来年夏のロンドン五輪出場権獲得を目指すアジア最終予選がスタートする。C組にはいった日本のライバルはバーレーン、シリア、マレーシア。4チーム中首位の1チームだけに出場権が与えられる。2位になると過酷なプレーオフだ。
U-22日本代表(関塚隆監督)は、今夜鳥栖で行われるマレーシア戦で予選をスタートする。第2戦は11月22日のバーレーン戦(アウェー)、第3戦は同27日のシリア戦(ホーム)、第4戦は来年2月5日のシリア戦(アウェー)、第5戦は同22日のマレーシア戦(アウェー)そして最終戦は3月14日のバーレーン戦(ホーム)。
この日程には大きな問題がある。すべての試合が、国際サッカー連盟(FIFA)が定めた「国際試合日カレンダー」を外して設定されているのだ。
国内リーグと代表チームの活動日を明確に分け、バッティングしないように定めたのが「国際試合日カレンダー」。世界中で代表チームの活動日を合わせることにより、クラブとのトラブルをなくす意図で制定された。
この「カレンダー」は「A代表」のみを対象としたもの。五輪代表は対象外で、「カレンダー」で指定された日の試合でも、強制的に選手を招集する権利はない。しかしU-22代表といえば、どこの国でもクラブの主力クラスのはず。前回の北京五輪の最終予選は例外なく「カレンダー」に合わせて行われた。
日本のU-22代表選手も、当然、その大半がJリーグのクラブで主力として活躍している。今回の予選日程を見て、Jリーグは五輪予選に協力することを申し合わせた。すなわち、五輪代表の活動期間中は、クラブは使えないことになる。
先週末のJリーグでは、各クラブはU-22代表選手を使うことができなかった。11月にも、重要なリーグ終盤の2節で主力選手を欠くことになる。
今回の五輪予選がすべて「カレンダー」から外されたのは、主管するアジアサッカー連盟(AFC)が、A代表の試合日と分けることで、より五輪予選に注目を集める形にしようとした結果だった。いや、より正確に言えば、「テレビ放映権収入をより多く」という意図だった。
利益追求の姿勢が、選手自身とその所属クラブが大きな犠牲を強いられる、本末転倒の状況につながった。これがサッカーを統括する団体がすることだろうか。このような愚行は、絶対に今回限りにしなければならない。
(2011年9月21日)
9月12日(月)、東京都内のホテルで日本サッカー協会創立90周年の記念パーティーが開かれ、その場で「新しい」FAシルバーカップが披露された。
FAシルバーカップは日本サッカー協会の生みの親と言っても過言ではない。大正8(1919)年、英国大使館から日本体育協会に突然手渡されたのがこのカップだった。
前年、東京など3都市でサッカーの大会が行われたのだが、英国では「日本にも国内サッカーを統括する団体ができ、全日本選手権の地方予選が行われた」と伝わった。喜んだのが「サッカーの母国」イングランドサッカー協会(FA)。さっそく純銀のカップを制作、日本のサッカー協会に寄贈すべく、東京の英国大使館に向けて送り出したのだ。
日本の体育協会はあわてた。当時東京でサッカーの中心だった東京高等師範学校(現在の筑波大学)にサッカー協会をつくるよう指示、大正10(1921)年9月10日、ようやく協会が誕生した。
FAシルバーカップはこの年に始まった全日本選手権(現在の天皇杯)の勝者に授与されるようになり、日本中のサッカー選手の目標となっていく。
ところが昭和20(1945)年、カップは政府に献納され、兵器をつくるために溶かされてしまう。戦後全日本選手権が復活。51年からは天皇杯が正式な優勝カップとなって今日まで続いている。
ことし3月、日本サッカー協会の小倉純二会長は、FAのバーンスタイン会長と会談した際、FAから贈られたカップがきっかけで日本協会が誕生したこと、そのカップが戦時中に失われてしまったことなどを伝え、謝罪した。そして許可してもらえるなら複製をつくり、若い世代に戦争はいけないことを伝えていきたいと話した。
