7年目の99年には2部(J2)も誕生、年間の試合数は420に増えた。J1とJ2合わせて40クラブとなった昨シーズン末で、総試合数は9816となった。
そして3月に21回目のシーズンが開幕。悪天候に直撃されながら無事全20試合を開催することができた先週末までで計9938試合まできた。予定どおり試合が行われれば、4月28日日曜日のJ2第11節を「残り3試合」で迎えることになる。
この日は、札幌×熊本、水戸×横浜FC、群馬×徳島、岐阜×山形、京都×千葉の計5試合が午後1時キックオフと予定されている。細かいことを言わなければ、この5試合が「Jリーグ1万試合目」の栄誉を担う。
サッカーの「1万試合」とはどんな数字なのだろう。
単純に計算すれば90万分間(2002年までは「Vゴール」があったから実際にはもっと長い)、1万5000時間、625日間。22人の選手と3人の審判員計25人が平均10キロ走ったとすると、250万キロ、地球を62回半も周り、月との間を3回往復しておつりがくる距離となる。
先週末、9938試合の時点での総入場者は1億2019万9623人。1万試合では1億2100万人を突破するだろう。観客一人ひとりを数えた掛け値なしの数字。日本人がほぼ一人1試合ずつ観戦したことになる。
4000人近くの選手たちが情熱を注いで紡いできた1万試合。積み重ねてきた喜怒哀楽の大きさを思う。
(2013年4月10日)
アジル・ハジさん(66)は、ヨルダンの首都アンマンの西にある小さなショッピングセンターの小さな土産物店で働いている。観光客がいる地域ではないので、店はとても暇だ。
ヨルダンとのワールドカップ予選を夕刻に控えた3月26日の朝、私は宿泊していたホテルに近いこのショッピングセンターを歩いていてアジルさんの店を見つけ、私のチームの選手たちへのおみやげを買おうと考えた。
必要なのは30個。安くてかさばらないものでなければならない。幸い1個1ディナール(約130円)のピンバッジが見つかった。アジルさんは丁寧に数え、「これはおまけ」と3つ付け加えてくれた。そればかりか、小さな置き物を「これはあなたに」と別の袋に入れてくれた。
いちどホテルに戻り、スタジアムに出かける前に写真家の今井恭司さんと昼食に出た。今井さんも土産物店を見たいと言うので行ってみた。
「ああよかった。探していたんだ」
私を見るなり、アジルさんがこう言う。
「さっきは1個1ディナールと言ったが、あとで店のオーナーに聞くと0.75だったんだ。だからお金を返さなければならない」
思いがけない申し出に、私は驚いた。たくさんおまけしてくれたのだから、返金は不要と返事した。
しかしアジルさんは「それはだめだ」と言うと、財布から5ディナール札を1枚、1ディナール札を2枚、そして半ディナールのコインを2枚出すと、私の手に握らせた。0.25ディナールかける30は7.5ディナールなのだが、半ディナールは気持ちなのだろう。
私はその8ディナールをそのままポケットに入れる気になれず、「何か買い物しませんか」と今井さんに言うと、1個1ディナールのキーホルダーを8個選んできた。
手の中の8ディナールをそのままアジルさんに返した。アジルさんはキーホルダーをきれいに包み、さらに別の棚に行って、私にくれたように、小さな置き物と死海特産のせっけんを袋に入れ、「これはあなたに」と今井さんに差し出した。
「世界中を旅行してきたが、あなたのような人に会ったのは初めてだ」と言うと、アジルさんは「当たり前のことをしただけです。ヨルダンにようこそ」と、優しさにあふれた笑顔を見せた。
アジルという名には「公正な」という意味があるという。アジルさんの笑顔には、この国の人びとの人柄の良さが象徴されていた。
(2013年4月3日)
ヨルダン滞在2日目の3月24日日曜日は、一日中観光だった。
22日のカナダ戦(カタールのドーハ)の翌日には日本代表はヨルダン戦の試合地アンマンに移動すると考えていたので、23日の便を取った。だがザッケローニ監督はアンマンでの練習は試合の前日だけとすることにし、前々日となる24日の夕刻に移動した。
日本代表を追って世界中に取材に出掛けているが、試合だけでなく、できる限り練習にも行く。だから通常は観光の時間などほとんどない。だが今回は代表より一日早くアンマンに着いてしまった。「千載一遇」とはこのこと。アンマンから約200㌔南にある世界遺産のペトラ遺跡を訪ねることにしたのだ。映画『インディ・ジョーンズ』を見てから、いちどは行きたいと思っていた場所だ。
記者仲間の後藤健生さんにアレンジをお願いし、チャーターしたバンで記者7人が朝8時にアンマンを出発。いくつかの観光地を回ってペトラに着いたのが午後2時。それから7時まで、広大な遺跡をゆっくりと歩いた。
もちろん「自然と人間による岩の芸術」と呼びたくなるような遺跡は、本当に素晴らしかった。雲ひとつない快晴の下、汗をかきながらひたすら歩き、岩山を見上げた。だが最高の一日を演出したのは、世界遺産の遺跡だけではなかった。
往路の車中ではサッカー談義が尽きなかった。遺跡のなかで日本代表の応援にきている日本人サポーターふたりと会い、そこでまたサッカーの話に花が咲いて時間が過ぎるのを忘れた。最後には、そのふたりと、バンを運転してくれたワリドさん、観光にきていた日本人の父娘連れも含め、総勢12人でヨルダン料理を楽しんだ。
