21シーズン目のJリーグが開幕する。
3月2日土曜日にJ1、そして3日日曜日にJ2が全国各地で12月まで続く長い戦いに突入する。
「スポーツを愛する多くのファンの皆様に支えられまして、Jリーグは今日ここに大きな夢の実現に向けてその第一歩を踏み出します」(1993年5月15日、川淵三郎チェアマンの開会宣言)
20年後、Jリーグは10クラブ(8府県)から40クラブ(30都道府県)に拡大した。年間の試合数も180から768へと増え、ことし4月28日にはリーグ戦通算1万試合を突破する予定だ。
一部の地域でしか見ることのできなかったプロサッカーが、この20年間で全国の多くの地域のものとなった。来年には10クラブ程度で「J3」もスタートするという。
数字の上では20年間で4倍の規模になったJリーグ。だがそこから生まれる「幸福感」が同じように増えたとは思えない。
20年前にはJリーグを見てサッカーのとりこになった人がたくさんいた。スピード感と次々と変化していく展開は、人びとを夢中にし、その熱気がスタジアムを包んでいた。
20年前の選手が現在の選手たちよりうまかったわけではない。戦術的にも未熟なことが多く、運動量を比較しても間違いなく現在のほうが多い。しかしそれでも、20年前の試合は人びとの心をわしづかみにした。
その最大の要因は、全身全霊をかけたと言っても過言ではない選手たちの取り組みだった。当時は水曜、土曜と毎週2試合が行われていたが、選手たちは手を抜くことなく全力を出し切った。
「自分たちががんばらなければJリーグはつぶれてしまう」という、強烈な責任感があったからだ。
技術が向上し、戦術面も洗練され、戦い方も緻密(ちみつ)になった現在のJリーグ。しかしその分、選手たちの必死さは伝わってこない。「仕事」として淡々とこなしているように見える試合さえある。
勝つことだけにこだわり、巧妙な時間かせぎ(交代やCKなどに必要以上の時間をかける)やシミュレーション(審判を欺こうとする行為)、そして判定への異議が横行し、毎年のようにこうした行為の撲滅が叫ばれながら減る気配さえない。
二十歳になったJリーグに何より望みたいのは、とにかく全身全霊でプレーする姿勢を取り戻すことだ。「1993年の精神」を思い起こすのに、ことしほどふさわしい年はない。
(2013年2月27日)
リオネル・メッシがバルセロナでの通算300得点を突破したという。昨年来の得点ペースはすごいとしか言いようがない。
だがそのメッシもクラブ記録にはまだ届かない。バルセロナの歴代最多得点者はパウリノ・アルカンタラ(1896―1964)。1912~27年の間に357試合に出場し、試合数と同じ数の得点を記録した。バルセロナの最初の黄金時代の主役だった。
細身で小柄なフォワード。強烈な右足シュートをもち、ゴールネットを突き破ったことさえあるという。だがそれ以上の驚きは、20世紀初頭のスペインのスターが欧州でプレーした初のアジア人で、日本ともかかわりがあったという事実だ。
生まれはフィリピン中部パナイ島のイロイロ。父はスペイン軍人、母は現地女性だった。イロイロはサッカーが盛んな町で、自然にプレーするようになった。1911年、両親とともにバルセロナに移住。14歳だった。
バルセロナの学校チームでプレーを始めると、たちまち才能を発揮する。15歳でバルセロナの1軍に引き抜かれてデビュー、初戦でいきなりハットトリックの活躍を見せた。最多得点記録とともにクラブの最年少得点記録も彼のものである。
だが両親の願いは彼を医者にすることだった。彼が19歳になると一家はフィリピンに戻り、息子はマニラの医大に入学する。そして翌1917年、彼は東京で開催された第3回極東選手権(総合スポーツ大会)でフィリピン代表のエースとして来日する。
日本サッカー協会はまだ誕生しておらず、日本は東京高等師範学校が代表として出場、フィリピンには2-15の大差で敗れた。フィリピンの先制点を決めたのはアルカンタラだった。ちなみにスポーツ万能だった彼は、この極東選手権ではテニスにも出場している。
