今週土曜日、Jリーグヤマザキナビスコカップの決勝戦が東京で開催される。
浦和レッズ対鹿島アントラーズ。国立競技場が真っ赤に染まる。
Jリーグは91年11月1日に法人設立、翌92年、最初の公式戦として開催したのがナビスコ杯だった。以来95年を除き毎年開催されてきたから、ことしで20年目、第19回ということになる。
だが今回の決勝はこれまでとはまったく意味あいが違う。
2万人に近い死者と行方不明者を出し、いまなお多くの人を苦しめている東日本大震災。Jリーグは開幕直後に中断、このナビスコ杯も大会形式の大幅変更を余儀なくされた。
予選リーグは中止され、1回戦から完全ノックアウト方式の大会となった。総試合数は予定(55試合)の半数弱。大会自体が「被害者」なのだ。
だがそれでも、J1在籍の全18クラブが参加して26試合を戦い、今週土曜に決勝戦を迎えることになった。
浦和はJリーグでは不調に陥り、J1残留争いにもがいている。先週、監督交代もあった。だがナビスコ杯では1回戦から計6試合を戦い抜き、全試合で2点ずつ取ってきた。MF原口元気、山田直輝らユース出身選手が中心となって「新しい浦和」をつくる第一歩がこの決勝戦だ。
対する鹿島は百戦錬磨。準々決勝、準決勝とも延長の後半に決勝点を挙げるという伝統の勝負強さを示した。MF小笠原満男を中心とした経験豊富な選手たちがFW大迫勇也やMF柴崎岳といった急成長の若手を支え、シーズン後半に充実度を増してきた。
浦和と鹿島の決勝対決は8年ぶり3回目。過去は1勝1敗だ。
だが今回の決勝戦はこれまでとはまったく違うものにしなければならない。同じものであってはならない。
震災後、日本人の表情を最も明るくさせたのは、なでしこジャパンの女子ワールドカップ優勝だった。優勝したという事実以上に、あきらめることなく戦い続けた彼女たちの姿が人々の胸を打った。ナビスコ杯決勝にも、同じような力がないわけがない。
この「特別な年」、2011年のナビスコ杯決勝の舞台に立つのは、Jリーグでもほんのひと握りの選手にすぎない。その誇りと、何よりも責任感を、全身全霊をかけたフェアなプレーで表現してほしい。そして国立競技場から発せられるまばゆいばかりの光で、日本中の人々の瞳を輝かせてほしいのだ。
(2011年10月26日)
ひとりで1試合に3枚のレッドカードを受けた選手がいる。
スコットランド・リーグのアバディーンに所属していたFWディーン・ウィンダス。1997年11月、ダンディー・ユナイテッドとのアウェーゲームでのことだった。
キックオフから1分もしないうちに彼はスチュアート・ドゥーガル主審からイエローカードを示された。そして前半22分に2枚目を出され、自動的にレッドカード(退場処分)となってしまった。
収まらないウィンダスがくってかかる。あまりの暴言に、主審は2枚目のレッドカードを示す。そして彼が腹立ち紛れにコーナーフラッグを抜き取って地面に叩きつけると、世にも珍しい3枚目が出されたのだ。
当然のことながらウィンダスには厳罰が下され、6試合の出場停止処分となった。
今日ではこんなことは起こらない。01年のルール改正で「競技者または交代要員あるいは交代した競技者にのみレッドまたはイエローカードを示す」と明記され、すでに退場になった選手にはカードは出されないからだ。
毎年2月か3月に改正点が決められ、7月1日付けで発効するサッカーのルール改正。それを受けて、日本サッカー協会は毎年夏から秋ごろまでに新年度のルールブックを発行する。正式名称は「サッカー競技規則」だ。
あまり知られていないが、日本は世界一の審判大国。登録審判員はおよそ20万人にも上る。毎年、その全員に配布されているから、ルールブックは「隠れたベストセラー」だ。
だがその一方で、サッカー選手や指導者、報道関係者など「専門家」と呼ばれる人びとの多くがルールブックを読んでいないという驚くべき現実がある。読むどころか、最新版を持ってさえいない人が圧倒的だ。
