独創的な指導論で1970年代の半ばに日本中の少年サッカー指導者に大きな影響を与えた近江達(おうみすすむ)さんが1月11日に永眠された。83歳だった。
本職は外科医。大きな病院の外科医長として、人命を預かって神経をすり減らすような仕事のかたわら、40代を迎えたころ、大阪府の枚方(ひらかた)市で少年サッカーの指導を始めた。
1970年、日本のサッカーは世界から取り残されていた。メキシコ五輪銅メダルはあったものの、技術、戦術、体力とあらゆる面で世界との差は絶望的なまでに大きかった。「サッカーは日本人には向いていない」という見方まであった。
そんななか、近江さんは世界に通じる技術や創造性をもった選手を育てようと、ドリブルなどの独自の練習方法を考案しつつ、紅白戦を主体とした練習を続けた。ほとんど口をはさまず、子どもたちの自主性に任せた。数年後、小学6年生となった子どもたちは、近江さん自身さえ驚かせる成長を見せる。そして確信を得る。
「以前はブラジル人のボール扱いが人間わざと思えなかったものだが、少年たちの技巧に自信を得た今では、別段驚くほどのことはない、それどころか素質では、日本人の方が白人よりも上のような気がする」(『サッカーマガジン』75年2月号「少年サッカーをもういちど考えよう」)
「最近イマジネーションや戦術的能力の不足を嘆き、よい教育法を求める声が大きくなりつつあるが、私の体験では、教えないで、小さいときから、選手がゲームに熱中して、自分で考え工夫するのが一番よい」(同)
そうしたなかから、後に日本代表になる佐々木博和という天才少年が出現する。その技術、想像力と創造性は今日の日本代表選手も及ばない。間違いなく「近江理論」の正しさの証明だった。72年に近江さんが書いた『サッカーノート』(上下巻、自費出版)は、当時の指導者たちに大きな影響を与えた。
近江さんは1929年神戸生まれ。神戸三中、旧制松江高、京都大で選手として活躍した。神戸の六甲小学校で担任が休み時間にサッカーで遊んでくれたことが、サッカーへの愛情の始まりだった。
近江さんのような指導者のおかげで現在の日本サッカーは世界でも認められる技術をもつに至った。だが彼が目指した「自分で考え、創り出すことで世界をリードする選手」はまだいない。遺されたその高い志を、日本中の指導者が受け継がなくてはいけない。
(2013年1月23日)
「以前、われわれは選手たちに何かを『要求する』立場にあった。しかし現在は彼らを『納得させる』ことを求められている」
1月12日から3日間仙台で開催された「フットボールカンファレンス2013」でA・ロクスブルグ(前欧州サッカー連盟技術委員長)が紹介したA・ベンゲルの言葉だ。
イングランドのアーセナルでリーグ3回、カップ4回の優勝経験をもつベンゲル。16シーズンでいちども4位を下回ったことがないという抜群の実績を背景に、育成システムの構築からトップ選手の契約にいたるまでクラブの「全権」を任される立場にある。
そのベンゲルをもってしても、「こうプレーしろ」と命じるだけでは、現代の選手たちの力をフルに引き出すことはできない、説明して完全に納得させなければ動かすことはできないというのだ。
その言葉で思い起こしたのが、大阪の高校バスケット部員の自殺事件だった。顧問の教師による体罰が原因だったという。
その報道のなかで、「これは暴行」と断じながらも、体罰自体を否定するわけでもない意見が多かったのに驚いた。いまも日本の「スポーツ教育」のなかで体罰を容認あるいは「必要悪」とする空気がある。強い選手をつくるため...と。
完全な間違いだと思う。指導は受けるにしても、スポーツとは本来自発的に行うものであり、自発的な行為だからこそ人間としての成長やあらゆる面での自立につながる。
「フットボールカンファレンス」では、一流選手とそうなれない選手の違いは人間性にあると、何人もの指導者が指摘した。自立した人間でなければスポーツで成功することはできないというのだ。
