サッカーの話をしよう

No.786 セルビア戦を転機に

 「ベスト4」という言葉が、すっかり聞かれなくなった。
 「ワールドカップ出場国」といっても若手主体のセルビアに0-3の完敗を喫し、日本代表に再び懸念の声が上がっている。
 「だいじょうぶか」の声は、「ベスト4」の目標ではなく、4年前のように1試合も勝てずに敗退が決まることになるのではないかという心配だ。
 ワールドカップ初戦のカメルーン戦までちょうど2カ月というのに、期待が高まるどころか、主力の故障や疲労蓄積などでしぼむ一方だ。ロシアのCSKAモスクワに移籍後、得点を量産している本田圭佑が唯一の希望といったところか。
 98年フランス大会、地元開催の02年大会、そして06年ドイツ大会に続き、日本のワールドカップ出場は4大会目ということになる。過去3大会の通算成績は10戦して2勝2分け6敗、総得点8、総失点14。しかもこのうち2勝1分け、得点5は「ホーム」で記録したもの。アウェーでは、6戦して1分け5敗、得点3、失点11。獲得した勝ち点はわずか1というのが現実だ。だが、それ以上に注意を払わなければならないのが、「通算10試合」という数字だと思う。
 過去80年間、18回のワールドカップで優勝を経験したことのある国はわずか7。第二次世界対戦前の3大会で優勝したウルグアイとイタリアを除けば、初優勝までに費やした試合数は、ドイツ(西ドイツ)が最短で12試合。続いてイングランドが20試合、ブラジルが22試合、アルゼンチンとフランスに至っては、実にワールドカップ41試合目で悲願をかなえている。
 今大会の優勝候補と言われている国ぐににも、屈辱にまみれ、国民を失望させ続けた時代があったのだ。10試合程度の出場で何か大きなものを期待するのは、ごう慢というものではないか。
 ただ私は、岡田監督が「ベスト4」という目標を掲げたことが間違いだったとは思わない。その「志」を吹き込んだから、昨年の後半に日本代表は大きく伸びたのだ。残念ながら、同じ意識をもって年を越した選手は多くはなかったが...。
 その日本代表にとって、セルビア戦は重要な転機になるのではないか。スタジアムを久びさに満員にしたホームでの完敗。試合終了とともに起こったサポーターからの大ブーイングを、選手たちは、ワールドカップに向けて危機感を高め、再び高い意識で団結する力にしてほしいと思う。
 
(2010年4月14日)

No.785 読売・ヴェルディの40年間

 FC東京と東京ヴェルディの初対戦は1970年5月?
 日本サッカー史をこれまでにない角度から俯瞰できる画期的な本が完成した。『クラブサッカーの始祖鳥 読売クラブ~ヴェルディの40年』。昨年クラブ創設40周年を迎えた東京ヴェルディの記念誌である。
 ヴェルディの前身は読売サッカークラブ。企業スポーツが全盛期を迎えようとしていた1969年に、専用の施設をもった本格的なスポーツクラブとして誕生した。近い将来のプロ化を見据え、読売新聞社の正力松太郎社主の「鶴の一声」で動きだしたプロジェクトだったという。
 東京社会人リーグの2部からスタートし、4年目の72年には初年度の日本サッカーリーグ2部にと、とんとん拍子で昇格。この年にブラジルから日系二世のジョージ・ヨナシロ(与那城)を加え、翌73年にはオランダ人のバルコム監督を迎えて独特なサッカーを形づくっていく。
 「クラブ」の特色を最も強く示したのは選手育成だった。読売クラブはその初期から少年チームやユースチームをもち、指導に力を注いできた。やがてそのなかから戸塚哲也、都並敏史といった日本代表選手が生まれ、チームをけん引していくことになる。
 選手として活躍できなくても、指導者としてこつこつと仕事をしている人もいる。メディアの世界で活躍している人もいる。昨年、日本テレビが経営から撤退。クラブを引き継いだのは、ユース出身の崔暢亮氏(現会長)を中心とするグループだった。
 記念誌のページを追っていくと、「クラブ」とは「人づくり」の場であり、このクラブが実に多くの人材を育ててきたことが実感できる。その人材こそクラブの宝であり、「再生」のための最大の力に違いない。
 300ページを超す本の約3分の1は、編集作業の中心となった牛木素吉郎さんによると「最も苦労した」という記録集。そのなかに、70年の東京社会人リーグ1部の第2節に「東京ガス」と対戦して3-5で敗れたという記録がある。「東京ガス」とは、もちろん現在のF東京。この試合こそ、今日の「東京ダービー」の第1戦ということになる。
 当時は、まったくの「異端」だったクラブサッカー。その視点から編まれた1冊は、日本のサッカー史に新たな側面から投げかけられた光といえる。