現在のルールブックは、ルール本体だけでなく、ルールの正確な解釈や細かな事象に審判がどう対処すべきかなどが書かれており、とても興味深い。さらに日本語版だけの付録として、主審と副審の合図(カラー写真)や今年度のルール改正とそれに対する日本協会からの解説など、盛りだくさんの内容だ。
講談社が一般向けに販売しており、最新の2011/12年版は税込みで1575円。書店でもネットでも購入できる。
専門家あるいは熱心なファンなら、年にいちどは新版を購入し、じっくりと読んでみるべきではないだろうか。別に宣伝を頼まれたわけではないが...。
(2011年10月19日)
「警告の累積による出場停止」という言葉を、いちどは聞いたことがあるだろう。
1試合で2回警告(イエローカード)を受けるとその場で退場だが、1試合では1回でもそれが積み重なると処分の対象になる。
日本サッカー協会は出場停止になる累積数を競技会の試合数に応じて定めている。1チーム9試合以下の競技会では2回で1試合の出場停止。10試合以上19試合以下では3回、20試合以上の競技会では4回で1試合の出場停止となる。
問題はJリーグのナビスコ杯である。
この大会は、本来2グループによる「予選リーグ」を行い、両組の上位2チームにAFCチャンピオンズリーグ(ACL)出場の4チームを加え、計8チームで準々決勝以降の「決勝トーナメント」を行うはずだった。しかし大震災の影響で日程変更を余儀なくされ、14チームで2戦制の1、2回戦を行い、勝ち残った4チームとACL参加4チームで1戦制の準々決勝以降を戦うことになった。
当初、予選リーグの警告累積は決勝トーナメントには持ち越さないことになっていた。「勝ち上がり組」が6試合を消化しているのに対し「ACL組」は準々決勝が初戦。公平を期すためだった。
ところが1回戦からのノックアウト方式に変更された時点で、この措置が外された。
第一に、警告を受けること自体が「悪」であること、そして第二に「予選」「決勝」という二段階の大会ではなく「ひとつの大会」になったことが、その理由だったという。
だがそもそも警告の累積数が問題になるのは、試合数が同じという前提に立ってのものではないか。
ことしのナビスコ杯では6人が警告累積で1試合出場停止になった。うち4人は相手と同じ試合数だった。だが浦和のマルシオリシャルデスと山田直輝のケースは違った。
1回戦からの4試合で警告が2回になったマルシオはC大阪(これが大会初戦)との準々決勝が出場停止だった。その準々決勝で2回戦に次ぎ2回目の警告を受けた山田直は、G大阪(大会2試合目)との準決勝に出場できなかった。
サッカーの根本精神のひとつ「公平」の観点から、Jリーグの結論は間違っていると、私は思う。同時に、日本サッカー協会は試合数が極端に違う場合の累積警告の取り扱いについて明確なガイドラインを示すべきだ。
浦和と鹿島の決勝戦では、警告累積による出場停止はいない。それは単なる幸運だ。
(2011年10月12日)
世界の6地域連盟のうち最も壮大で最もハードなワールドカップ予選が始まる。今週金曜日、10月7日にスタートする南米予選だ。
南米サッカー連盟加盟国はわずか10。以前はグループ分けして開催していたワールドカップ予選を、94年フランス大会以来、全チームのホームアンドアウェー総当たりで行うようになった。
今回は開催国ブラジルが参加しないため9チームによる予選大会だが、それでも再来年の10月まで実に25カ月間にわたり、全18節、72試合が行われる。
ブラジルは出ない。しかしそれ以外の南米に割り当てられた出場枠は前回までと同じ4・5。今回の予選で5位になったチームがアジアとのプレーオフを勝ち抜けば、ブラジルを含めて6カ国に出場権が与えられる。
なかでも期待が高まっているのが、前回予選ではわずか3勝、最下位に終わったペルーだ。ことし7月に行われたコパアメリカ(南米選手権)で3位という好成績を残した。
