きょうはある伝説的なGKの話をしたい。
デビューは61年前、1949年の11月中旬。すでに26歳。前月にマンチェスター・シティと契約した。
ドイツ北部のブレーメン生まれのベルンハルト・トラウトマンは1年ほど前にマンチェスター近郊の収容所から釈放されたドイツ人捕虜だった。釈放後も英国に残り、農場で働くかたわら、アマ・クラブでプレーしていてスカウトされたのだ。
ドイツ空軍のパラシュート隊員との契約にシティのファンの多くが反対し、反対デモまで起きた。英国人はまだドイツへの恨みを忘れていなかったのだ。だがプレーをひと目見ると、誰もが彼の大ファンになった。
ドイツ代表のGKだったわけではない。いくつかの競技に親しんでいたが、家計を助けるため17歳で入隊。サッカーに取り組むようになったのは収容所時代からだった。最初はDF。ある試合でけがをしてGKと交代し、以後GKになった。
長身ながら卓越した反射神経をもつトラウトマンは、即座にスターとなった。当時のGKはキャッチすると力いっぱいけり出すだけだったが、彼はロングスローで正確に攻撃につなげた。56年5月には年間最優秀選手に選出される。そしてその直後のFAカップ決勝戦で伝説が生まれる。
前年も決勝に進出したが1-3の完敗。2年連続の決勝進出でシティはバーミンガムを圧倒する動きを見せ、3-1とリードした。トラウトマンも珍しいロングキックで3点目を生み出した。だが残り15分、ゴール前にはいってきた相手FWの足元に飛び込んだトラウトマンが倒れた。
首を強打したトラウトマン。意識がもうろうとするなか気丈にプレーを続け、2回の決定的ピンチを防いでチームを優勝に導いた。
翌朝、痛みが取れないためロンドンで診察を受けた。だが診断は「すじ違い」。首の骨が折れ、危うく致命傷になるところだったのを発見されたのは、2日後、マンチェスターの病院でX線検査を受けたときだった。
引退もささやかれたが年末には復帰。そして41歳まで現役を続け、シティで500試合以上に出場した。
87歳のいま、彼はスペインで元気に暮らしている。数奇な運命で英国サッカーのスターとなったトラウトマンだったが、彼の存在がドイツに対する英国人の憎しみを和らげたのは間違いない。04年、英独親善に貢献をしたとして、英国政府は彼に勲章を贈った。
(2010年11月17日)
U-16(16歳以下)日本代表が来年のU-17ワールドカップ3大会連続出場を決めた。
出場を確定したアジアU-16選手権準々決勝のイラク戦で目を引いたのが、2得点を決めて勝利に導いたFW南野拓実の才能だった。セレッソ大阪U-18所属、まだ15歳の高校1年生。抜群のスピードと反射神経で堅固な守備を打ち破った。
そういえばことしのU-19日本代表のFWも4人のうち2人はC大阪所属だった。スピードと強さの永井龍、187センチの長身でポストプレーを得意とする杉本健勇だ。近年の日本のユース年代のエースは、柿谷曜一朗(現在J2の徳島所属)、森島康仁(同J2の大分所属)と、C大阪の選手が続いている。
ストライカーの育成は日本サッカーの最大のテーマだ。それがこれだけ1クラブに集中するのは、何か秘密があるのだろうか。
「関西の少年サッカーには型にはまらない指導をしている人が多い。それが独特のリズムをもった選手を生むのかもしれない」
C大阪アカデミーダイレクター兼U-18監督の大熊裕司さんはそう話す。中学1年でC大阪に加入するときには個性と高い技術をもっているというのだ。
南野は大阪府内のゼッセル熊取というジュニアチームで育ち、兄を追ってC大阪のU-15に加わった。すでにゴール感覚やDFをすり抜ける感覚をもっていた。それを消さず、逆に磨き上げながら、細心の注意を払い、タイミングを見てプロで活躍するために必要なメンタル、フィジカルや守備力の強化に取り組んできたという。
「ストライカーというのはもって生まれた素質や感覚の要素が大きい。『育てる』などとはおこがましい。ただ、その素材に指導者が甘えてはいけないと戒めている」