一方、彼を失ったバルセロナはタイトルから見放され、復帰を望む声が高くなる一方だった。かたくなな両親に対し、彼はマラリアにかかったのを利用して「スペインに戻らせてくれないなら薬は飲まない」と主張、ようやくバルセロナ復帰を勝ち取った。バルセロナの第一期黄金時代はここから始まる。
フィリピンのサッカーは、一時アジアで最も弱いと見られていた。だが近年めきめきと力をつけ、現在はアジアの46カ国中22位。「アジア初のスーパースター」アルカンタラの存在が、彼らに誇りと勇気を与えている。
(2013年2月20日)
先月下旬に英国で起きた「ボールボーイ・キック事件」のニュースにはうんざりした。
リーグカップの準決勝、「引き分けでも決勝進出」という有利な立場のスウォンジーがホームで強豪チェルシーと対戦した。0-0で迎えた終盤、ライン外に出たボールをチェルシーのアザールが拾おうとすると、ボールボーイが倒れ込み、ボールを体の下に入れて隠した。かっときたアザールがボールをけり出すと、ボールボーイは大げさに脇腹をかかえて転がり込んだ。
アザールは当然退場だ。だがその17歳のボールボーイがスウォンジーの役員の息子で、事前に「時間稼ぎ」を宣言していたことも判明すると、英国の世論は一挙にスウォンジーに冷たくなった。
思い出したのは、昨年4月、ブラジルのリオデジャネイロ州選手権第2ステージ決勝戦の1プレー。ただこちらは思わず拍手を送りたくなる出来事だ。
2-0とリードしたボタフォゴが左から攻めようとしたボールをバスコダガマの選手がかろうじてさわり、タッチ外にけり出した。
だがバスコがひと息つくことは許されなかった。ボールを奪われた後も足を止めずにタッチラインまで走ってきたボタフォゴMFアンドレジーニョに向かって、タッチライン際にいたひとりのボールボーイ、いや女性だから「ボールガール」が、まるでバスケットボールのパスのようにボールを投げたのだ。
間髪を置かずに縦に投げるアンドレジーニョ。FWアブレウが抜け出し、ゴール正面に送ったのをMFマイコスエルが決め、勝利を決定づけてしまったのだ。ボールがタッチに出てからスローインまでわずか1秒、得点まで6秒という電光石火の早業だった。
一夜のうちに「ボタフォゴにアシストしたボールガール」として有名になったのは、フェルナンダ・マイアという22歳の女性。
「どこのファンかって? それは秘密よ。でもいつもと同じようにしただけよ」と、インタビューに答えた。
彼女はプレーが自分の方向に近づいてくると「持ち場」を離れてプレーに近寄り、手にしたボールを投げ渡すと、振り返って外に出たボールを拾いに走っていた。あとのプレーは見ていなかった。
「私の夢はワールドカップでボールボーイになること」と語るフェルナンダ。彼女のように中断を短くしようとする「プロ意識」をもったボールボーイばかりになったら、サッカーはもっともっとスピーディーで面白くなるはずなのだが...。
(2013年2月13日)
2月6日はサッカーにとって悲しい事件の記念日だ。55年前、1958年のきょう、イングランドのマンチェスター・ユナイテッドを乗せた旅客機が雪のミュンヘン空港で離陸に失敗、一時に8人もの選手の生命が失われた。今回は、この事故後に起きた出来事を少し考えてみたい。
トップチームが事実上壊滅したとき、ユナイテッドはイングランド・リーグを14試合も残しており、ユース選手を何人も使って戦う以外になかった。
この事故の9年前、イタリアでも悲劇があった。戦争による中断をはさみセリエAで4連覇、イタリア代表そのものと言っていいトリノの選手18人の生命が、航空機事故で一瞬のうちに失われたのだ(その後のイタリア代表の低迷は、この事故が原因と言われる)。
事故が起こったのは49年の5月4日。トリノもまた、セリエA4試合を残していた。第34節を終えた時点での成績は21勝10分け3敗、首位。だが2位インテルがじわじわと迫ってきていた。
