「ファンのいないサッカーは無に等しい」
スタジアムの正面玄関前に設置された銅像の足元には、彼の言葉が彫られている。
ジョック・ステイン(1922~85)はスコットランド史上最高の名監督。セルティックを率いてリーグ9連覇を果たすなど、13シーズンで25ものタイトルを獲得。英国のチームとして初の欧州チャンピオンとなった。
炭鉱夫だった。ヒットラーが戦争を始めなければ、プロ選手にも監督にもなることはなかったかもしれない。週に5日は地の底で全身真っ黒になって働き、週末だけパートタイムプロとしてサッカーをプレーしていた。
当時の英国では炭鉱夫は兵役を免除されていた。プロ選手が次々と召集されていくと、プロクラブでポジションを得た。頑健な体のセンターバック。戦後、ウェールズの小さなクラブでようやくプロになったのは、28歳目前のときだった。
翌年、妻の希望でスコットランドに戻り、セルティックと契約。やがて主将となり「リーダーシップ」というそれまで隠されていた彼の最大の資質を示すようになる。そしてクラブに16年ぶりのリーグ王座をもたらす。
足首のケガにより34歳で引退、監督としてセルティックに戻って黄金時代を築いた後、78年にはスコットランド代表監督に就任。そしてスコットランド代表監督として死んだ。
1985年9月10日、スコットランドはワールドカップ予選最終戦をウェールズと戦った。アウェー、カーディフでの試合。立ち上がりの失点で苦しい試合となった。引き分ければプレーオフに進出、負ければ敗退だ。
後半15分、監督ステインはチーム随一のスターであるMFストラカンに代えてFWクーパーを送り込んだ。攻撃力強化はわかるが、影響力の大きなストラカンを外すことに多くの人が疑念を抱いた。
後半36分、相手のハンドでPKのチャンス。巨大な重圧のなか進み出たのはクーパーだった。その1点が、スコットランドを4大会連続のワールドカップ出場に導いた。
だが終了直前、ベンチで立ち上がったステインが苦しそうな表情を浮かべて倒れた。すぐに更衣室に運ばれ、ウェールズのチームドクターも飛んできて治療に当たったが、数分後、マッサージ用ベッドの上で息を引き取った。心臓麻痺だった。
「ファンのために命をかけて戦え」と選手たちに説き続けてきたステイン。その言葉どおりの死だったと、多くの人が思った。
(2012年8月29日)
記事のなかでときどき大げさな表現をしてしまい、そのたびに反省する。だが今回書くことは違う。
「ヤングなでしこのサッカーには、日本の未来がある―」
日曜日に開幕したU-20女子ワールドカップ。20歳以下の女子選手による世界大会だ。それに出場している日本代表「ヤングなでしこ」。吉田弘監督が率いるチームのサッカーがものすごいのだ。
現在の日本の代表クラスのサッカーは、男女の別や年代を問わず「パスワークとチームプレー」と表現することができると思う。
「日本のサッカーを日本化したい」とイビチャ・オシムが語ったのは2006年7月。その何十年も前から、「日本のサッカーとは...」という議論が行われてきたが、2010年ごろには、明確なイメージとして「日本のスタイル」を語ることができるようになったのではないか。
だが、パス、パス、パスのサッカーでは限界がある。そう考え始めていた矢先に見たのが、10年のU-17女子ワールドカップの日本代表だった。パスだけでなく、短いドリブルを多用し、それを実に効果的に使ったのだ。
パスを受けてスペースがあれば迷わずドリブルに移る。そして相手が引きつけられた瞬間に次のパスを送る。短いドリブルがはいることでパスの効果が飛躍的に大きくなる。10年のU-17日本女子代表は、そんなサッカーで世界大会準優勝を飾った。そのチームの選手を主体にしたのが今回のU-20なのだ。
そして開幕のメキシコ戦で、「ヤングなでしこ」たちは2年前よりさらに進化したサッカーを見せた。ポジションの別なく短いドリブルを織り込める能力はそのままに、スピードのある正確な縦パスという新しい武器を身に付けて攻撃の威力を倍加させたのだ。
