「きょう、国歌のときに肩を組みたいんですが、いいですか」
ワールドカップ南アフリカ大会初戦のカメルーン戦を迎えた6月14日の朝、試合地ブルームフォンテンの宿舎で、日本代表主将の長谷部誠が岡田武史監督にこう話しかけた。
「いいよ」
さりげなく返事しながら、内心、岡田監督は快哉(かいさい)を叫んだに違いない。
「ベンチもいっしょに組んでくれますか」
「喜んでやるよ」
PK戦のときに肩を組んだことはあった。しかし試合前の国歌吹奏では、したことはなかった。それを、選手たちから自発的にしたいと言ってきたのだ。
アルゼンチンに住む知人から岡田監督のもとに1本のビデオが届けられたのは09年はじめのこと。DVDにはラグビーの07年ワールドカップで3位になったアルゼンチン代表のドキュメンタリーが収められていた。そのなかに、試合前の国歌吹奏のシーンがあった。その映像を、岡田監督は選手たちに見せた。
整列した選手全員が肩を抱き合って並び、吹奏が始まる。そして長い前奏が終わると、全員で叫ぶように国歌を歌い上げる。
これから直面する戦いへの不安と恐れ。それを克服しようとする勇気と闘志。そして何よりも、チームの勝利ために、祖国のファンのために戦うという決意...。感極まって涙ぐむ選手もいる。理屈抜きに、見る者の心を揺さぶる映像だった。
岡田監督の戦略と戦術を徹底的に実践し、海外開催のワールドカップで初めてベスト16進出を成し遂げた日本代表。本田圭佑の得点や遠藤保仁のFKも美しかったが、勝利の最大の要員は、チーム全員が心をひとつにし、一丸となって戦い抜いたことに違いない。
「サッカーがチームスポーツであることを私たちは証明したい」
デンマーク戦後の記者会見で、岡田監督はこんな話をした。
自分たち以外に誰も信じなかった「奇跡」は、全員が、自分のためでなく、チームのため、そして家族や世話になった人びとのため、深夜の日本で声援を送ってくれている人びとのために行動し、プレーした結果と言いたかったに違いない。
その象徴が国歌吹奏時の肩組みだった。チームが完全にひとつになっていたからこそ、ごく自然にできたことだったのだろう。
ブルームフォンテンのスタジアムで日本代表の肩組みを見たときに込み上げてきた熱い思いを、私は忘れることはないだろう。
(2010年12月22日)
2010年も終わろうとしている。1年を振り返ると、ワールドカップ南アフリカ大会での日本の大躍進がまず浮かんでくる。だがそれ以上に、「本田と香川」に象徴される年だったのではないか。
昨年のいまごろ、本田圭佑と香川真司は現在の状況からほど遠いところにいた。
ヨーロッパでもトップとは言えないオランダの下位クラブ・フェンロに所属していた本田は、クラブでは王様だったが、日本代表ではまだ新参者だった。中心選手である中村俊輔と同じポジションだったからだ。
昨年末、本田はロシア・リーグのCSKAモスクワへの移籍を決意する。日本人がまだプレーしたことのないリーグ。しかしこのチームはUEFAチャンピオンズリーグで勝ち残っていた。彼はこのチャンスを生かし、見事なFKを決めてベスト8に導いた。
そして新しく与えられた「トップ下」というポジションで生き生きと動いたことが、日本代表の岡田武史監督に「本田を中心とした攻撃プラン」への変更を決意させた。
一方、香川の09年は1シーズンに51試合もこなすJ2での戦いだった。香川はJ2から唯一日本代表の試合にも参加しながら44試合に出場し、得点王となる27得点を記録して所属のセレッソ大阪をJ1昇格に導いた。
だが香川も日本代表でポジションを得ていたわけではなかった。08年に19歳でデビューし、岡田監督から期待を寄せられていたが、C大阪でのはつらつとしたプレーが日本代表でも発揮されることはなかったからだ。
本田が2得点を挙げて日本代表の主役となったワールドカップ、香川はメンバーにさえはいれなかった。南アフリカには行ったものの、言ってみれば「練習要員」だった。