実は、私にはひとつの気掛かりがあった。この日、東京に残してきた女子チームが大事な試合を戦っていたのだ。だが観光先からでは結果を知ることさえできない。そんなところに行ってしまうことに、小さな後ろめたさを感じていたのだ。
しかし真っ暗な道を疾走する帰りの車中で私の心を占めていたのは、静かな幸福感だった。サッカーや日本代表のおかげで、こんなところにまできて、思いがけない人びととの出会いもあった。
仲間は皆疲れて眠っていた。しかし車窓を通して見事な星空を眺めながら、私は眠ってしまうには惜しすぎると思った。ホテルに戻ってメールを開くと、私のチームはしっかりと2-0で勝ってくれていた。
ペトラの巨大な遺跡の前で 筆者(左)と記者仲間
(2013年3月27日)
6月15日に開幕するFIFAコンフェデレーションズカップに暗雲が立ち込めている。スタジアム建設が間に合わないのではないかというのだ。
アジア・チャンピオンとして日本も出場する「コンフェデ」は、来年のワールドカップの予行演習と位置付けられている大会。ワールドカップで使う12会場のうち6スタジアムを使用し、ワールドカップに近い運営形態で開催する。
開幕まで百日を切った先週から、国際サッカー連盟は6会場の視察を行っているが、完成しているのはベロオリゾンテとフォルタレザの2会場だけ。他の4会場は工事が大幅に遅れている。とくに懸念されているのが6月16日のメキシコ対イタリア、20日のスペイン対タヒチ、そして30日の決勝戦の3試合が予定されているリオデジャネイロのマラカナン・スタジアムだ。
63年前のワールドカップの主会場として建設され、ブラジル・サッカーのシンボルとなったマラカナン。当時は収容20万人という世界最大のスタジアムだったが、立ち見席がなくなる改修後は7万6935人収容となる。
当初の完成予定は昨年12月。しかし工事は大幅に遅れ、ピッチもまだできていない。何よりも、完全に新しくなって観客席をすべてカバーする予定の屋根が、4分の1ほどしかできていないのだ。
FIFAは工事の終わったスタジアムの引き渡しを4月27日に設定している。開幕まで50日もあるが、ゴール判定装置(GLT)の設置を含めいろいろなテストをしなければならないからだ。6月2日にはイングランドを迎えてのこけら落としの親善試合が行われる予定になっている。
マラカナンは50年ワールドカップの開幕にも間に合わなかった。当日朝まで観客席の化粧工事がはいっており、スタジアムの周辺は工事現場そのものの雰囲気だったという。ペンキ塗りや後片付けが残っていても試合はできるが、屋根の取り付け工事をしながら観客を入れて試合をすることはできない。
視察に当たっているFIFAのファルク事務総長は、コンフェデ用の6会場だけでなくワールドカップで使用する他の6会場の状況も心配で、「ことし12月に行われる組分け抽せん会前に会場都市を削ることもありうる」とまで語っている。
2010年南アフリカ大会前にもスタジアムの工事の遅れが大きな懸念になった。そのときには全会場が間に合ったが、ブラジルではどうなるのか...。
(2013年3月13日)
「シュートはゴールへのパス」と教えてくれたのは、岡野俊一郎さん(元日本サッカー協会会長)だった。なるほどと思ったが、これが簡単ではない。
ペナルティーエリアにはいると、相手のプレッシャーもそれまでの比ではないほど強くなる。「チャンス!」と思った瞬間に、体のどこかに力がはいる。力いっぱい足を振るのが精いっぱいで、「パス」どころではない。
英プレミアリーグ、ノリッジ戦での香川真司(マンチェスター・ユナイテッド)のハットトリックは見事だったが、その2点目は格別だった。
1-0で迎えた後半31分、ロングパスを受けて右からFWルーニーが突破。切り返しで相手DFをかわし、ペナルティーエリアに走り込んでくる香川の前に丁寧にパスを送る。
香川の正面にはノリッジDFターナー。香川がゴール左隅にシュートすると読んで、シュートをブロックすべく、左に滑り込んだ。ルーニーがボールをもっていたときには右ポスト前に位置していたGKバンも、素早くステップを踏んで左に移動していた。2人の対応に誤りはなかった。
だが香川は決めた。全速で走り込んできた勢いをふっと殺し、タイミングを微妙にずらしてボールを右足のインサイドに当ててゴール右隅に送り込んだのだ。シュートというより中盤の密集のなかでスペースにパスを送るようなプレー。微塵の力みもないのは驚きだが、このゴールの非凡さは、なによりシュートのコースにある。
右からのクロスに合わせるシュートを右隅に送り込むのは、実は理にかなったプレー。相手GKはシュートに備えて右ポスト前から中央にポジションを移す。左へのシュートなら動きの「順」の方向に跳んで守ることができる。右に打たれると動きの逆をつかれる形になる。だがプロでも右からクロスを受けると左隅を狙うことが圧倒的に多い。左が空いていると思うからだ。
香川が見ていたのは相手選手やカバーされていないゴールへのコースではない。2人の動きの「ベクトル」だった。ルーニーがパスを出した瞬間にはゴール右を塞いでいた2人が自分のシュートに対してどこを塞ぐことになるのか、彼らの動きのベクトルを見ることでイメージを描き、「一瞬後に生まれ出るスペース」に「パス」を送り込んだのだ。
香川のゴールは数多く見てきた。しかしこれほど彼の才能を際立たせたものはなかったように思う。
(2013年3月6日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。