「世界をリードするサッカーを見せたい」と語る吉田監督だが、このチームのサッカーはすでにあらゆる年代の男女日本代表が進むべき方向性を示している。日本のサッカーの「明日」は、間違いなくこの「ヤングなでしこ」のなかにある。
先週日曜のメキシコ戦(4-1の勝利)を見逃した人は、ぜひ今夜のニュージーランド戦(午後7時20分キックオフ)を見てほしい。そして機会があれば、大会中にスタジアムを訪れ、「日本のサッカーの未来像」を確認してほしい。
繰り返し言うが、これはけっして大げさな話ではない。
(2012年8月22日)
8月12日の朝、ロンドン在住のジャーナリスト原田公樹さんに誘われて西ロンドンの公園に行った。
ロンドン五輪最終日、都心は男子マラソンの観戦客でごった返していたが、住宅地の中の公園は犬を連れて散歩する人が2人、3人といるだけ。静かな日曜の朝だった。
三々五々集まってきたのは日本人のサッカー選手たち。この日はロンドン・ジャパニーズFC(通称ロンジャパ)の練習日。20人ほどになると、広大な芝生の一角にマーカーコーンでピッチをつくり紅白戦が始まった。
「ロンジャパ」は1983年創立、29年の歴史をもつ。日本サッカー協会の国際委員をしていた伊藤庸夫さんを中心にいろいろな会社の駐在員で結成された。現在ロンドンには日本人サッカークラブが7つほどあるというが、老舗クラブとして異彩を放っている。
昨年は、市内に住む外国人チームを集めた「インナーシティ・ワールドカップ」で銅メダルを獲得、「聖地」ウェンブリー・スタジアムで行われた東日本大震災の復興支援試合にも出場した。
現在の登録選手は35人。監督兼任の渋谷英秋さんの59歳を筆頭に16歳まで、年齢も職業も雑多だが、毎週日曜の午前中にきれいな芝生の上でサッカーをし、そのあとパブに繰り出してわいわいがやがやとやるのが大好きな人ばかりだ。
「活動の中心は親善試合で、年間40試合もこなしたことがありますが、練習もしたいので、いまは半々にしています」と、クラブ創設年からのメンバーで、92年から監督を務める渋谷さん。
「ロンドン市内にはこのように自由に使える公園がいくつもあります。僕らがここを練習場に選んだのは、都心の公園と比べると競争がほとんどなく、駐車にも困らないからです」という「北アクトン・プレーイングフィールズ」は、10万平方メートル近く、サッカーのピッチが優に8面は取れる広さがある。
「駐在員だと2、3年しかいない人が多いのですが、その代わりOBは29年間で1000人にもなり、世界中に散らばっています。同時期にここでプレーしていなくても、世界のあちこちでOB同士の交流が行われています。日本にはOBのチームもあるんですよ」
大都会ロンドンの豊かなスポーツ環境にため息をつきつつ、サッカーという競技が世代を超え、国境を超えて人びとを結び付ける力をもっていることを改めて感じた。
(2012年8月15日)
本紙夕刊『この道』の釜本邦茂さんのシリーズも、明日で最終回になるという。
私がサッカーの取材を始めたのは73年、釜本さんが29歳のとき。ひと言で表せば「怖い人」だった。
身長179センチ。威圧感があった。質問すると、大きな目をぎょろりと見開いてこちらを見据え、短く、明快な単語を並べた。若造記者に太刀打ちできる相手ではなかった。だが釜本さんを身近に知るジャーナリストの賀川浩さんは、「豪快そうに見えるが実際には非常に繊細」と語る。
『この道』の第53、54回(7月6日、7日付け)に、現役引退のころのことが書かれている。84年元日の天皇杯決勝戦で日産に敗れて決断したようにも読めるが、もう少し前だったようだ。
釜本さんは78年に34歳でヤンマーの選手兼監督に就任、80年には4回目の日本リーグ優勝に導いた。だが82年5月に右のアキレスけんを切り、83年11月に復帰したが思うようにプレーできなかった。