率いるのは9人のライバル監督中最年長、66歳のセルヒオ・マルカリン。かつてのスター選手が多いなかで、プロ選手の経験皆無という変わり種だ。
ウルグアイ国籍だが育ったのはアルゼンチン。ユース年代までDFとしてプレーしたが、大学卒業後石油会社に就職して29歳までエリートビジネスマンとして活躍した。しかし74年ワールドカップで祖国ウルグアイがオランダに完膚無きまでに叩かれるのをテレビで見てサッカーのコーチになることを決意、あっさりと退職した。
最初は「ベンツを売り払ってバス通勤」という日々だったが、やがて力を認められ、パラグアイやペルーでクラブの監督として成功する。そして99年にはパラグアイ代表監督に就任、02年ワールドカップの予選突破を果たす。しかし本大会を前に解任される。
ことし6月のキリンカップで来日。しかし目前のコパアメリカは眼中になく、「ワールドカップ出場だけが目標」と語った。
ドイツのハンブルガーSVに所属し、コパアメリカでは5得点を挙げて得点王となったFWパオロ・ゲレーロを中心に、強力な攻撃陣をもつペルー。
「マルカリン監督がチームに規律をもたらし、ペルーはメンタル面で大きく成長した」と主将のゲレーロ。
82年スペイン大会以来、実に32年ぶりのワールドカップ出場に向け、今週金曜、ペルーは首都リマに強豪パラグアイを迎えて予選の口火を切る。
(2011年10月5日)
人は生まれる時代も場所も選ぶことができない―。ことし1月に急逝された相川亮一さん(享年64)を思うとき、頭に浮かぶのは、いつもそのことだ。
私にとって最初のサッカーコーチだった。高校に進学したころ、先輩でまだ大学生だった彼の指導を受けた。
「おれはプロサッカーコーチになる」
Jリーグなどかけらもない1967年。選手としての経歴もない相川さんの言葉には、強烈な目的意識と自負が感じられた。
その後相川さんはFIFAのコーチングスクール(イラン)でデットマール・クラマー・コーチに師事し、読売サッカークラブ(現在の東京ヴェルディ)のコーチ、後に監督となった。読売クをJSL2部から1部に引き上げ、個性的で攻撃的なサッカーで優勝争いにまで加わらせた。
83年に監督を辞任、以後は神奈川県の桐蔭学園などユース年代のチームの指導を歴任した。彼の指導に触れた若い選手たちは大きな影響を受けた。
サッカーの本質を見抜く鋭い感覚と、優れたサッカーを実現するための技術指導、戦術指導で尽きることのないアイデアをもった「鬼才」。ただ同時に、非常にシャイで、人づきあいは苦手だった。
スポーツジャーナリストの牛木素吉郎さんの提唱で「追悼本」が編さんされ、相川さんの「弟子」である高橋正明さんや田所俊文さんの献身的な働きでようやく完成した。
苛烈なまでに自己を見つめる人だった。自己に正直だったから、言葉に力があった。
71年、山手学院高校のコーチを辞任することになったとき、高校生たちに向けて、彼はこんな手紙を送った。
「我々はサッカーを教えているのではなく孤独な人たちがこの世で何を目指すかを教えるのである。それは今もチームしかない。私は自分がこういうことを若い人たちに知ってもらうために生きていくことを願っている」
これを書いたとき、彼は25歳だった。
日本リーグ時代に「ライバル監督」だった石井義信さんは「相川くんは20年か30年早かった」と書く。
プロ時代であれば、人づきあいの能力ではなく、アイデアと指導力だけで評価されただろう。また欧州の国なら、小さな田舎町で選手を育て、1部リーグのチャンピオンにするような仕事も可能だったのではないか。
人は生まれる時代も場所も選ぶことはできない。ただ、後に残された者は、彼の魂を感じ、彼のアイデアを引き継ぐことはできる。
(2011年9月28日)
「追悼本」のお問い合わせはサイト上部「メール」よりお願いします。
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。