サッカーの話をしよう

No.776 コンセプトより勝負にこだわれ

 「ベネズエラとの親善試合は昨年の復習の機会にしたい。そして東アジア選手権の3試合では、(1年間で)われわれがどれだけステップアップできたか確認したい」
 2月2日のベネズエラ戦(大分)を経て、6日から14日にかけて東京で開催される東アジア選手権で中国、香港、韓国と対戦する日本代表。「2月シリーズ」の4試合を、岡田武史監督はこのように位置付けている。
 1月28日にオフ明けのトレーニングを開始した直後の4試合。だが昨年11月の香港戦を最後にチームを解散する際、岡田監督は選手たちに「宿題」を課している。調整不足という選手などいるはずがない。「ステップアップを確認」という言葉に、岡田監督の自信がうかがえて頼もしい。
 だが私は、東アジア選手権の3試合は徹底的に勝負にこだわるべきだと考えている。
 この大会は公式戦である。過去3回、日本はすべて2位で、優勝がまだない。そして今回はホームである。それだけではない。ワールドカップまでに勝負にこだわることができる機会は、この大会しかないからだ。
 岡田監督は常に「チームコンセプト」を口にする。チームとしてやるべきサッカーを徹底することこそ、「ワールドカップ・ベスト4」への道だと語る。昨年の強化試合はそこに重点が置かれていた。勝つために全力を尽くすことは大前提だが、評価の基準は常に「コンセプトを実現できたか」だった。
 だがワールドカップではコンセプトをベースにしながらも勝負にこだわらなければならない。「コンセプトを徹底し、見事なサッカーができた。だが負けた」でいいと考える選手などいない。「コンセプト」とは、勝利という結果を出す手段だからだ。
 2003年12月に東京で行われた第1回東アジア選手権の最終日。試合開始早々に退場で1人減りながらも、日本代表は韓国を相手に猛攻を仕掛けた。だが日本が「攻勢」をとることができたのは、韓国が勝負にこだわったからでもあった。
 それまでの2試合の総得点数で上回る韓国は、日本と引き分けなら優勝という立場だった。だから前年のワールドカップで4位というプライドなどかなぐり捨て、10人の相手の攻撃をはね返すことに集中した。そして「初代東アジアチャンピオン」の座を手にした。
 「勝負にこだわる」ことから得られるもの、見えてくるものも、小さくはない。
 
(2010年1月20日)

No.775 2万人を突破するために

 年が明けたと思ったら、早くもJリーグのクラブがトレーニングを開始した。J1、J2計37クラブの先頭を切って、浦和レッズが11日に始動したのだ。
 18シーズン目のJリーグ。ギラヴァンツ(旧ニューウェーブ)北九州を加え、J1が18、J2が19、計37クラブとなった。旧日本サッカーリーグ以来27シーズンも日本のトップリーグの地位を守ってきたジェフ千葉が、柏レイソル、大分トリニータとともにJ2に降格、代わってベガルタ仙台、セレッソ大阪、そして湘南ベルマーレがJ1に昇格する。
 J1、J2など全公式戦を合わせて入場者総数年間1100万人(イレブンミリオン)を目指すJリーグ。昨年は962万3584人を記録したが、「看板」のJ1の入場者は1試合平均1万9127人。前年より、わずか(152人)ながら減少した。
 世界をリードするヨーロッパのサッカーリーグは、テレビ放映権料の高騰で収入を伸ばし、世界中からスター選手を集めることに成功した。だがJリーグの放映権料はヨーロッパの一流クラスと比較すると10~20分の1程度にすぎない。長引く不況でスポンサー収入の伸びも見込めず、どのクラブも厳しい経営が続いている。
 この状況で大事なのは「仲間」を増やすこと。サッカーファン、クラブのサポーターを増やし、一人でも多くスタジアムに足を運んでもらうことだ。満員のすばらしい雰囲気のなかで試合をしていれば、やがて経済が上向いたときスポンサーも放映権収入もついてくるはずだ。J1では過去にない1試合2万人以上を実現することが今季の目標だ。
 ではどんなことをしたら観客が増えるのだろうか。ひとつのヒントを昨年南アフリカで見た。「フットボールフライデー」。金曜日には何でもいいからサッカーのユニホームを身に着けるという運動だ。職場が、学校が、そして街角がカラフルなユニホームであふれ、ワールドカップの話題が盛り上がり、関心も増しているという。
 たとえば浦和で、ホームゲーム前日に、翌日スタジアムに行かない人もどこかに赤いものを身に着けるという運動はどうだろうか。Jリーグ新加入の北九州なら、当然黄色(ギラヴァンツのクラブカラー)だ。
 うまく広まれば町の人びとの心をつなぎ、ウキウキするような空気が生まれるだろう。そしてそれは、必ず観客数増にも結び付く。
 