バーンスタイン会長はこの話に感銘を受け、こう返事した。
「新しいカップは私たちがつくり、もういちど寄贈します」
そして完成した「新しい」FAシルバーカップは、8月23日、ロンドンのウェンブリースタジアムでバーンスタイン会長から小倉会長に手渡された。新カップは、来年元日に決勝戦が行われる天皇杯の勝者に授与される予定だという。
ビッグビジネス化ばかり進み、カネでしか物事が計れなくなってしまった今日のサッカー。そのなかで、日本とイングランドのサッカー協会の間で交わされたやりとり、人と人のつながりは、「おとぎ話」のようなぬくもりを感じさせる。
(2011年9月14日)
久々に味わった緊張感だった。
ワールドカップ・アジア予選。先週金曜、日本代表は息詰まるような戦いの末、ロスタイムの4分目になって決勝ゴールを奪い、貴重な勝利を得た。
「一滴一滴が海になる」。ザッケローニ監督は、イタリアの格言を引き、全員の献身によって得た勝ち点3が2014年ワールドカップに向けての第一歩になると語った。その言葉のとおり、一足飛びに出場権を獲得することはできない。粘り強く勝ち点を積み重ねて「ブラジル」までたどり着くのだ。
それにしても「ホームアンドアウェー」の戦いは難しい。
「ホームでは必ず勝ち、アウェーでは悪くても引き分ける」。今予選の戦い方の指針をそう語ったのは北朝鮮のユン・ジョンス監督。「勝てなくても成功」という姿勢で臨んでくるチームからゴールを奪うことの難しさを再認識させられた試合だった。
それでなくても、昨年のワールドカップでベスト16に進出し、ことしはアジアカップ優勝。現在のアジアでオーストラリアと並んでヨーロッパのトップリーグで最も多くの選手がプレーしている日本は、同じ組のチームから警戒され、最高のモチベーションの戦いを挑みかけられる。
だが日本代表はそうした相手に受け身になるのではなく、自ら果敢に仕掛け、最後の最後までチャレンジを続けた。そのメンタリティーは、敬服すべきものだった。
ワールドカップ予選は、よく「冒険の旅」にたとえられる。誰もが目指すが、誰にでもたどり着けるわけではない目的地。そこに続く道が平坦であるわけがない。思いがけない落とし穴が待っていることもあるだろう。窮地に追い込まれるときもあるかもしれない。
そうしたときに必要なのは、一人ひとりが腹に力を入れ、歯を食いしばって耐え、自らを信じ、仲間を信じて逃げずに戦い続けることだけだ。
この日の日本代表からは、そうした精神的な強さがひしひしと伝わってきた。前後半のロスタイムを入れて通算98分間、一瞬たりとて混乱したことはなかった。本当に、チームとしての成長を感じさせた試合だった。
しかし戦いは始まったばかり。一喜一憂することは許されない。3次予選から最終予選へ、再来年の6月まで(あるいは11月まで)続く「冒険の旅」を、私たちもいっしょに成長しながら楽しみたいと思う。
(2011年9月7日)
「いましかない」
04年4月、日本サッカー協会事務局の江川純子さんは、強くそう思った。
当時、代表チームに関する事務を担当する部署にいた江川さん。いろいろな文書を書くたびに「女子」とつけなければならないのを、女性として悔しく感じていた。
「日本代表」と言えば男子。女子代表は、「女子日本代表」と書かなければならない。オーストラリア協会が女子代表をごく自然に「マチルダス」と愛称で書いてくるのがうらやましかった。
そんなとき、女子日本代表が北朝鮮を破ってアテネ五輪の出場権を獲得。3万を超すファンが声援を送り、土曜日の夜に全国放送で16.3%の高視聴率を記録、大きな話題となった。「愛称をつけるならいましかない」と提案を出した。
「それはいい、ぜひやろう!」と賛同してくれたのが当時広報部長だった手島秀人さん(現理事)だった。手島さんが精力的に各方面を説得し、「公募」にこぎつけた。作業は広報部が中心になって受け持った。