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(2010年4月7日)

No.784 Jリーグ 怠慢な行為の一掃を

 先週土曜日の平塚競技場。競り合いの後ピッチに倒れたままの湘南DF山口貴弘。西村雄一主審が走り寄っていく。だが湘南のドクターは西村主審の合図を待たずにピッチに走り込んだ。山口選手の様子を見た相手チーム新潟のDF内田潤が、「早くきて!」と合図をしたからだ。
 「対戦相手も同じサッカーをする仲間」。迷うことなくドクターを呼んだ内田選手の態度は、見ていて気持ちの良いものだった。
 開幕1カ月、Jリーグは4節まで進んだ。スペインからMF中村俊輔が復帰した横浜FMが人気を呼んでいるが、全般的には観客数は昨年とほぼ同じ。どのクラブも観戦環境の改善に努めているもののファン増加には結び付いていない現状だ。
 Jリーグがスタートして17年。競技レベルは飛躍的に上がっている。しかしスタート当初と比較すると、最近の試合には「伝わってくるもの」が少ないように感じる。あの当時はどの試合にも異常なまでの熱気があった。スタジアムに人を吸い寄せたのは、間違いなくその熱気だった。
 「熱気」は、選手たちの「心意気」と言い替えてもいい。毎試合毎試合、選手たちは人生をかけたようなプレーを見せていた。ひたすら相手ゴールを目指し、90分間にすべてを注ぎ込んだ。あのころファン層が一挙に広がったのは、選手たちの心意気を多くの人が感じ取ったからだった。
 試合運営の努力だけでは限界がある。観客を増やすには、肝心の試合自体で、ファンの心をわしづかみにしなければならない。
 何よりも、現在のJリーグにまん延している怠慢な習慣を一掃する必要がある。
 CKやFKになったら、守備側も攻撃側も走ってポジションにつき、時間をかけずにリスタートする。守備もすみやかに規定の距離(9・15メートル)離れる。交代時には点差に関係なくきびきびと走って退出する。ファウルを受けてもケガをしたのでなく痛いだけならすぐに立ち上がる...。
 技術も才能も必要はない。誰にもできる簡単なことだ。必要なのは、クラブやJリーグの存亡が自分自身の行動にかかっているという自覚を、選手自身がもつことだけだ。
 先週土曜の湘南×新潟は、冒頭で紹介した内田選手のような成熟した人間的な判断に基づく行為とともに、相変わらずの怠慢が交錯した。ここから怠慢な習慣を差し引いたら、17年前をはるかに凌駕する、心躍る試合になるはずなのに...。
 
(2010年3月31日)