C大阪が一貫して攻撃的なサッカーを志向し、日本人ストライカーで戦おうとしてきたことも、連続して好ストライカーが輩出された要因かもしれないと大熊さんは語る。釜本邦茂を押し立ててチャンピオンになった70年代の「ヤンマー」のころからの伝統だろう。
00年からC大阪の育成部門にたずさわり、現在はスクールを担当する風巻和生さんは、「選手を育てるのは人間を育てること。ご両親、学校、担当コーチ、寮で面倒を見る人びと...。多くの大人が、目先の成果にとらわれずに関わっていくのが大事」と話す。
ストライカーはどう育つのか、C大阪の取り組みが与える示唆は小さくない。
(2010年11月10日)
なぜ「実数発表」が重要なのか、あらためて考えてみたい―。
Jリーグで大宮アルディージャが4季にわたって意図的に観客数を「水増し」していたことが判明した。
Jリーグ規約に基づく「試合実施要項」の第52条「公式記録」の第2項に「観客数は入場者実数を記入」と定められている。観客数の「水増し」はこの条項への違反に当たる。
92年9月5日に最初の公式戦としてナビスコ杯5試合を開催した日からJリーグは「実数」を発表してきた。いまでは当然になったが、当時は衝撃的な出来事だった。スポーツ界では「概数」発表が当然だったからだ。
4万6千席しかない競技場で毎試合「5万6千人」と発表するプロ野球球団があった。6万人が定員の国立競技場で「8万人が熱狂」した競技もあった。日本サッカーリーグ時代には、運営担当者がスタンドを見回して「う~ん、3000人!」などとやっていた。
スポーツに限った話ではない。デモの参加者、出版社が広告主に示す雑誌発行部数...。誰も信じていない数字が、景気づけのためにか、大手を振ってまかり通る文化がある。
だがJリーグは敢然と「実数発表」に踏み切った。なぜか―。
初代・川淵三郎チェアマンが、「お客さま一人ひとりを大切にしなければ未来はない」と考えたからだ。
概数で「3万人」なら、あなたが来なくても「3万人」だ。だが実数で「2万1520人」なら「2万1519人」となる。「実数発表」とは、スタジアムに足を運んでくれた観客一人ひとりを、公式記録、すなわち歴史に残す作業にほかならない。それが「Jリーグの約束」だった。
「実数」の定義は、間違いようがないほど明確に定められている(07年に明文化)。07年にJリーグが年間の総観客数を1100万人にしようという「イレブンミリオン・プロジェクト」を始め、大宮もクラブ独自に年間の観客数目標を決めた。これらの数字が、担当者に何らかのプレッシャーを与えたことは想像に難くない。
だがそれは「姑息(こそく)なごまかし」で済む話ではない。何より実数発表にどんな意味があるか、リーグの根幹にかかわる考え方を理解していなかった。その結果、ファンとの「神聖な約束」を破ってしまった。
大宮1クラブの問題ではない。Jリーグ37クラブ、おそらく1000人を超す役員、スタッフの全員が、自らを真剣に顧みる必要がある。
(2010年10月27日)
10月12日、日本代表はソウルで韓国と0-0で引き分けた。得点こそできなかったが、最後の最後まで攻める姿勢を貫き、内容の濃い試合だった。
ワールドカップの好成績で得た自信と責任感ある態度をベースに、伸び盛りの実力派選手をそろえて、いま日本代表は「中興」とも呼ぶべき時期にある。だがその背後に危機がしのび寄ってきていることから目を背けることはできない。
韓国戦の前日、中国で行われていたAFCU-19(19歳以下)選手権準々決勝で、日本は韓国に2-3で敗れて来年の世界大会出場を逃した。2年ごとのFIFA U-20ワールドカップ。09年大会に次ぎ2大会連続のアジア予選敗退だ。
男子の年代別の世界大会は3種類ある。17歳以下、20歳以下のFIFA大会と、23歳以下のオリンピックだ。17歳以下ではアジア予選を突破できたりできなかったりということが繰り返されているが、20歳以下では95年から07年まで7大会連続で世界大会出場を果たし、準優勝1回、準々決勝進出3回という好成績を残してきた。