その年の7月7日、七夕の日に「なでしこジャパン」の愛称を発表。1カ月後、アテネ・オリンピックの初戦で優勝候補の一角であるスウェーデン(前年の女子ワールドカップ準優勝)を1-0で下し、愛称も広く知られるようになった。
15年ほど前、会社員だった江川さんは、ある女子サッカーチームの練習を見た。社会人中心のチーム。自分のように30歳を過ぎても目を輝かせてボールを追っている姿が印象的だった。そして選手たちがとても楽しそうなので、「まぜてもらいたい」と思った。
サッカーどころか何もスポーツ経験がなかった江川さん。思い切り右足を振ったが、ボールはわずか5メートル先に落ちた。しかし2年間ほど定期的に練習に取り組むと、どうにか味方につながるようになった。その後サッカー協会に就職。週末にも仕事がはいり、残念ながらチームから離れざるをえなくなった。
「生活も子育ても大事、仕事も大事。でもできる限りいつまでもサッカーを続けていきたいというのが、女子サッカーの本当の姿」と江川さん。女子サッカーへの理解を広めたいという思いが、愛称誕生につながった。
明日から厳しい五輪予選に突入するなでしこジャパン。その戦いを、江川さんを含め、日本中の「なでしこ」たちが見守っている。
江川純子さん
(2011年8月31日)
ワールドカップ予選では、いろいろと予測不能なことが起こる。
06年ドイツ大会の予選では、北朝鮮とのアウェーゲーム中立地でのバンコクで、しかも無観客で行われた。
そしてこんどは、9月2日にスタートする14年ブラジル大会のアジア3次予選で日本と同組だったシリアが失格になり、代わってタジキスタンが出場することになった。初戦のわずか2週間前、8月19日の決定だった。
シリアはタジキスタンとの2次予選2試合にFWジョージ・ムラド(28)を起用した。ホームの第1戦(7月23日)ではフル出場して先制点の活躍。5日後の第2戦では交代出場し、相手オウンゴールを誘って勝利に貢献した。ところがこのムラド、シリア代表の出場資格を完全には満たしていなかったのだ。
キリスト教徒であるシリア人の両親の下、82年9月18日、レバノンのベイルートで生まれる。幼いころに家族でスウェーデンに移住、長じてサッカー選手となる。
189センチ、88キロの恵まれた体。ヘディングも強いが足元のテクニックも高いムラドは、早くから「イブラヒモビッチ(現ACミラン)二世」と注目され、03年にはスウェーデンのU-21代表、05年にはA代表に選出された。この年の1月22日、ロサンゼルス(アメリカ)での韓国戦でデビュー、4日後のメキシコ戦にも出場した。
だがその後スウェーデン代表に選ばれることはなかった。ことしポルトガルからイランの強豪「メス・ケルマン」に移籍金なしで移籍した彼に、シリア協会が目をつけた。
依頼を受けたスウェーデン協会は、二重国籍をもつムラドがシリア代表としてプレーすることを承認。そして6月29日、イラクとの親善試合で、彼は両親の祖国の代表としてデビューを飾った。
従来、国際サッカー連盟(FIFA)は代表選手の国籍変更を認めなかったが、近年、二重国籍保持者に限りその規制を緩め、ムラドがシリア代表になるのは不可能ではなかった。だがそれには当該協会同士の合意だけでなくFIFAへの申請と許可が必要だった。2次予選に向け時間を惜しんだシリア協会はそれを怠ったのだ。
「金曜の夜、寝ていたときにシリア協会のサリア会長から電話を受けた。(シリアが失格になったと聞いて)その晩は一睡もできなかった」とショックを隠せないムラド。
「ウズベキスタン、北朝鮮、そして何より日本との対戦が楽しみだったのに...」と、唇をかんだ。
(2011年8月24日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。