年末の天皇杯でヤンマーは奮闘し、6年ぶりに決勝戦進出。釜本さんはどの試合も後半途中から出場し、日本鋼管を1-0で下した準決勝では決勝点のアシストも記録した。
元日の国立競技場を現役最後の舞台に―。釜本さんの脳裏に、73年元日に三菱に優勝をもたらして引退した杉山隆一さんの姿が浮かんだかもしれない。
しかし相手は日本代表に5人も6人も送り出す新進気鋭の日産。ヤンマーは立ち上がりから守勢一方となった。釜本さんは後半立ち上がりからピッチに立ったが、後半に2点を奪われ、4回目の優勝はならなかった。
釜本さんが引退を発表したのはそれから1カ月半もたった2月13日のことだった。
「日産を気遣ってのことだったんだ」
意外な話を聞いたのは、何年も後だった。話してくれたのは、当時日産の監督だった加茂周さん(後に日本代表監督)である。
「決勝戦後に引退を発表したら、新聞記事はそれに集中してしまい、日産の初タイトルなど吹き飛んでしまう。それを考え、彼は何も話さずに国立競技場を後にしたんだ...」
実は、加茂さんは釜本さんの引退の意思を察し、決勝戦の試合中であっても、彼が交代で退出する場合には全員で並んで見送れと、試合前に日産の選手たちに話してあった。
そんな相手監督の気持ちにさりげなく応える武士のように繊細な心遣いこそ、「釜本邦茂の真実」だった。
(2012年7月18日)
ゴール判定装置の正式認可(7月5日)はことしのサッカー界の最大のニュースに違いない。一世紀半のサッカーの歴史のなかで、一部にせよ、初めて判定が機械に委ねられることになったからだ。
一方日本国内の話題は、2週間後に開幕するロンドン五輪の男女サッカーに集まっている。だが私は、試合結果さえ報道されないひとつの大会が気になっている。「U-22アジア選手権」の予選だ。
インドネシア、スマトラ島中央部のプカンバルに6チームを集めて行われている予選E組。日本はマカオに6-0、シンガポールに3-1と連勝でスタートを切った。
生まれたばかり、今回が第1回の大会である。2年ごとに開催され、偶数年に予選、奇数年に16チームによる決勝大会が行われる。より重要なのは、偶数回の大会が五輪予選を兼ねるということだ。
ロンドンまでの4大会、五輪のアジア最終予選は3グループに分けてホームアンドアウェーで行われてきた。しかし次回、16年リオデジャネイロ大会は、15年に行われる第2回U-22アジア選手権がそれにとって代わる。
いま予選が行われている第1回大会の年齢制限は、来年22歳だから91年以降生まれの選手。しかし日本は2歳年下の93年以降生まれ、すなわち「U-19」で出場している。
主力がJリーグで試合に出場している「U-21」年代の代表結成が難しいという事情がある。そこで11月のU-19アジア選手権(兼U-20ワールドカップ予選)への準備を進めていたU-19日本代表(吉田靖監督)を送り出すことにした。
しかし93年以降生まれは、第2回大会、すなわち次回のオリンピック予選の制限年齢でもある。現在のU-19がそのまま「リオ五輪候補」ということになる。ことしの2回にわたるアジア予選、来年のU-20ワールドカップ(トルコ)とU-22アジア選手権...。豊富な国際経験が、リオ五輪、さらにその後のワールドカップで活躍する選手を育てる。
マカオ戦で3点を叩き出したFW鈴木武蔵(新潟)は、ジャマイカ人を父にもつ大型選手。その鈴木が負傷で離脱したが、FW久保裕也(京都)が追加招集され、今後の試合で攻撃を牽引する。
予選は10日の東ティモール戦に続き、12日のインドネシア戦、15日のオーストラリア戦と、強豪との対戦が残る。「ロンドン」目前、早くも「リオ」への道を歩み出した若い世代に注目したい。
(2012年7月11日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。