No.783 南アフリカ伝説の名手

 現代のヨーロッパ・サッカーを、アフリカ人選手抜きに語ることはできない。ポジションを問わず、アフリカ出身選手が各国のビッグクラブで不可欠な存在として活躍中だ。
 最初に世界的な名声を受けたアフリカ人選手は、ポルトガルのベンフィカで活躍したモザンビーク出身のエウゼビオだった。1961年にデビュー、猛烈な得点力を見せた。
 しかしエウゼビオが登場する6年も前に、アフリカからやってきてヨーロッパのサッカー界を驚かせたひとりの選手がいた。スティーブ・モコネ。「黒い流れ星」と呼ばれた南アフリカ出身のストライカーだ。だが数奇なキャリアを送った彼は、いま、サッカー史のなかで忘れられた存在になっている。
 1932年ヨハネスブルク生まれ。物心つくころにはサッカーで飛び抜けた才能を示していた。弁護士にしようと考えていた父親は彼を遠くダーバンの中学に送りサッカーを忘れさせようとしたが成功せず、彼は16歳で南アフリカ代表に選ばれるまでになった。
 その才能に目をつけたのがイングランドのコベントリー。父親の反対を押し切って18歳でプロ契約。彼はヨーロッパのプロでプレーする最初のアフリカ出身黒人選手となった。
 天賦の才は明白だった。だがロングボール主体のイングランドでは天才を生かすことはできなかった。3年後、彼はオランダのヘラクレスに移籍する。
 デビュー戦で2得点を決め、彼はオランダ西部のアルメロという小さな町のヘラクレスをオランダ・チャンピオンに導く。それからは、毎年のようにクラブを移った。フランスのマルセイユ、イタリアのトリノなど行く先ざきで彼はマジックのようなプレーを見せ、得点を重ねて「最高級のスポーツカー」と称賛された。イタリアのある専門家は「ペレに匹敵する天才だった」とまで評している。
 1964年、アメリカでプレーした後に引退。大学に通い、心理学の博士号を取得、大学教授の職についたが、妻への暴行容疑で有罪判決を受け、9年間の服役を余儀なくされた時期もあった。
 1955年から40年間も祖国を離れ、忘れられた存在だったモコネの功績が認められたのは1996年。彼は南アフリカのスポーツ選手を援助する財団を設立、2003年には南アフリカ政府から勲章も受けた。3月23日、モコネは「第二の故郷」となったニューヨークで、78回目の誕生日を静かに迎えた。
 
(2010年3月24日)

No.782 データが生んだロングボール戦術

 いまからちょうど60年前、1950年3月の土曜日の午後、チャールズ・リープ(48)は突然あることを思いつき、ひざを叩いた。
 この日、彼はイングランド・リーグ3部のスウィンドン対ブリストルの試合を観戦していた。ひらめきが訪れたのは、ハーフタイムのことだった。さっそく彼は上着のポケットからノートと鉛筆を取り出すと、後半の開始を待った。そして熱心な調査が始まった。
 リープは20年ほど務めた空軍から退役し、会計士として働いていた。生活には困らないものの平穏無事な会計士の仕事のなかで、彼は何か情熱を傾けられるものを求めていた。それがこの日、天啓のように訪れたのだ。
 得点につながったパスの数を数える―。単純なことだが、思いついた者はいなかった。やがて彼は予想外の結果を得て驚く。そして論文を「試合分析」という雑誌に投稿する。
 「得点が生まれたケースの85%において、パスの数は3本以内であった」
 このデータに基づいて、彼は「ボールを奪ったらできるだけはやく相手ゴール前に放り込むべき」という戦術を主張したのである。
 彼の主張に興味をもった者は多くはなかった。しかし数少ない例外だったウォルバーハンプトンのスタン・カリス監督はリープ発案のロングボール戦術を徹底した。そして54年に1部リーグ初優勝、58、59年には連覇を飾り、クラブに黄金時代をもたらした。
 この成功はイングランド全体に影響を及ぼした。イングランド協会の技術部長であったチャールズ・ヒューズはリープの主張を発展させ、相手のペナルティーエリアに送り込むパスの数で勝負が決まると強調した。
 リープのデータほどではないが、得点が生まれる状況というのは今日でも大きな違いはない。06年ワールドカップ後の日本サッカー協会の技術報告によれば、得点に至るパスが3本以内だった割合は98年が51%、02年が61%、そして06年が47%と相変わらず高い。
 だがとにかく相手ゴール前にボールを放り込めというロングボール戦術など今日では過去の遺物だ。正確なパスで中盤を制し、試合を支配することが、結局は「パス3本でシュート」という状況を増やし、逆に相手にはこのようなチャンスを与えにくくすることが理解されているからだ。
 データは重要なことを教えてくれる。しかしサッカーに対する大局的かつ総合的な理解からそれを使いこなすことが何より大事だ。
 
(2010年3月17日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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