
「誠心誠意、心をこめて試合を担当する」(西村雄一主審)
「メード・イン・ジャパンの機械のように正確な判定をしたい」(相樂亨副審)
「韓国レフェリーの名誉のために全力を尽くす」(鄭解相副審)
5月22日夜、ワールドカップ南アフリカ大会に出場する3人の審判員のトークショーが東京都内で開かれた。解説でおなじみの金田喜稔さんの軽妙で情熱的な司会で楽しい話が続き、会場が沸いた。
今回のワールドカップには、30組、90人の審判員が指名されている。基本的に同じ国あるいは同じ言語を話す主審1人と副審2人が「チーム」をつくり、試合の担当をする。06年大会からの形だ。そのうちの1組に、西村主審(38)、相樂副審(33)、鄭解相(チョン・ヘサン)副審(38)のトリオが選ばれた。3人とも審判員を職業とする「プロ」だ。
日韓の審判員がチームを組むのは、06年大会の上川徹主審、廣嶋禎数副審、そして金大英(キム・デヨン)副審と同じ。このトリオは運動量と正確な判定で評価を受け、3位決定戦を含む3つもの試合を任された。それだけに「チーム西村」にかかる期待も大きい。
しかし西村主審はこう話す。
「1次リーグの1試合が決勝戦のつもり」
ワールドカップでは決勝戦を担当する審判がナンバーワンというわけではない。決勝戦に出場する強豪国の審判には、絶対にそのチャンスはないからだ。
06年大会のように、日本と韓国がともに1次リーグで敗退すればチャンスが広がる。逆に勝ち進めば、「チーム西村」は大会途中で「お役ご免」となる可能性が高くなる。
「でも、私たちが審判をしているのは、日本のサッカーを良くしたいという思いから。チームが勝って自分たちが帰国するなら、こんなにうれしいことはない」(西村主審)
強いリーダーシップを感じさせる西村主審。明るい性格の相樂副審。そして穏やかな笑顔を絶やさない鄭副審。07年に韓国で開催された17歳以下のワールドカップで初めてトリオを組んで3年。3人は互いを理解し合い、尊敬し合い、そして励まし合って国際舞台の経験を積んできた。
ワールドカップ2回目の上川主審を中心に重厚感を感じさせた前回のトリオと比較すると、30代で固めた「チーム西村」はより前向きで、「プロ世代」の明るさを感じさせる。日韓両チームとともに、3人の審判員の奮闘にも期待したい。

左から西村雄一主審、相樂亨副審、鄭解相副審。
(2010年5月26日)
「マカラパ」とは、南アフリカの公用語のひとつであるコサ語で「鉱山労働者の帽子」という意味だという。
3週間後に迫ったワールドカップ南アフリカ大会。その主役の一翼を、けたたましい音を出すサポーターホーン「ブブゼラ」とともに、このマカラパが担うのは間違いない。
マカラパは南アフリカのサポーターたちが誇る応援アイテム。派手でカラフル。どこにでもある工事用のヘルメットを改造したものだが、想像を絶するデコレーションが施されている。ボールやチームエンブレム、選手やカップなど、これでもかというほどに飾り付けられているのだ。
「マカラパ物語」は1979年に始まる。当時21歳だったアルフレッド・バロイは人気クラブ「カイザーチーフス」の熱烈なサポーターだったが、ある試合でスタジアムの二階席から飛んできたビンが友人の頭を直撃しそうになったのを見た。「これは危険だ」と感じたバロイは、ヘルメットを入手し、カイザーチーフスのクラブカラーである黄色と黒に塗って次の試合に着用していった。
それを見た仲間のサポーターたちが「譲ってほしい」と言い出した。バロイは小学校しか卒業していなかったが、驚くべきデザインの才能を発揮、次々と独創的なマカラパを製作しては配った。やがてその評判が広まると、バロイはバス洗車係という仕事をやめ、マカラパ製作で生計を立てるようになる。