(2010年1月13日)

No.774 ダニー・ジョーダンの夢

 ダニー・ジョーダン(58)がワールドカップを南アフリカに招致しようと決心したのは、1994年6月、アメリカ・シカゴでワールドカップ開幕戦を観戦した帰国の機内だったという。
 この時期、彼の人生は激動期にあった。
 ジョーダンは51年にポートエリザベスで生まれ、大学を卒業すると教師として働きつつ一時はプロサッカー選手としても活躍、32歳で引退した後は地域のサッカー協会の役員を歴任していた。
 その一方で、彼は学生時代から反アパルトヘイト(人種隔離)活動にかかわっていた。イタリアでワールドカップが開催された90年の2月にネルソン・マンデラが釈放され「革命」に向け大きく前進すると、ジョーダンはポートエリザベスで新国家樹立のための委員長に任命される。
 そして94年4月に初めて行われた全国民による選挙で、彼は国会議員に選出される。42歳。自らの仕事も南アフリカという国の未来もまだ混迷のさなかだった。そんな時期にワールドカップ招致を決心したのだ。
 97年に南アフリカサッカー協会の執行理事に就任すると精力的に活動を始め、FIFAの仕事も歴任した。06年大会の招致はもう一歩でならなかったが、04年5月15日、ついに10年大会の南アフリカ開催が決まった。以後、地元組織委員会の委員長として休む間もなく走り続けてきた。
 「サッカーが好きなら、誰でもワールドカップを夢見る。しかし大会が始まってふたつ目の世紀にはいったというのに、それを開催した国は南アフリカを含めわずか16カ国にすぎないんだ。本当に特別な瞬間だと思う」
 昨年11月にジョーダン委員長にインタビューする機会があった。彼の青年時代には南アフリカはFIFAから追放されており、ワールドカップを夢見ることさえ不可能だった。自国開催のワールドカップを目前にした思いをたずねると、彼は一瞬遠くを見て、ゆっくりと、そして情熱的な口調でこう答えた。
 「世界中の人びととの交流を通じて、南アフリカの人びとは自分たちの国を、自分たち自身をより深く理解するようになる。私たちの国は、この大会を通じて確実により良い場所になる。」
 2010年の最大のイベント、ワールドカップ南アフリカ大会は、ダニー・ジョーダンというひとりの男の、サッカーへの情熱と、南アフリカの人びとの幸福を願う思いの結晶にほかならない。
 
(2010年1月6日)