香川を変えたのは、本田と同様、挑戦する気持ちだった。ワールドカップ後、ドイツの名門ボルシア・ドルトムントに移籍。すると見違えるように積極的なプレーが出始め、次々と得点を挙げてチームの勝利に貢献、首位独走の立役者のひとりとなったのだ。
86年6月13日生まれ24歳の本田。89年3月17日生まれ21歳の香川。若いアタッカーふたりが相次いで台頭し、世界のトップクラスに通じるプレーで日本代表をぐいぐいとけん引し始めた年―。2014年ワールドカップ・ブラジル大会を迎えたとき、私たちは、2010年をそんな年として思い起こすのではないだろうか。
(2010年12月15日)
18シーズン目のJリーグが終わった。名古屋が念願の初優勝を果たしたが、大宮の観客数水増しが発覚するなど、数々の苦悩が交錯した年でもあった。
来年、Jリーグは法人化20年目を迎える。「成人式」を目の前に、Jリーグはどう成長したのだろうか。
当初10だった加盟クラブ数は、来年、ガイナーレ鳥取を加えて38となる。「体」は確実に大きくなった。だがJリーグの理念である「スポーツによる幸せな国づくり」はどこまで実現したのか...。
そんなことを考えているとき、浦和レッズの「スチュワード」たちと出会った。試合日に運営の手伝いをしている人びとだ。
浦和にスチュワードが誕生したのは95年。クラブから独立して運営されている後援会の個人会員のなかから志願者を募り、以後、浦和の試合運営に欠くことのできない存在となった。「10年選手」も珍しくないから、スタジアムのこと、運営のきまりなど、クラブスタッフの若手より詳しいことさえある。
埼玉スタジアム内外の7カ所に設けられたインフォメーションデスクで観戦者の案内に当たるほか、座席への誘導、障害をもった観戦者のサポートなどの多岐にわたる業務を、試合ごとに40~50人でこなしている。
「観客全員が『きてよかった』と思えるようにお手伝いをすること」と心得を語るのは佐藤亜紀子さん(41)。
「アウェーゲームにも必ず行く」わけは、ホームではまったくプレーを見ることができないからと笑う。
「勝った試合の後、うれしそうに帰っていくお客さんの表情を見るのが好き」と話す池滝憲治さん(49)と久枝さん(48)は8年前から夫婦で活動している。
大学4年の長女もスチュワード。現在高校1年で学校のサッカー部に所属している次女にも「数年後には...」と期待している。海外出張が多い池滝さんだが、家族間の話題には不自由しないという。
ヨーロッパで試合に行くと、そろいのジャンパー姿のおじさんボランティアが町のあちこちから三々五々集まってくるのを見る。彼らは何の打ち合わせもなくそれぞれの持ち場につき、案内や座席ガイドなどをこなす。どんな質問にも的確な答えが帰ってくるのに驚くと、「何十年もやってるからね」と平然とした顔を見せる。
浦和だけではない。そんな文化が日本中にも根付きつつある。それこそ、Jリーグが「成人」に近づいている証拠に違いない。
(2010年12月8日)
「日本は8年前に開催したばかりだろう」
今夏、ある南米サッカー連盟の役員からそう言われて、自分自身のなかにわだかまっていた気持ちが一挙に溶解する思いがした。
2018年と22年のワールドカップ開催国決定が目前となった。きょう12月1日、スイスのチューリヒにある国際サッカー連盟(FIFA)本部で22年大会候補の5カ国の最終プレゼンテーションが行われ、続いて明日2日には18年大会の4候補が続く。FIFA理事22人による投票を経て開催国が発表されるのは、現地時間午後4時(日本時間3日午前0時)の予定だ。
従来は大会の6年前に決定していた開催国。しかし準備期間が足りないという指摘を受け、昨年1月、FIFAはことし12月に18年大会と22年大会の開催国を決めると発表、募集を開始した。1カ月間で11の立候補が集まり、そこからメキシコとインドネシアが脱落して9に絞られた。
