ポーランドとウクライナで開催されていた欧州選手権がスペインの見事な連覇で終わるのを待っていたかのように、7月2日の午後、男女のロンドン・オリンピック代表メンバーが発表された。
「アテネ経由ドイツ行き」
オリンピックというと、反射的にこの言葉が思い浮かぶ。04年のアテネ大会で男子代表を率いた山本昌邦監督が、日々選手たちに掲げていたテーマだ。
オリンピックは原則として23歳以下の大会。けっして最終目標ではない。2年後のドイツ・ワールドカップで日本代表にはいって活躍するための通過点ととらえなければならない―。そんなメッセージだったのだろう。
残念ながら、「アテネ経由ドイツ行き」は「オーバーエージ」の選手を除くとDF茂庭照幸とDF駒野友一の2人だけだった。
ところが10年ワールドカップ南アフリカ大会では23人の日本代表中6人が「アテネ組」だった。4年遅れたがアテネでの苦闘(1勝2敗)はしっかりと選手たちの血となり、肉となっていたのだ。
続く08年の北京オリンピックで反町康治監督率いる日本男子は3戦全敗。世界との差をまざまざと見せつけられた。ところがこのチームから4人もの選手が2年後のワールドカップに出場し、なかでもMF本田圭佑は攻撃の中心となって2得点の大活躍を見せた。
そして大会後、日本代表にザッケローニ監督が就任すると、北京で涙を流した18人のうち13人もの選手が代表に名を連ねるようになる。オリンピック代表が6年後のワールドカップで主力になるという図式が、どうやら定着しつつあるようだ。
今回のオリンピックでも、男子は苦戦を予想されている。スペイン、ホンジュラス、モロッコとの戦いを勝ち抜いて準々決勝に進めると予想する人はけっして多くはない。
徳永悠平と吉田麻也という2人の「オーバーエージ」効果で守備強化に成功すれば、上位進出は十分可能と私は考えている。しかし若い選手たちにとってより大事なのは、オリンピックでの結果より「その後」であることに変わりはない。今回18人の枠から落とされた選手も同じだ。
このオリンピックが若い選手たちにどんな試練を与え、どう成長させ、そして2年後、6年後のワールドカップで彼らがどのように中心選手となっていくか―。それを想像しながら見るのも、楽しみ方のひとつではないだろうか。
(2012年7月4日)
香川真司のマンチェスター・ユナイテッド(イングランド・プレミアリーグ)への移籍が正式決定した。移籍金約17億円、年俸約3億7000万円と伝えられている。
プレミアリーグは現在世界で最も「成功」しているリーグだ。英国の調査会社によれば昨年のリーグ総売り上げは欧州でも他の追随を許さない約2500億円。1クラブ平均125億円は、Jリーグ(J1で平均約30億円)の4倍強という数字だ。その筆頭がユナイテッドであり、昨季は約367億円の売り上げを記録した。
その財力を背景に、現在のプレミアには世界中のスター選手が集まる。かつてはイタリアのセリエAが世界をリードしていたが、いまや「サッカー世界の首都はプレミア」と言っても過言ではない。そのスターたちが繰り広げる華やかなショーは世界中でテレビ放映され、それがまたプレミアにカネを集める。
だが英国のノンフィクション作家R・ハバーズはこう書く。「もはやサッカーはサッカーではない」(ヘインズ社刊『サッカーがサッカーだったとき』)
「いまやプレミアリーグのサッカーは勝利至上のビジネスであり、すばらしい技術よりも身体能力とスピードが重視される競技となってしまった」
スタジアムはわずか20年ほど前と比較すると見違えるばかりに美しくなった。だがスタンドの大きな部分を占めるのはスポンサーのための特別席。かつて試合に生命感を与えていたサポーターたち、労働者階級や若者たちは、高騰した入場料に悲鳴を上げ、スタジアムから足が遠のいた。
自宅にいても毎週末にはビッグクラブの試合を楽しむことができる。一方クラブにはテレビとスポンサーから夢のようなカネが流れ込む。だがこの20年間で大きなものが失われたとハバーズは嘆く。
