レアル・マドリードがアウェーでバルセロナを下し、4年ぶりのスペインリーグ優勝に向け大きく前進した試合(21日)で、印象的なシーンがあった。
後半25分、1点をリードされたバルセロナが攻め込んだ。メッシがドリブルでペナルティーエリアに迫る。必死に立ちふさがるレアル。3人に囲まれ、強烈な体当たりを食らわされて倒れるメッシ。完全なファウルだ。しかしボールは左にこぼれ、そこからパスがつながってシュート。リバウンドを拾って二次攻撃をかけたバルセロナが待望の同点ゴールを決める。
ウンディアーノ主審による見事な「アドバンテージ」の適用。一瞬の好判断が、試合を見事に引き締めた。
反則があってもプレーを止めないほうが反則をされたチームに利益があると判断したときに適用するアドバンテージは、古くからある審判技術だ。ところが日本の審判はなかなかこの技術に習熟できない。反則があると反射的に笛を吹いて試合を止めてしまうのだ。Jリーグでさえ、たびたびそうしたシーンに出合う。
先週末にテレビで見たある試合では、反則のたびに笛が吹かれ、試合が止められた。審判に合わせるように、選手たちも反則されるとすぐに倒れてアピールした。その結果、サッカーの魅力の重大な一部であるタフさなどかけらもなく、非常にソフトな印象の試合になってしまった。
アドバンテージをとったのに結果として反則された側が有利にならなかったときに元の反則を罰する「ロールバック」が認められた96年以降、アドバンテージ適用の判断は容易になったはずだ。だが日本では明らかに改善が遅れている。
反則を見極めようという意識が強すぎるのではないか。反則に意識が集中するあまり、より重要な「反則の結果」を見ることを忘れてしまうのだ。反則した側が有利になったのなら笛で止めなければならない。しかし反則を受けた側がそれでも攻撃を続けようとしているときに止めたら、逆に反則した側を利する結果となる。
反則だけで笛を吹かなければならないのは、レッドカードに値する重大な違反のときだけだ。そのときにも、反則の直後に得点の機会があるときにはアドバンテージを取らなければならない。
スムーズなアドバンテージの適用は、試合に魅力を与えるだけでなく、選手をタフにする。日本サッカーの重要な課題のひとつだ。
(2012年4月25日)
日本代表MF香川真司が所属するボルシア・ドルトムントのドイツ・ブンデスリーガ連覇が決定的となった。
先週、2位バイエルン・ミュンヘン、3位シャルケ04という強豪との連戦をともに1点差で勝ち、2位との勝ち点差を一挙に8に広げた。残り3試合。ひとつ勝てば2季連続5回目の優勝だ。
もちろん選手の多くはいずれかの国の代表選手。だが世界的名手がいるわけではない。若い監督が若い選手の才能を見抜き、手抜きなしの集団的なプレーを徹底した結果だ。
チームのバックボーンは地元の熱烈な支援だ。ドイツ最大の収容数を誇るホームスタジアムは常に満員。今季ホーム15試合の平均観客数8万0495は実に収容数8万0720の99.7パーセント(!)。欧州で平均観客数がドルトムントを上回るのはスペインのバルセロナ(9万9354人収容で平均8万2015人)ただひとつだ。
ひとりでシーズン40得点もたたき出すメッシ(バルセロナ)やクリスティアノロナルド(レアル・マドリード)はいない。だがドルトムントは昨年9月24日のマインツ戦以来25戦負けなしという大記録をつくった。
前へ前へとボールを運び、チャンスになると相手ペナルティーエリアに4人も5人もはいっているという攻撃が、このチームの最大の魅力であることに異論はない。その攻撃がはまって4点以上取ったことが7試合もある。しかし同時に、1点差の勝利が8試合という勝負強さも見せる。宿敵バイエルンとの2戦は、いずれも1-0の勝利だった。
先週末のシャルケ戦は、立ち上がりに失点を喫し、相手の猛プレスになかなか思うような攻撃ができなかったが、セットプレーを生かして2-1で逆転勝利。苦戦はしても、勝利はつかんだ。