リーグを投げ出すわけにはいかない。トリノはユースチームで残り試合を戦うことにした。そしてジェノアに4-0、パレルモに3-0、サンプドリアに3-2、フィオレンチナに2-0と4連勝、見事5連覇を飾った。実は、亡くなった選手たちとトリノというクラブ、そしてトリノ市民に対する「リスペクト」を表すために、対戦する4クラブもユースチームを送り出していたのである。
イングランドでも、事故後のユナイテッドと対戦した全14クラブは最大限の「リスペクト」を表現した。だが彼らにとってのリスペクトは、イタリア人が考えたものと同じではなかった。1軍の最強チームを送り出し、全力でユナイテッドに立ち向かったのだ。
2月以降、ユナイテッドの「継ぎはぎチーム」はよく奮闘した。だが結果は14戦して1勝5分け8敗。9位でシーズンを終えた。
「リスペクト」の心は同じ。しかし行為は正反対だった。
「リスペクト」やフェアプレーは、絶対的なものではない。それぞれの国の文化のなかにあり、時代とともに変わるものでもある。
日本ではフェアプレーといえば「黄色」というイメージが定着している。国際サッカー連盟も黄色だ。だがアジアサッカー連盟のフェアプレー旗は青色。心が同じであれば、形はさまざまでいい。
どんな形の「リスペクト」やフェアプレーが、現代日本の社会にふさわしいだろうか。
(2013年2月6日)
メッシやシャビがついに広告塔になる?
1899年の創立以来ユニホームの胸に商業広告をつけなかったバルセロナ(スペイン)が、その方針を大きく変える。来季、「カタール航空」のロゴをつけることになった。
バルセロナは2006年以来ユニセフに多額の寄付をし、胸にもユニセフのマークをつけて活動を支援してきた。昨年、非営利のカタール財団と5年で2億ドル(約180億円)の契約を結んだが、新シーズンからロゴを航空会社のものに替えることになったのだ。
あって当然、ないと少し寂しい気さえする胸広告。しかし1970年代までは蔑視(べっし)さえされていた。
最初に胸に広告を入れて収入増を計ったのは、50年代、ウルグアイのペニャロール。だが欧州では抵抗が大きかった。70年代前半までの西欧で胸広告を認めていたのはフランスだけ。数や大きさの制限もなかったため、ユニホームは大小のロゴだらけで、まるでF1の車のようだった。
73年に西ドイツのブラウンシュバイクが地元の酒造会社「イエーガーマイスター」と契約、リーグの禁止令を無視してブンデスリーガの試合に出場した。リーグは半年後に追認するしかなかった。74年にはバイエルン・ミュンヘンが胸にアディダスのロゴをつけて世界的に有名になった。
イングランドでは、76年1月にセミプロのケッタリング・タウンというクラブが地元の自動車修理工場「ケッタリング・タイヤ」と契約。リーグが警告すると「ケッタリング・T」と変えた。そして「TはタウンのT」と説明した。なかなかの粘り腰だが、リーグは「罰金を科す」と脅した。イングランドのリーグが胸スポンサーを認めたのは翌年のことだった。
いまでは胸広告で年間20数億円をかせぐマンチェスター・ユナイテッドが初めて契約したのは82年、日本のシャープだった。年間10万ポンド(当時のレートで約4500万円)だったという。80年代のイングランド・リーグは、JVC(アーセナル)、NEC(エバートン)など日本の電機業界の花盛りだった。
ある調査によれば、現在の欧州の主要5リーグの胸広告料の総額は年間約560億円、1クラブ平均6億円近くになるという。
不況が続く日本ではスポンサー探しに苦労するクラブも多く、その契約料も千差万別。しかしクラブのイメージはスポンサーのイメージにも直結する。プロサッカークラブの責任は、多様で重い。
(2013年1月30日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。