華やかさの陰で大事なものが壊れつつあるイングランドのサッカー。香川真司という選手がその流れを引き戻すひと役を買えるのではないかと、私は密かに期待している。
香川はドイツの中堅クラブをほとんど一夜で王者に変えた。香川がからむことでボルシア・ドルトムントの攻撃は生命が吹き込まれた。その特別な才能はユナイテッドでも発揮されるに違いない。
得点やタイトルにとどまらず、プレミアリーグに新しい喜びを創造し、「サッカーをサッカーに戻す」―。大げさでなく、香川にはそんな使命があるように思えてならない。
(2012年6月27日)
ポーランドとウクライナで行われている欧州選手権(EURO)は早くも1次リーグが終わり、明日(日本時間明後日未明)から準々決勝が始まる。
この大会を見た人なら、奇妙な人がゴールの横に立っていることに気づいただろう。「追加副審」と呼ばれる実験中の審判員だ。
ゴールかゴールでないか、微妙なケースの判定に、国際サッカー連盟は科学技術を導入しようとテストを急いでいる。一方欧州サッカー連盟は、あくまで人間の目で判定を下すべきと、追加副審の導入を主張してきた。
08年にテスト導入が許可され、実験が行われてきた。UEFAチャンピオンズリーグで見たことがある人もいるかもしれない。今回の欧州選手権は、その「最終テスト」と位置付けられている。
追加副審はゴールの右横に立ち、ボールが近づくとゴールラインをまたぐように立って判定を下す。笛もない旗もない。頼りは他の審判員との間をつなぐ無線通話システムだ。
だが大歓声のなか聞こえないこともある。そこでこれまでも副審から主審に注意をうながすときに使われてきたシグナルビップという装置ももっている。追加副審は捕物の「十手」のようなものを手にしてるが、まさにそれがシグナルビップのスイッチがついた「旗のない旗棒」なのだ。
ゴール判定だけではない。追加副審にはペナルティーエリア内の反則も監視できるという大きな利点がある。CK時にゴール前で守備側が相手をつかんだり、逆に攻撃側が相手を押すなどの行為を主審1人で判定するのは不可能に近い。主審とはさみこむようにプレーを見る追加副審の存在により、反則自体も減っているという。
08年に追加副審を使う審判法の実験が始まったころには混乱もあった。だが試行錯誤を経て4シーズン。熟成が感じられた。
今大会では12人の主審が任命され、それぞれに副審2人、追加副審2人、そしてバックアップの副審1人の同国人審判員5人がついてチームを構成している。これに第4審判が加わり、計7人でひとつの試合を担当するという方式だ。
追加副審24人は全員が国際主審だ。走力より判断力が重要な追加副審。現在の国際審判員の定年(45歳)を追加副審に限って5歳引き上げるような措置をとれば、予想される審判員不足にも対応できるのではないか。
欧州選手権の残り7試合、優勝の行方とともに、追加副審の働きにも注目したい。
(2012年6月20日)
ワールドカップ予選ヨルダン戦の取材を終えて帰宅すると、欧州選手権(EURO)の開幕戦が始まっていた。これから毎日深夜に2試合ずつ。サッカーファンは忙しい。
ワールドカップとオリンピック大会に次ぐ「世界で3番目に大きなスポーツ大会」と言われる欧州選手権決勝大会。欧州サッカー連盟(UEFA)加盟の53協会による選手権で、16チームで争われている。第14回の今大会。ポーランドとウクライナの共同開催だ。
だが巨大化したのは過去16年間のこと。それまでは小さな大会だった。92年にスウェーデンで行われた大会は、UEFA自身が「小さいことは美しい」のスローガンを掲げていたほどだったのだ。
当時ワールドカップは24チームで行われ、98年には32チームになるという時期だった。しかし欧州選手権の決勝大会はわずか8チーム。それどころか、76年の第5回大会までは4チームが集まり、準決勝2試合と、3決・決勝の計4試合を行うだけ、わずか5日間の大会だったのだ。