「体罰による指導」というものがあるとしたら、「他発的」な力の発動により自立した人間と同じ力を引き出そうというものではないか。その効果は長続きせず、体罰は繰り返され、エスカレートすることになる。
より根本的な問題は、体罰が選手の人権を無視したものだということだ。スポーツ教育だけが、日本国憲法第十三条(「すべての国民は、個人として尊重される」)の例外でありえるわけがない。
体罰に象徴される権力ずくの指導と対局にある「納得させる指導」には、指導者側の不断の努力と研究が必要だ。クラブ内で絶対的な決定力をもつ世界的な指導者でさえその努力を怠っていないことを、よく考えてみる必要がある。
(2013年1月16日)
2013年。Jリーグは5月15日(水)がスタート20年の記念日となる。5大会連続のワールドカップ出場権獲得を目指す日本代表にとっては、来年の決勝大会に向けて準備を進める重要な年だ。
だがより大きな歴史の節目の年でもある。サッカー自体が、「誕生150年」を迎えるのだ。
中世から英国大衆の憂さ晴らしだったフットボール(ラグビーと分化していなかった)は、19世紀に学校教育に取り入れられて次第に競技の形を整えた。だがルールは各校まちまち。卒業後も競技を続けるには「統一ルール」が必要だった。
バーンズFC設立者モーリーがルール統一会議の開催を呼び掛けた新聞記事に応じ、1863年10月26日月曜日の夜、ロンドン市内の「フリーメーソンズタバーン」と呼ばれる居酒屋に12のクラブの代表者が集った。そしてその日のうちに11クラブの参加で「フットボールアソシエーション(サッカー協会=FA)」の設立が決議された。年会費は1ギニー。今日の価値にすると5万円ほどだった。
1863年とはどんな時代だったのか。アメリカでは南北戦争3年目。激戦地ゲティスバーグでリンカーンが有名な演説をしたのは11月19日のことである。欧州ではイタリア半島が統一されて3年目、ドイツは統一への動きが始まったばかり。フランスはナポレオン三世統治下の第二帝政の時代だった。
日本では、ペリー来航から10年後の文久3年、「幕末」の動乱期の真っただ中だった。明治維新はこの5年後に訪れる。そして英国は大繁栄のビクトリア女王時代。当時の世界で唯一の超大国だった。この年には、ロンドンで世界初の地下鉄の運行が始まった。
そんな時代に生まれたFA。ただし正確に言えば、その時点ではサッカー自体は産声を上げるには至っていない。肝心の統一ルールが完成していなかったのだ。会合は毎週のように続けられ、12月8日(火)の6回目で統一ルールの採択にこぎつけた。この日こそ、「サッカー誕生の日」ということになる。
FAはさっそく12月19日(土)にロンドン西部のバーンズ地区にあるライムズ・フィールドと呼ばれたグラウンドでバーンズFC対リッチモンドの試合を開催した。史上初のサッカーの試合だ。
そして150年、サッカーはいまや2億6500万の競技人口と10億を超すファンをもつ人類最大のスポーツとなった。誕生200年を迎える今世紀後半には、どんな発展を遂げているのだろうか。
(2013年1月9日)
「ことしいちばんの試合は何だっただろう」
1年間たまった資料や取材ノートを整理しながら考えた。
全12試合を見ることができた日本代表では6月3日のオマーン戦(埼玉スタジアム)が印象的だった。堅守の相手を見事な攻撃で崩して3-0。この勝利がワールドカップ・アジア最終予選に決定的な勢いをつけた。
しかし日本サッカーの可能性を最も強く示唆した試合は、ロンドン五輪男子のスペイン戦ではなかったか。
大会前、関塚隆監督率いるU-23日本代表の評価は低かった。スペイン、モロッコ、ホンジュラスと組むD組を2位以内で突破する可能性は低いだろうという声が高かった。最大の懸念要素は守備の弱さだった。
