先週水曜日に国立競技場で行われた女子のクラブ国際試合、INAC神戸対アーセナル(イングランド)は立派なゲームだった。
ともに攻撃的なプレーでスタンドを沸かせ続け、女子のサッカーが「見るスポーツ」として十分成り立つことを証明した。観客1万1005人。収入は東日本大震災の復興支援に回されるという。
アーセナル・レディースは1987年創立。イングランドの女子サッカーをリードする存在だが、この国の女子が欧州の強豪となったのはここ10年間ほどのこと。発展が遅れたのは「暗黒の半世紀」とでも呼ぶべき時代があったせいだ。
いまから91年前、1920年の12月26日、リバプールで行われた女子サッカーの試合に5万3000人もの観客が集まった。試合の目的は終わったばかりの第一次世界大戦の犠牲者への支援金集め。今日の金額にして実に5000万円を寄付することができた。
1914年に大戦が勃発。戦場に出た男性に代わって女性が工場労働を担うようになった。昼休みの楽しみとしてサッカーが始まり、やがて各地にチームができて活発な交流試合が行われるようになるとたちまち人気が出て、スターも生まれた。当然アマチュアで、試合はチャリティーのために行われた。
一部の人びとにとっての「問題」は、戦争が終わって男たちのプロサッカーが再開しても、女子サッカーの人気がいっこうに衰えないことだった。男子プロクラブを運営する役員たちは危機感を募らせ、卑劣で陰湿ないやがらせを始める。
寄付に回す金額が不明朗といううわさを流す。医師を雇って「女子サッカー選手は子どもを産めない」などという根拠のないレポートを発表させる...。
そして21年12月、イングランドサッカー協会は女子チームにグラウンドを使わせてはならないという通達を出す。この禁止令が解除されたのが70年。まさに「暗黒の半世紀」だったのだ。
2008年、イングランド協会は禁止令に関する公式の謝罪を発表、発令前のトップスターだったリリー・パーを女子選手として初めてこの国の「サッカーの殿堂」に加えた。禁止令は「サッカーの母国」の大きな汚点に違いないが、ファンも「歴史は清算された」と感じたという。
先週、国立競技場で見せたアーセナルの躍動、とくに若い選手たちの活躍は、負の歴史を超え、未来への希望を強く感じさせるものだった。
(2011年12月7日)
まさに「日本デー」だった。
11月23日、マレーシアのクアラルンプールで行われたAFCアウォーズ2011。19部門の年間表彰のうち、日本が実に9部門を占めてしまったのだ。
最優秀協会、最優秀フットサルチーム(名古屋オーシャンズ)、最優秀女性コーチ(手塚貴子)、最優秀男性コーチ(佐々木則夫)、最優秀女性主審(山岸佐知子)、最優秀女子代表チーム、最優秀男子代表チーム、最優秀男子ユース選手(石毛秀樹=清水エスパルスユース)、そして最優秀女子選手(宮間あや=岡山湯郷)。
1カ国で年間表彰をここまで独占するのは初めてのことだ。
男子日本代表のアジアカップ制覇(カタール、1月)で始まった2011年。なでしこジャパンが女子ワールドカップで優勝、日本サッカー協会の創立90周年に花を添えた。
男子U-17ワールドカップでベスト8。女子は、オリンピックのアジア予選を筆頭に、U-19、U-16と、アジアを完全制覇した。
ザッケローニ監督率いる日本代表は16戦負けなしの記録をつくり、早々とワールドカップのアジア3次予選突破を決定。関塚隆監督率いるU-22日本代表も、オリンピックのアジア最終予選で3戦全勝とし、「ロンドン」を視野にとらえた。
まだ1カ月を残しているが、11年の日本サッカーは本当によくやった。国際舞台でのこれほど幅広い活躍は初めてのことだ。
日本のサッカーが積み重ねてきた組織づくり、育成と強化の努力が花開いた結果であるのは間違いない。しかし同時に、がんばりを結果につなげることができた背景には、もうひとつ別の理由があったのではないか。