猛烈な運動量をベースにした全員攻撃全員守備。ユルゲン・クロップ監督(44)は、その力感あふれる動きのなかに、ひとり異質な香川を置く。彼の絶妙なポジショニング、前を向く素早さが、ドルトムントの攻撃に秩序をもたらし、「得点」という目的に向けてまとめ上げるからだ。
昨年はけがでシーズン前半だけの活躍にとどまった香川。だが今季は31試合中27試合に先発し、シーズンを通じて攻撃を牽引した。
奥寺康彦(ケルン78年)、長谷部誠(ヴォルフスブルク09年)に次ぎ、日本人のブンデスリーガ優勝は3人目。そしてことし、香川は日本人で初めての「連覇」を経験する。
(2012年4月18日)
4月11日はサッカー史に残る記録が生まれた記念日だ。11年前、2001年のこの日、オーストラリア代表が米領サモアを相手に31-0という国際試合の得点記録を樹立した。
オーストラリア東部のコフハーバーに5チームを集めて行われたワールドカップのオセアニア1次予選。地元オーストラリアは大会2日目に登場、トンガを22-0で下した。前年にクウェートがブータンを下した20-0を抜く国際試合の世界記録。そして2戦目の対戦相手が米領サモアだった。すでにフィジーに0-13、サモアに0-8と連敗している相手に対し、オーストラリアは若手でチームを組んだ。
米領サモアは大きな困難に直面していた。登録20選手のうちなんと19人に代表資格がないことが判明、急きょ代わりを呼ばなければならなかったのだ。
だが大学の試験期間と重なってU-20代表選手は招集できず、追加はわずか15人、大半が高校生。平均年齢は18歳だった。選手の多くは45分ハーフの試合を経験したことさえなかった。人口約7万の米領サモア。登録選手はユースを入れても2000人だった。
しかも中1日で3試合目。疲労に加え前の試合で故障者も出て、オーストラリア戦には控えのGKをMFとして出さなければならない状況だった。
それでも序盤は粘った。本来の代表からただひとり残っていたGKのサラプが好セーブを連発した。だが前半10分に先制点を許すと、あとは次々とゴールを割られ、前半だけで16点。後半にも15点を取られて31-0。「世界記録更新」の餌食となってしまった。オーストラリアFWトンプソンの13得点も「世界新」だった。あまりのゴールラッシュに記録員も混乱した。スコアボードには「32-0」の数字が並んでいた。
終了の笛が鳴ったとき、3000人の観客もオーストラリアの選手たちも一様にほっとした表情を浮かべた。歓喜はなかった(この大勝が、オーストラリアの「アジア移籍」のきっかけとなる)。
しかし歴史に残る大敗を喫した米領サモアの選手たちは対照的だった。彼らは堂々と胸を張り、レフェリーに、そしてオーストラリアの選手たちに笑顔で握手を求めた。
「恥だなんて思わない。私たちはこの試合から多くのものを学んだんだ」とキャプテンのサラプは語った。
記録に残るのは90分間で31得点という数字だけ。しかしその背景には、数字では語り尽くせない物語がある。
(2012年4月11日)
日本のコーナーキック(CK)は遅い。
大ざっぱな話だが、欧州の主要リーグではボールが出てから平均20秒でCKがけられるが、Jリーグでは平均30秒かかる。攻撃側が時間をかけることが最大の原因だが、守備側の「マツーマン守備」にも一因がある。
守備側は相手選手をひとりずつ厳しくマークする。動き出しに遅れないよう、相手を両手でかかえ込む選手までいる。それを見た主審が笛を吹いて注意を与える。そんなことで10秒も余計にかかってしまうのだ。
だがマンツーマンだけがCKの守り方ではない。それぞれの選手が地域を担当する「ゾーン」の守備もある。
守備側はボールがけられるコーナーに近いゴールポスト(ニアポスト)前に1人、ゴールエリアの角に1人、ゴールエリアのライン上に3人など、「危険地域」にバランス良く選手を配置する。そしてけり入れられるボールの落下地域を担当する選手が責任をもってはね返す。