だが徳永悠平と吉田麻也の「オーバーエージ」2人がはいるとDFラインは見違えるように安定した。そして迎えた初戦、優勝候補のスペインに対し、日本は前半34分にFW大津祐樹が挙げた得点で1-0の勝利を得た。自信を得た日本は44年ぶりのベスト4進出を果たす。
勝利のカギは守備だった。DFラインの安定はもちろんのことだが、この日スペインを圧倒したのは、前線からの容赦のないプレスだった。10人が休むことなく90分間走り、連係して相手を追い詰めた。そしてボールを奪うと才能を生かしたパス攻撃で相手ゴールに襲いかかった。3-0でも4-0でもおかしくない試合だった。
スペインはFIFAランキング1位。そのA代表選手を何人も並べた相手に対し引いて守るのではなく、果敢にボールを奪いにいった。相手の名声におびえずにそうした戦いを選択し、全員が全身全霊で貫いたことが勝利を呼び寄せた。
来年6月、ザッケローニ監督率いる日本代表はブラジルで開催されるFIFAコンフェデレーションズカップに臨む。初戦はブラジル、続いてイタリア、そしてメキシコと当たる厳しいグループだ。
現在の日本代表はアジア相手なら相手を圧倒する攻撃的な戦いができる。しかし世界の強豪が相手になるとそんな試合はさせてもらえない。10月のフランス戦、ブラジル戦で明らかだ。ヒントになるのがロンドン五輪のスペイン戦ではないか。
相手を恐れず、相手より多く走り、積極果敢にボールを奪いにいく―。そんな守備ができれば、現在の日本の攻撃力をフルに発揮できる。それは14年ワールドカップ・ブラジル大会での可能性を大きく広げるはずだ。
(2012年12月26日)
16日に行われたFIFAクラブワールドカップの決勝戦は久々に見応えのある試合だった。欧州勢との決勝戦では近年「守ってカウンター」という形だった南米代表が、互角の攻め合いをした末に勝利をつかんだ。
その決勝点を挙げたのが、コリンチャンス(ブラジル)のペルー人FWゲレロだったことはとても興味深かった。彼は準決勝でも唯一の得点を挙げ、この大会でチームが記録した2得点とも、その頭で叩き出した。
「国際選抜」のチェルシー(イングランド)に対し、コリンチャンスは大半がブラジル人。先発11人のうち実質的に唯一の外国人選手であるゲレロがコリンチャンスに世界チャンピオンの座をもたらしたことになる。
サッカーは得点数を争うゲーム。タイトル獲得には卓越したストライカーが必要だ。しかしトップクラスの試合でコンスタントに得点できるストライカーはどこにもいるというものではない。
欧州の9つのビッグリーグの今季の得点ランキングを見ると、多くのリーグで「外国人ストライカー」がリードしている。上位2人(1カ国だけ1位が3人なので上位3人)計19人の内訳は、リーグのある国の選手が5人と最も多いものの、残りの14人は外国人で、アルゼンチン人とコロンビア人が2人ずついるほか10人は別々の国籍となっている。
すなわちファーストクラスのストライカーは世界を見渡しても1カ国にひとりいるかいないかといった程度なのだ。だから必然的に「外国人」に頼らざるをえない。コリンチャンスも例外ではない。
本物のストライカーは計画的な「育成」というより、むしろ「発見」の対象に属する。何よりもカギになるのは、才能を見つけ出す目なのだ。
Jリーグが始まって20シーズン。今季の佐藤寿人(広島)で「日本人得点王」は6人(2人が2回獲得)となった。今季は得点ランキング上位3人に日本人選手が並び、「日本人ストライカー豊作の年」のように見える。だが日本代表の現状を見れば、20年間の経験でストライカーの才能を見抜く指導者が増えたかというと、まだまだの感が強い。
私は、天才的な「得点本能」をもつ少年は日本にも必ずいると思っている。欧州のトップリーグで得点王になり、所属クラブを世界チャンピオンに導くゴールを決める日本人選手をいつの日にか送り出すためにも、指導者たちの想像力あふれる努力に期待したい。
(2012年12月19日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。