「大震災から3週間もたたないうちに大阪で開催したチャリティーマッチの成功で、日本のサッカー界の気持ちがひとつになった」
AFCの表彰式を前に、日本サッカー協会の小倉純二会長はそんな話をしてくれた。
「600万ドルも出してくれた国際サッカー連盟ほか、世界中から支援の手が差し伸べられた。そうした世界のサッカー仲間の友情に報いようと、選手たちがあらゆる試合で全力を出し尽くしてくれた結果ではないか」
なでしこジャパンが象徴するように、日本選手の活躍は日本中に力を与えた。そして同時に、そのがんばりは、世界からの心のこもった支援に対する日本からの感謝の気持ちを、これ以上ない形で示すものになったのではないだろうか。
(2011年11月30日)
「ストップ!」
ブレーキがかかり、車は路肩に止まった。
タジキスタンとのワールドカップ予選の翌日、高さ三百数十メートル、世界最大の規模を誇るヌレークダムを訪れた。このダムひとつが生み出す電力で、タジキスタン一国の需要の9割をまかなうというから驚きだ。
急停車を頼んだのはその帰途。右手眼下に広がる河原に粗末なサッカーグラウンドがあり、子どもたちが遊んでいるのが目にはいったからだ。同道のカメラマンにとって絶好の被写体になるはずだ。
でこぼこの土のグラウンド。白っぽい石を並べたゴールライン。鉄パイプを組んだ一対のゴール。広さは日本でいえば少年用のグラウンド程度だろうか。粗末な普段着姿のままの20人ほどの子どもたちが、大声を張り上げながらボールを追っている。攻撃側のGKはつまらなそうにしゃがんでいる。世界のどこでも見られる光景だ。
だが河原に下り、ゴール裏から見て驚いた。子どもたちが遊んでいるピッチの隅で、何人もの若者がクワを振るっているのだ。
畑仕事ではない。ピッチ内にはみ出した土手を切り崩し、まっすぐにしようとしているのだ。よく見ると、グラウンドに埋まった大きめの石を取り除こうと、懸命に掘っている青年たちもいる。
キシラクというこの集落の河原には、近くのトンネル工事の廃材置き場があった。その用途がほぼ終了したとき、村の少年たちは工事会社に自分たちのサッカー場として使わせてほしいと申し出た。
だが大人は何もしてくれない。彼らは自分たちでまず廃材を片付け、スコップとクワで平らにならし、廃材のなかから見つけた鉄パイプでゴールを組み立てた。そしてようやく、子どもたちが走り回ることができるグラウンドが姿を現した。
だがそうして小学生たちが遊び始めても、中学生や高校生は毎日ツルハシやクワやリヤカーをもって集まる。石を取り除き、タッチラインを広げ、雨が降ると水たまりになるところに土を入れてならし、整備作業を続けているのだ。
「工事監督」は17歳だという。何という青年たちだろうか。気高い自立心、労働をいとわない精神、そして年下の子どもたちへの思いやりに打たれ、私は茫然と立ち尽くした。
そして、これこそ、旧ソ連時代に20年をかけて建設された高さ三百数十メートルの巨大ダムに負けない、「世界一」のサッカーグラウンドだと思った。
(2011年11月16日)
ワールドカップ・アジア3次予選のヤマ場が迫ってきた。タジキスタン(11日)、北朝鮮(15日)とのアウェー連戦だ。
ワールドカップ出場を続けるのは至難の業だ。予選突破に失敗したことがないのがブラジルとドイツ、世界で2カ国だけという事実がそれを雄弁に語る。
「勝ち続け」の2カ国がある一方、「負け続け」の国もある。過去のワールドカップ出場経験国は76。FIFA加盟国208の約3分の2は、まだ決勝大会出場がない。その「チャンピオン」とも言うべき存在が、ルクセンブルクだ。
欧州中部、ドイツ、ベルギー、フランスに囲まれた内陸国。神奈川県程度の広さの国土に約50万人が暮らし、欧州連合(EU)のなかでトップクラスの生活水準を誇るルクセンブルク。サッカー史はFIFA加盟が1910年と古いが、セミプロしかなく、現在のFIFAランキングは118位。この国のワールドカップ予選の記録が「驚異的」なのだ。