90年には新しいアイデアが盛り込まれる。ヘルメットの一部をデザインに添って切り抜き、加熱して垂直に立てて色を塗ったのだ。世界に類を見ない楽しさにあふれたものが出来上がった。やがてマカラパはサッカーに限らずスポーツ応援一般にも広まっていく。そしてバロイは「教授」の名で尊敬を集めるようになる。
1個1個完全な手作りで、世界にただひとつのマカラパ。しかし昨年にはワールドカップでの需要を見越して「切り抜きロボット」を導入、量産態勢を取る会社も現れた。当然「日本代表版」も作られている。だがペイントは相変わらずの手作業。「世界にひとつ」に変わりはない。
「本当に南アフリカに来たことを証明したいのなら、マカラパを買って帰ることだね」
バロイにそう言われるまでもなく、誰もが欲しくなるマカラパ。デザインによって値段は300ランド(約3600円)から500ランド(約6000円)と様々だという。
(2010年5月19日)
考えに考えた末だったのだろう。ワールドカップ出場メンバー発表の席上、日本代表の岡田武史監督は、手にしたリストに目を落としながら、ゴールキーパーの3人目に川口能活(34)の名を挙げた。
過去3回のワールドカップで試合に出場した日本のGKは2人だけ。98年フランス大会では川口が全3試合に出場し、地元開催の02年には楢崎正剛が4試合プレー、06年ドイツ大会では川口が3試合ゴールを守った。そして今回の南アフリカ大会、再び楢崎が第1GKとして大会に臨む。
23人中ワールドカップ経験者が8人、出場試合数の総計がわずか25というなかで、3人のGKのうち2人が出場4大会目というのは心強い。だが今回は大きく事情が違う。過去3大会、川口と楢崎は「第1」でない場合には「第2」だった。しかし今回の「第2」は川島永嗣。川口は最初から「第3GK」と指定されているのだ。
大会規定により23人のうち3人はGKでなければならない。2人だけだと、第1GKが故障や出場停止の場合に控えGKなしとなるからだ。だが実際には第3GKがピッチに立つことはまずない。06年大会では32チーム中9チームが2人のGKを使い、残りの23チームは1人のGKだけで戦った。3人使ったチームは皆無だった。
だが、いや、だからこそ、第3GKはチームにとって重要な存在となる。大会中、試合に出ていない選手のモチベーションはどうしても下がりがちになる。出場の可能性が最も低い第3GKが明るく元気に練習に取り組み、ベンチから声を出していれば、チームの雰囲気は前向きになり、結束も強まる。
川口は20歳で日本代表となり、22歳でワールドカップに出場、代表出場116試合という大スターである。岡田監督になってからも信頼は厚かったが、一昨年に第1GKの座を楢崎に明け渡し、昨年には選出からももれるようになっていた。そして昨年9月には右足のすねを骨折するという大けがを負った。
だが岡田監督は、呼ばなくなった後も川口の取り組む姿勢をずっと見ていたという。そしてまだJリーグには出ていないものの4月下旬から練習試合には出場している状況を確認し、「第3GKとしてどうしても必要な存在」(岡田監督)と招集を決めたのだ。
11人での戦いではない。「第3GK・川口能活」の存在が、日本代表にチーム一丸の戦いをもたらしてくれるに違いない。
(2010年5月12日)
ワールドカップ南アフリカ大会の公式ソングが決定した。
コロンビアの人気女性歌手シャキーラと南アフリカの人気グループ「フレッシュリーグラウンド」が歌う『タイム・フォー・アフリカ』。スリナムのグループ「トラファシ」が歌った『ワカ・ワカ』をベースにした、思わず踊りだしたくなるような軽快な曲だ。公式のビデオクリップには阿部勇樹(浦和)も一瞬登場する。
開幕まで7週間余り。ワールドカップ南アフリカ大会は、たくさんの音楽に囲まれた楽しい大会になるだろう。そしてそのなかに、間違いなく最も多くの人に合唱されるひとつの曲がある。南アフリカ共和国国歌だ。