日本代表が2月に大阪で対戦したアイスランドは、極端なゾーン守備だった。日本のCKに対し、通常は3、4人で対応するゴールエリアのライン上に6人が並び、まるで人壁のようだったのだ。この試合、日本は8本のCKを得たが、シュートに結び付けられたのは1本だけ。得点にはつながらなかった。
「ゾーンだとボールに集中できる」
ラーゲルベック監督はそう説明した。
マンツーマンでも1人か2人は重要なポイントをゾーンで担当するのが普通。ゾーンでも相手に特別ヘディングが強い選手がいればその選手にだけマークをつけることもある。だが実際には両者の違いは歴然。ゾーンだと引っ張り合いや押し合いがなく、非常にクリーンなのだ。必然的に主審の介入もなく、試合運びも速くなる。
欧州ではCKをゾーンで守るチームが増えてきた。マンツーマンが圧倒的だったJリーグでも少しずつ出てきた。柏や名古屋だ。だが多数派はまだマンツーマン。つかみ合いの醜い争いこそ減ったが、攻撃側の動きが巧妙になった分、ゴール前の混乱はひどい。
ゾーンにして失点が増えるわけではない。昨年のJリーグの優勝と準優勝チームが採用していることでも明らかだ。それならば、無益な争いのないゾーンのほうが、選手の精神衛生上も好ましいのではないか。マンツーマンに凝り固まっていないで、いちど試したらどうだろうか。
1990年ワールドカップ ブラジル対コスタリカ(トリノ)
(2012年4月4日)
オリンピックを4カ月後に控えたロンドンは、今週、穏やかな晴天が続きそうだ。しかし46年前、ワールドカップ開幕まで3カ月半となった66年3月の下旬は、どんよりと曇り、ときおり雨が降る憂うつな日々だった。
そんなある日、この年のワールドカップ開催国であるイングランド中を揺るがす大事件が起きた。ロンドン市内で一般公開されていたワールドカップが、こつぜんと姿を消したのだ。「ジュール・リメ杯」と呼ばれた初代の優勝カップは、都心で開催中の切手展の中央に展示されていた。
ロンドン警視庁は百人もの捜査員を動員したが手がかりはなく、殺到する怪情報に踊らされる始末。「身代金1万5000ポンド(当時のレートで1512万円)」を要求してきた男を逮捕したが悪ふざけと判明した。
事件が急展開を見せたのは盗難から1週間後、3月27日の夜だった。南ロンドンの住宅地に住む26歳の男が、「カップを見つけたぞ!」と、警察署に駆け込んできたのだ。
デビッド・コルベットは、この夕刻、街角の電話で弟に連絡を取ろうと、上着をはおり、部屋履きのまま家を出た。そしてついでに愛犬ピクルスを散歩させようと外に出した。コリーの雑種で、白黒のぶち犬。だが引き綱をつけようとしたとたんに走りだした。
「ピック!」
大声で呼んだが向かいの家の前に停めた車の下にはいって出てこない。のぞき込むと、ピクルスは何か紙包みを見つけ、においをかいでいる。拾い寄せるとずっしりと重い。新聞紙でくるみ、厳重にひもで縛ってある。
「爆弾ではないか」一瞬そう思った。当時IRA(アイルランドの武装組織)のテロが頻発していたのだ。勇気と力を振り絞って包みをこじ開けた。出てきたのは、羽を広げた女神が八角形のカップを頭上に掲げた黄金のトロフィーだった。
「カップなしのワールドカップ」は回避され、そのカップは初優勝を飾ったイングランドの手に落ちた。
今回は大きな事件もなく、オリンピックに向け、予定に従って粛々と準備が進められているようだ。だが1匹の犬を主人公にしたドタバタ喜劇のような、人間味あふれるエピソードも、もうない。
殊勲のピクルスは一躍スターとなったが、翌67年、不運な事故で6年の「犬生」を終えた。5月にマンチェスターで再オープンする「英国サッカー博物館」の展示には、ピクルスがつけていた革の首輪もあるはずだ。
(2012年3月28日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。