サッカーの話をしよう

No.866 FIFAバロンドール

 9日(日本時間10日未明)にスイスのチューリヒで行われた国際サッカー連盟(FIFA)の年間表彰式(バロンドール)で、女子日本代表(なでしこジャパン)の澤穂希主将が女子世界最優秀選手に、佐々木則夫監督が女子チーム世界最優秀監督に、そして日本サッカー協会がフェアプレー賞に選出された。
 フェアプレー賞は02年にも受賞した。ただし協会ではなく「サッカーコミュニティー」として、ワールドカップのホスト役を果たした韓国との共同受賞だった。今回は東日本大震災のなかで示された日本協会のリーダーシップが評価された。
 「団結すること、一丸になることで何が達成できるか、そしてサッカーが国の希望を高め、勇気を与えることを示してくれた」
 プレゼンターのクリスチャン・カランブー氏(フランス)の言葉が、この賞だけでなく、3つの賞のすべてを言い表していた。
 澤選手の受賞は本当にすばらしい。彼女自身の言葉のとおり、これまで別世界だった「世界の頂点」を身近にし、日本の選手でも世界最優秀選手になれるという大きな夢を、日本の少年少女たちに与えたに違いない。
 サッカーはあくまでチーム競技。どんな天才でもひとりでは試合をすることさえできない。その競技に「年間最優秀選手」の表彰が生まれたのは1948年のイングランド。初代受賞者はスタンリー・マシューズだった。
 「サッカーの魔術師」と呼ばれた天才も、33歳のこの年まで優勝とは無縁だった。選手生活の最も充実した時期であるはずの20代後半を戦火のなかで過ごさざるを得なかった彼の功績を少しでも将来に残そうと、サッカー記者たちが発案したのがこの賞だった。
 これにならってフランスのサッカー誌が「欧州年間最優秀選手賞」を創設したのは8年後の56年。こちらも初代受賞者はマシューズ。41歳を迎えてなお彼はイングランド代表のエースだった(彼は50歳までプロでプレーした)。このフランス誌の表彰が、「バロンドール(黄金のボール賞)」の祖である。
 チーム競技であるサッカーの個人表彰は、人間味ある意味が付与されたとき、勝敗を超えた何かを人びとに考えさせる。大災害の被災者たちの勇敢な姿勢に励まされ、世界チャンピオンとなって被災地のみならず日本中に勇気を返したなでしこジャパン。そのシンボルである澤選手と佐々木監督の受賞は、本当に意義深いと感じた。
 
(2012年1月11日)

No.865 J2の年

 「J2の年」―。
 元日の天皇杯決勝、京都サンガ対FC東京を見ながら思った。
 Jリーグ時代になる以前に、日本リーグ2部チームの天皇杯優勝はあった。しかし2部同士の決勝戦は初めて。しかも、東京は昨年のJ2で優勝してことしはでJ1で戦うが、京都は後半の猛追むなしく7位だった。
 だが国立競技場4万1974人の大観衆の前で展開されたのは、間違いなく日本のトップクラスと言ってよいサッカーだった。
 この試合のパフォーマンスができれば、東京がことしのJ1で上位進出しても不思議はない。そして京都のショートパスをつなぐ独自のスタイルのサッカーは、J1上位(5位)の横浜を下した準決勝に続き、この決勝戦でもたびたび感嘆の声を上げさせた。
 1998年に18クラブだったJリーグに一挙に8クラブを加盟させ、99年に1部(J1)16クラブ、2部(J2)10クラブという形でスタートした「2部制」。「水増しでレベル低下」と懸念する声もあった。経営不振のクラブも続出した。
 しかし13シーズンの間に内容を充実させつつ徐々にクラブ数を増やし、ことしのJ2はついに「上限」の22クラブで新シーズンを迎える。年末には、史上初の「Jリーグからの降格」が生まれる可能性もある。
 シーズン後には、J1昇格をかけた「プレーオフ」も初めて行われる。1、2位は自動昇格だが、3位から6位の4クラブが「最後の1座」を争うのだ。
 昨年、J2から昇格して1年目でJ1優勝という快挙を成し遂げた柏レイソルが、J2の充実を象徴している。ことしの東京に同じことができないと誰が言えるだろうか。
 4年ぶりにJ1に復帰するコンサドーレ札幌の奮闘も期待される。わずか7年前のクラブ存亡の危機から初昇格を果たしたサガン鳥栖も、「無名軍団」ながら、運動量を生かした激しい攻守でJ1をかき回すだろう。
 3月4日に開幕し、11月11日まで続く12年シーズンのJ2。ことしは、全42節のうち31節を日曜日に開催する。原則としてJ1が土曜日、J2が日曜日と、明確に開催日を分けたからだ。土曜日はJ1の9試合、日曜日にはJ2の11試合が全国で繰り広げられ、J2への注目はさらに高まるに違いない。
 新時代を迎えたJ2。その充実は過去10年間の日本サッカーの成長を象徴している。
 