1997年に制定されたこの曲は、おそらく世界中の国歌のなかで最も風変わりなものだろう。ふたつのまったく違ったタイプの曲をつなぎ合わせただけでなく、なんと5種類もの言語の歌詞が使われているからだ...。
独立はいまからちょうど百年前の1910年。その10年ほど後につくられ、57年に正式に国歌として認められたのが『南アフリカの呼び声』と呼ばれる曲だった。英国国歌を思わせる荘厳な調子の曲だ。歌詞はアフリカーンス語。白人の多数派であるオランダ系の人びとの言葉だ。
それに対し、20世紀初頭から黒人たちの間で賛美歌として広く歌われるようになったのが『神よアフリカに祝福を』である。歌詞はこの国の黒人の主要言語のひとつであるコサ語だった。だがこの曲はやがて反アパルトヘイト(人種隔離)活動を象徴する曲として歌われるようになり、一時は禁止された。
アパルトヘイト撤廃後、ふたつの曲はともに国歌として認められて共存していた。だが97年、人種間の対立を解消しなければこの国の未来はないと考えたネルソン・マンデラ大統領は、ふたつの国歌を合体させ、5つの言語で歌わなければならないという大統領令を発布したのだ。
コサ語で歌い出された曲はやがてズールー語となり、二番はソト語で歌われる。そして曲調が一転、アフリカーンス語となり、英語でしめくくられる。
「互いに手をたずさえなさいという声が聞こえる。私たちは団結し、立ち向かう」(英語歌詞の一部)
音楽と歌にあふれた2010年ワールドカップ。大会は、6月11日、メキシコと対戦する南アフリカの、9万人の大合唱を合図にキックオフされる。
(2010年4月28日)
サッカーではごく希に説明不能なことが起こる。下あごの骨折という大けがから復帰した中村憲剛(川崎)のプレーには理屈を超えた「サッカーの神様」の存在さえ感じる...。
2月23日、AFCチャンピオンズリーグの城南(韓国)戦の前半15分に負傷。顔つきが変わるほどの重傷だったが、彼は90分間戦い抜いた。帰国後4時間にわたる手術を受け、2週間後にようやく退院。実戦復帰は4月14日、因縁の城南とのホームゲームだった。
川崎が2-0とリードして迎えた後半、城南が捨て身の攻勢に出た。その勢いを止めようと、後半21分、高畠勉監督は背番号14、中村を送り込んだ。
笑顔だった。ちょうど50日ぶりのピッチ。不安よりも喜びが大きかったに違いない。
驚くべき25分間が始まった。はいってわずか1分後にはワンタッチで鮮やかな浮き球のパスを出し、FW黒津を抜け出させて3点目につながるPKを生み出した。その後も、中村が触れるたびにボールは生命を吹き込まれたように味方に渡り、次のプレーを促した。
4月18日のJリーグ浦和戦では、0-2とリードされた後半からの出場だった。やはりこのときも出場してすぐにPKにつながる決定的なパスを出した。
中村は日本代表でも中心のひとりであり、川崎では絶大な信頼を置かれるプレーメーカーだ。けがから復帰したばかりで大活躍しても何の不思議もない。しかしそれにしても、この2試合、70分間の中村のプレーの冴えはどうだろう。不自然なものさえ感じるのは私だけだろうか。
あごを砕かれるという悪夢、全身麻酔での長時間の手術、流動食だけの生活、2週間にわたる入院生活...。その苦しみのなかで、中村は何を考えていたのだろうか。きっと、サッカーに対する恋い焦がれる思いのようなものだっただろう。
そしてピッチに解き放たれたとき、彼は不思議なほどに研ぎ澄まされた感覚を味わっていたに違いない。これまでとはコンマ何秒か早く、これまでより広く次の展開が読める。そして彼自身は、自分でも驚くほど冷静にそれを見ている―。
中村憲剛の上に、いま「サッカーの神様」が舞い降りている。
「この怪我には何か意味があったんだと思うようにしています」
手術の2日後、流動食ものどを通らない苦痛のなかで、彼は自分自身のブログにそう書いた。たしかに、苦しみを乗り越えて、中村憲剛は新しい境地に到達した。
(2010年4月21日)