過去行われた18大会のワールドカップ予選のすべてに出場している。そして通算114試合戦って3勝4分け107敗。総得点54、総失点は381にものぼる。まさに「負け続け」の歴史と言える。
初戦は1934年3月。ホームでドイツを相手に戦い、1-9で敗れた。初勝利は実に27年後の61年10月、ポルトガルに4-2で勝った。その後2勝目までにさらに11年。2010年大会予選を前に、ルクセンブルクのワールドカップ予選は通算104試合、敗戦の数はちょうど100になっていた。
10年大会予選の初戦も、アウェーでギリシャに0-3の完敗。だが08年9月10日、第2戦で奇跡が起こる。アウェーのスイス戦。ルクセンブルクは前半27分に33歳のDFシュトラッサーが25メートルのFKを直接決める。いったんは追いつかれたが、後半42分、先制点とほぼ同じ距離のFKをシュトラッサーがこんどは縦に鋭くつなぎ、受けたMFレベックが右から決めて2-1の勝利をもぎ取ったのだ。
実に36年ぶりにつかんだワールドカップ予選3勝目。それは、ルクセンブルク代表の国際試合55連敗という不名誉な記録にピリオドを打つものだった。
「予選敗戦率」94%というチームでも強豪を倒す可能性があるのがサッカーという競技であり、ワールドカップ予選。1カ月前に8-0で勝った相手でもけっしてあなどってはいけないという教訓を、いまさら強調する必要はない。
(2011年11月9日)
1986年11月5日夜、スコットランド北東部アバディーンのアレックス・ファーガソンの自宅で電話が鳴った。それがすべての始まりだった。
「アレックス、うちにきてくれないか?」
電話の主はマンチェスター・ユナイテッドのエドワーズ会長。「ついにきたか」と心躍ったが、「返事は明日にしてください」と応えた。妻キャシーがこの静かな港町での生活を愛し、イングランドの大都市に移るのはいやと言っていたからだ。この晩、ファーガソンが妻をどう説得したのか--。翌朝、彼は受諾の返事をした。
スコットランドの5クラブでFWとして活躍、32歳で引退して一時はパブ経営に乗り出したが、ほどなくあきらめ、指導者となったファーガソン。彼を有名にしたのは、78年から8年間にわたって指揮をとったアバディーンでの成功だった。
80年、セルティックとレンジャーズというグラスゴーの2大クラブによるリーグタイトルの寡占を15年ぶりに破った。84年、85年には連覇を達成。カップでも4回の優勝を成し遂げた。ユナイテッドからオファーを受けたとき、ファーガソンは44歳になっていた。
信じがたいことに、ユナイテッドが用意した年俸はアバディーンより低かった。だがイングランドのビッグクラブでのチャレンジは彼の大きな望みだった。
それ以上に驚いたのは、ユナイテッドの選手たちのコンディションの悪さだった。飲酒の習慣をもつ選手が多く、トップクラスの選手とは思えなかった。
規律を厳しくし、同時にユース育成に力を注ぐことにした。最初の数年は結果が伴わず、ファンやメディアから解任論が絶えなかった。しかしクラブの理事会からの支持は揺るがず、90年にFAカップで優勝すると、93年、実に26年ぶりのリーグ制覇を達成した。
このころには、フランス代表FWカントナら移籍で獲得したスターたちとともに、ギグス、ベッカム、スコールズ、ネビル兄弟などユース出身選手が次々とデビューして戦力となり、彼らの存在が90年代に6回ものリーグ優勝という黄金期をもたらすことになる。
今週土曜、サンダーランドを迎えるユナイテッドのホームゲームは、いまや英国の爵位を得て「サー・アレックス」となったファーガソンの監督就任25周年を祝うものとなる。四半世紀で26ものメジャータイトルを取りながら、70歳目前のいまも最前線で戦い続けるファーガソン。その存在は現代の伝説だ。
(2011年11月2日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。