(2012年1月4日)

No.864 4つのスピード(ハンス・オフト)

 ハンス・オフト氏(64)が初めて日本のサッカーと出合ったのは、79年、31歳のときだった。オランダサッカー協会の育成コーチとして、短時間、欧州遠征にきた日本の高校選抜を指導したのだ。
 日本選手の第一印象は「ナイーブ(幼稚)」。すばしっこいが、同時に現代のサッカーに必要なスピードの要素がいくつも欠けていた。その結果、試合のなかで際限なくミスを犯していた。そのイメージは82年に初めて日本のクラブチームを指導したときも、そして92年に日本代表チームの監督に就任したときも変わらなかった。
 日本のプロサッカー(Jリーグ)が実質的にスタートしたのが92年。来年はそれからちょうど20年となる。その10年以上前から日本人を指導してきたオフト氏の目には、日本のサッカーの「進歩」はどう映っているのか、12月上旬、来日中だった同氏に話を聞いた。
 「サッカーで必要とされるスピードには4つの要素がある」と、オフト氏は説明する。
 「走る速さ」「ボール扱いの速さ」「考える速さ」そして「決断の速さ」だ。プロ化前の日本のサッカーは、強いハートと走る速さはあったが、残りの3要素が欠けていた。だから日本代表でも基礎的な練習から始めなければならなかった。
 わずか3、4メートルの距離でも、相手の動きやそのスピードに合わせるには、タイミングもコースも強さも完ぺきなパスでなければならない。当時の日本人選手に欠けていた3要素が必要だった。できなかったから、反発を買いながらも反復して基礎練習を行った。
 考え、決断する速さを上げるために、選手同士の「アイコンタクト」も繰り返し要求した。目と目を合わせ、言葉を使わずにコミュニケーションを取る重要な方法だ。
 92年、前年とほとんど選手が変わっていないのに日本代表が急激に勝てるようになったのは、オフト氏の指導によって「総合的なスピード」という現代サッカーの重要な要素が向上した結果だった。
 「その後、Jリーグに優秀な選手がきてボール扱いの速さや判断の速さを学び、日本人選手のレベルは飛躍的に上がった」とオフト氏。と同時に、「世界に追いつくには、まだすべての面で改善が必要」と力説した。
 クラブワールドカップでバルセロナMFシャビのプレーを見ながら、オフト氏の言葉がよみがえった。プロ化20年を前に、さらなる努力を強くうながされた思いがした。


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(2011年12月28日)