そこで得た経験と自信が、96年以来のオリンピックとワールドカップでの4大会連続出場につながってきた。年代別大会の目的は勝利ではなく次代の代表選手の育成だが、最終目標であるワールドカップまでに得られる「対世界」の経験を考えれば、日本にとって重要性は大きい。
何より懸念されるのは、日本のユース年代のレベルが下がっているように感じられたことだ。所属チームの事情などで選出を免除された選手もいるが、それにしてもG大阪のFW宇佐美貴史以外にはこれといった才能は見当たらなかった。不運で負けたわけではない。力で韓国に劣っていた。そしてその韓国は準決勝で北朝鮮に0-2で敗れている。
94年、中田英寿を中心とするU-19日本代表は、インドネシアで行われたアジア予選の準決勝でイラクに3-0で快勝、世界大会への扉を開いた。67年のオリンピック予選(A代表が出場)以来、日本のサッカーにとって、あらゆる年代を通じて実に27年ぶりの「アジア予選突破」という大事件だった。
U-19が「壁」を崩すと、以後、日本はオリンピックとワールドカップでも毎回アジア予選を勝ち抜き、世界大会に出場してきた。U-19から始まった世界大会出場はU-19から終わっていくのではないか...。危機感をもたずにはいられない。
(2010年10月20日)
「もう十分だ。彼はあまりに遠くに行ってしまった」
そのシーンをテレビで見て、オランダ代表のベルト・ファンマルウェイク監督は思わずそう漏らしたという。「彼」とはオランダ代表のMFナイジェル・デヨング。10月3日、所属するマンチェスター・シティ(イングランド)のリーグ戦で、相手チーム選手に左足骨折の大けがを負わせてしまったのだ。
相手はニューカッスルのフランス代表MFハテム・ベンアルファ。キックオフ後わずか3分、相手をかわした直後でよけようのない体勢のベンアルファの左足をデヨングの「カニばさみ」のようなタックルが襲った。脛骨(けいこつ)と腓骨(ひこつ)の両方が折れたベンアルファはショックで気を失った。
不思議なことにレッドカードはおろかイエローカードも出ず、デヨングは90分間プレーして2-1の勝利に貢献した。だが3日後、ファンマルウェイク監督は10月8日のモルドバ戦、そして12日のスウェーデン戦のオランダ代表からデヨングを外すことを発表した。
「試合翌日の朝に電話で彼と話し、今回は代表に呼ばないことを伝えた。彼ほどの力があればあんな行為は必要ないだろうと言ったよ。そして今月の2試合が終わったら会って話そうと約束した」
ワールドカップ決勝戦ではスペインのMFシャビアロンソの胸に跳びげりを食らわしてやはりおとがめ無しだったデヨング。今回は「厳しい制裁が必要」と話題になっているが、公式の処分を待たず、代表監督が自主的に制裁を下した形だ。
ただ、会見でファンマルウェイク監督が最後に語った言葉は、人間味にあふれ、なかなか味わい深かった。
「この決定はけっして胸を張れるものではない。勝者などなく、敗者がいるだけだからだ。何よりもベンアルファ。彼には一日も早い回復を祈りたい。ナイジェル(デヨング)も敗者だ。人間としては性格も良く、勝者のメンタリティーの持ち主なのに...。そして私自身も敗者と言える。とても大事な選手を使えないのだから」
勝利を求めてプレーする以上、時としてファウルもイエローカードも避けることはできない。しかし自制心を失って相手に大けがを負わせるようなラフな行為がまかり通ったらサッカーは死ぬ。
選手、監督、審判など立場を超え、サッカーに関わるすべての人が、その区別を明確につけ、こうした行為を撲滅する責任を負っている。
(2010年10月13日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。