さらに「18年は欧州で」という方向性が固まり、両大会に立候補していたいくつかの国が22年大会に絞っての立候補となった。最終候補は以下のとおりである(各大会プレゼンテーション順)。
18年大会。ベルギーとオランダ(共同開催)、スペインとポルトガル(共同開催)、イングランド、ロシア。
22年大会。オーストラリア、韓国、カタール、アメリカ、日本。
日本サッカー協会は30年代のワールドカップ単独開催を目標としていたが、犬飼元昭会長(当時)の意向で立候補を決めた。だが私には最初から強い違和感があった。その正体がはっきりしたのは、冒頭の南米連盟役員の言葉だった。
ワールドカップは人類の宝だ。優勝することはもちろん、自国で開催することも世界中の人びとにとって一生の夢に属する。ことし南アフリカが多くの危惧(きぐ)を払拭して成功裏に大会を開催したことで、さらに多くの国が勇気づけられ、「一生の夢」を実現しようという動きが始まっている。
できうる限りいろいろな国で開催するのがワールドカップの理念にかなっている。そう考えれば、02年に開催した日本が22年もというのは、あまりに他とのバランスが悪い。
私たちは「20年後」と思う。しかし世界の人びとは「8年前に開催したばかり」と感じ、眉をひそめている。
結果はわからない。だが今回の立候補には、最初から「正義」が少なかったように思えてならない。
(2010年12月1日)
「激動の一日」を締めくくったのは、千葉MF佐藤勇人の気迫のボレーだった―。
J1とJ2の合計18試合がいっせいに行われた11月20日土曜日。鹿島が神戸と0-0で引き分け、湘南を1-0で下した名古屋のJ1初優勝が決まった。
ストイコビッチ監督が就任して3季目。今季はDF闘莉王など大型補強にも成功、勝負強さを発揮し、1ステージ制になって以来初めて最終節を待たずに優勝を決めた名古屋の強さは本物だった。
だがこの日のハイライトは名古屋の優勝だけではなかった。残留と昇格をかけての争いの激しさも、火花を散らすものだったのだ。
J1とJ2の間では入れ替え戦はなく、J1の下位3チームとJ2の上位3チームが自動的に入れ替わる。そしてそのうち2チームずつはすでに決定している。京都と湘南が降格し、代わって柏と甲府が昇格する。残りはそれぞれ「1枠」だ。
鹿島4連覇の夢を砕いたのはJ1の「降格圏」16位の神戸。見事な闘志と集中力だった。優勝を争っている鹿島に臆(おく)することなく最後まで失わなかった攻撃的姿勢が、「残留圏」15位のF東京との差を勝ち点1に縮める0-0の引き分けにつながった。
F東京の相手は強豪川崎。1-1で迎えた後半39分に川崎に勝ち越し点を許すと、3バックにして前線の人数を増やし、ロスタイムのCKではGK権田まで相手ゴール前に送り込んで同点を狙った。1-2で敗れたが、魂のこもった反撃はファンの心を打った。
J2で現在3位。4季ぶりのJ1を目指す福岡は、この日午後2時半から昇格の望みを残す5位東京Vと対戦。2-0から追いつかれて2-2となったが、ロスタイム3分にFW高橋が30メートルのFKを叩き込んで劇的な勝利をつかんだ。
福岡を勝ち点5差で追う4位千葉は7時半キックオフ。相手はJ2で最下位の北九州だったが、立ち上がりに1点を先制しながらその後消極的になって押し込まれ、後半28分に同点ゴールを喫した。
その後もピンチの連続。起死回生の一撃はロスタイム3分だった。相手のクリアにMF佐藤が猛然とくらいついた。バウンドするボールを左足で力いっぱい叩くと、左ポストの内側に当たってゴールに飛び込んだのだ。
Jリーグ終盤、どのチームも命をかけたような戦いを見せている。残りは2節、計36試合。誰にも予想できないドラマが、まだまだ待っている。
(2010年11月24日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。