No.863 宇宙人バルセロナを目指せ

 「バルセロナは宇宙人だと思いますか」
 18日に行われたFIFAクラブワールドカップ(FCWC)決勝戦。試合後の記者会見で、ある仲間の記者は完敗を喫したサントスの監督にこう質問しようと思ったという。
 それほどまでにバルセロナは別格、異次元の存在だった。シャビ、イニエスタ、メッシといった選手たちがテンポよく短いパスを回す様子は、サッカーの概念さえ変えかねないものだった。
 サッカーは「ミスのゲーム」である。
 どんな選手でもミスをするからプレスをかける意味がある。ところがバルセロナはそのミスが出る確率が非常に低い。サッカーではなくハンドボールを見ているようだった。
 「宇宙人と思うか」と聞こうとした友人の気持ちはよくわかる。40年ほど前、テレビで初めてブラジルのサッカーを見た私たち日本人のショックもまったく同じだったからだ。
 「これが同じ人間のすることか」―。
 70年ワールドカップで全勝優勝を飾ったブラジルは、ペレ、トスタン、リベリーノ、ジェルソン、ジャイルジーニョと、この国のサッカー史のなかでも最高の名手を並べていた。そして彼らが「ジョゴ・ボニート(美しいゲーム)」と呼んだサッカーが生まれた。
 東京オリンピックを契機にサッカーという競技がようやく知られ始めたころ、一部の地域を除き、日本のサッカーはやみくもに前にけって走るという時代だった。「ドリブル」とは小さくけりながら前に進むこと。フェイントも何もなかった。
 だがそんな時代に、「日本の子どもたちにも、ペレのような技術をつけさせたい」と指導を始めた人が全国各地にいた。世界のサッカーの情報においては「鎖国」時代と大差がなかったころ。彼らは創意工夫して練習方法を考え、子どもたちを導いた。当時からすれば「宇宙人」のようだったブラジルをまじめに目指した指導者たちの情熱こそ、間違いなく、現在の日本サッカーの礎だった。
 そしていま、新たな目標はバルセロナだ。シャビ、イニエスタであり、メッシだ。
 絶対に不可能ではない。40年も必要としない。70年代はじめ、日本にはサッカーボールが1万個程度しかなかっただろう。いまは数百万個ある。施設も、何よりサッカーに情熱を傾ける子どもたちの数も激増した。必要なのは指導者自身の夢と情熱、そして氾濫する情報に惑わされない創意工夫に違いない。
 
(2011年12月21日)

No.862 勝つサッカー

 日本で開催されているFIFAクラブワールドカップ(FCWC)、今夜の準決勝で柏レイソルが強豪サントス(ブラジル)に挑戦する。1回戦はオークランド(ニュージーランド)に2-0で快勝、準々決勝ではモンテレイ(メキシコ)に1-1からPK戦4-3で競り勝った。
 この1年間の柏の躍進には目を見張るばかりだ。J1昇格1年目ながら開幕から首位を快走。3回首位から落ちたが3回取り戻し、10月から守り通した。
 34戦して23勝3分け8敗。注目すべきは、負けや引き分けの直後の試合をすべて勝ったことだ。連続して勝ち点を落としたことが、シーズンを通じていちどもなかった。
 「論理的な結果」と、ネルシーニョ監督(61)なら言うだろう。「勝てるチーム」こそ、彼が目指したものだったからだ。
 近年、日本では「良いサッカー」が多くの指導者のテーマになっている。「人とボールが動くサッカー」と表現されることも多い。選手同士が連係して動き、どんどんパスが回って攻撃を展開するサッカー。そうしたプレーが日本人に適しており、勝利への道と信じられているからだ。
 「負けたが、うちのほうが良いサッカーをしていた」。試合後そう語る監督までいる。
 だがブラジル人のネルシーニョにはそんな目標はない。彼は「勝つ」ことを唯一のテーマとする。そしてポジショニング、運動量、パスの精度など、勝つための「スタンダード(標準)」を具体的に示し、それを実現することを要求する。
 試合では、しっかりと守備をすること、すなわち相手に得点を与えないことからスタートする。プレーがあらゆる面で「スタンダード」に達したら、思い切って攻勢に転じる。
 結果として、ことしの柏は「良い」どころか、すばらしいサッカーを見せて優勝した。故障しにくいコンディションをつくったメディカル面の充実、チーム内競争の激化など、勝因はいくつもある。だが根本的には、「勝つ」ためのチームづくり、選手づくりに徹したことではないか。
 そして海外の強豪を相手にしたFCWCでこそ、柏の本当の強さが表れた。準々決勝ではキックオフから30分間は劣勢に立たされたが全員で必死に守り、そこから反撃に転じて先制点を挙げた。
 「勝利」という唯一の目的の下に結束し、選手個々の良さを有機的に結び付け、効果的に使いきる柏に、考えさせられる点は多い。
 
(2011年12月14日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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