60年の第1回大会では優勝候補のスペインが準々決勝で棄権するという事件もあった。当時のスペインはフランコの独裁時代。フランコはサッカーファンでもあったが、ホームアンドアウェー制の準々決勝の組み合わせが決まって相手がソ連とわかると、対戦を禁止してしまったのだ。
フランスでの決勝大会に進出したソ連は、準決勝でチェコスロバキアに3-0で快勝。決勝戦はユーゴスラビアとの延長を2-1で制して初代欧州王者となった。
本当に小さな大会だった欧州選手権が、小さいながらも欧州全体のサッカーの祭典となったのが80年の第6回イタリア大会。8チームが出場して「ミニワールドカップ」のような大会となった。それが96年の第10回イングランド大会から出場16チームに倍増した。さらに次回、16年の第15回フランス大会では24チームの大会となる。
90年代初頭の東ヨーロッパ諸国の分裂を経て、それまで加盟34協会だったUEFAは短期間のうちに53協会にまで増えた。大会の巨大化はそれに対応するものだが、同時に、より収益性の高い大会をめざすUEFAの意思の表れでもある。
2年後のワールドカップを占う大会とも言われる欧州選手権。スペインの連覇なるか、急成長のドイツがストップをかけるのか―。7月1日の決勝戦まで、目を離せない戦いが続く。
(2012年6月13日)
6月にはいってからときどき、思いだし笑いが出て困っている。浮かんでくるのは、10年前の日々だ。
ワールドカップのアジア最終予選初戦で日本代表がオマーンに快勝した翌6月4日は、2002年ワールドカップ日韓大会の日本対ベルギーからちょうど10年目だった。
前日に蔚山(ウルサン)でブラジル対トルコを取材し、この日の昼すぎに成田に戻ってそのまま埼玉スタジアムに直行した。
スタジアムは「ジャパン・ブルー」一色に染まり、圧倒的な声援のなかで日本は勇敢な戦いを見せた。そして鈴木隆行(現在水戸)と稲本潤一(同川崎)のゴールで2-2の引き分けに持ち込んだ。ワールドカップで初めての勝ち点だった。
翌5日には日帰りで神戸に行き、日本と同じグループのロシア対チュニジアを取材、6日には埼玉でカメルーン対サウジアラビアを見た。そして翌日は札幌に飛び、1次リーグ最大の注目カード、アルゼンチン対イングランドだった。
5月31日にソウルで開幕してから6月30日横浜での決勝戦まで、1カ月間はまさに夢のように過ぎていった。日本がトルコに敗れた夜は悔しくて眠れなかったが、準々決勝でブラジルとイングランドの熱戦を目の当たりにして元気づけられる思いがした。
私のように仕事で大会を追っていた者だけではない。文字どおり日本中が青いユニホームに身を包んで声援を送り、稲本の決勝点に熱狂した。あの1カ月間を通じて、日本中の多くの人がサッカーを楽しみ、見知らぬ人びとと一体感を共有する喜びを知った。
だが「ワールドカップ地元開催」がもたらしたのは、日本代表への国民的な声援だけではなかったはずだ。
日本が敗退した後にもスタジアムを満員に埋め、素晴らしい雰囲気で大会を盛り上げた人びと。そして何よりも、言葉など通じなくても思いやりの心と笑顔で接することによって世界のどんな国の人とでも交流ができることを示した人びと。ワールドカップを理屈抜きに楽しいお祭りにしたのは、そうした人びとの存在だった。
以後のワールドカップの開催国が、私たち日本が韓国とともに世界に示した2002年大会をホスピタリティーの手本にしていることをご存じだろうか。
サッカーだけでなく日本社会に貴重な遺産を残した2002年ワールドカップ。同時に世界にも大きなものを残したことが、いまになってよくわかる。
(2012年6月6日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。