No.773 ワールドカップの父 村田忠男さんを悼む

 90年代に日本サッカー協会専務理事、副会長、アジアサッカー連盟副会長などを歴任された村田忠男さんが、先週金曜日、肺がんのため永眠された。77歳という若さだった。
 日本のサッカーファンにとって「ワールドカップの父」とも言うべき人だった。
 2002大会の招致を目指して日本サッカー協会が招致活動を始めたのは1990年のことだったが、そのけん引車役が村田さんだった。だが当時の協会は「ワールドカップ開催など夢のまた夢。日本代表が出場することが先決」という空気が支配的だった。
 Jリーグ誕生前、日本のサッカーはまだマイナーの地位を抜け出ていなかった。村田さんは持ち前の笑顔で周囲を説き続け、ついには政界・財界をまき込んだ「招致委員会」の設立にこぎつけた。
 そして精力的な招致活動が始まる。村田さんの功績は、南米サッカー連盟の厚い信頼を得たことだった。81年に始まったトヨタカップを通じてできたつながりを生かし、南米連盟の人びとと強いきずなをつくった。
 南米連盟あるいはその役員たちに「利益」をもたらしたわけではない。村田さんの飾らない人柄と、相手のことを心底から気遣う親切が、南米の人びとの心をつかんだのだ。最終的に日本単独開催はならなかったが、南米連盟の強力な支援なくしてワールドカップ日本開催はなかった。日本の人びとが地元でワールドカップを楽しむことができたのは、村田さんの豊かな人間性のおかげだった。
 その2002年大会の36年も前、村田さんは日本にひと粒の小さな種をまいた。英国のBBC放送との交渉をまとめ、66年ワールドカップ・イングランド大会の決勝戦のフィルムを日本に持ち帰ったのだ。そのフィルムは、7月30日の決勝戦のわずか8日後、66年の8月7日(日)の午後4時半からTBSで放送された。日本で初めてのワールドカップ放映だったはずだ。
 その後、その放送を見たという人に私は出会ったことがない。急に決まった番組で、視聴率など微々たるものだったのだろう。だが当時中学3年生だった私は、まったくの偶然で、イングランドが延長の末西ドイツを降した試合を見た。そして雷に打たれたような衝撃を受け、夏休みが終わるのを待ちかねるようにサッカー部に入部届けを出した。
 ひとりの人間の努力が社会に与える影響の大きさを思わずにはいられない。合掌。


no773_09_12_16用1995年6月村田忠男さん(撮影今井恭司)_2.jpg
1995年6月村田忠男さん(右)と著者 (撮影今井恭司)
 
(2009年12月16日)

No.772 ワールドカップ組分け決まる

 「同じ組の他の3チームは、そろって、最も弱いのは日本と考えているだろう」
 来年のワールドカップ1次リーグでの日本の対戦相手が決まった。アフリカの雄カメルーン、優勝候補の一角オランダ、そしてヨーロッパ予選で最大のセンセーションとなったデンマーク。世界のメディアは、冒頭のコメントのように、日本が決勝トーナメントに進出する可能性はほとんどないと、手厳しい。
 日本国内でも「難しい組にはいった」という論評が少なくない。だがそんなことは抽選の結果を待つまでもなく明らかだった。
 アジアの他の国とは同じ組にならないことは最初から決まっていた。抽選の手順が決まった時点でオセアニアおよび北中米カリブ海地区のチームとも当たらないことになった。トップシードの1チーム、ヨーロッパから1チーム、そしてアフリカあるいは南米から1チームという組では、どんな抽選結果でも世界の目から見れば「最下位候補は日本」となるのは当然だ。
 オランダでは、抽選の最後の段階でくじが引かれた「ヨーロッパ枠」からポルトガルがはいらなくてよかったとの声が高いらしい。しかし日本にとってはデンマークもポルトガルも大差はない。なにしろデンマークは、予選でポルトガルに1勝1分けと勝ち越しているのだ。
 対戦チームについての情報収集は重要だ。しかし「勝てるかどうか」という予想など何の意味もない。動かしようのない世界の評価を覆すために、日本代表が最大限の力を発揮できるよう、最大限の支援をしていくほかはないのだ。
 現在の日本代表には明確な長所がある。中盤の正確なパスワークだ。世界に知られているのは中村俊輔だけだが、遠藤保仁、長谷部誠、中村憲剛ら、彼に劣らない力の持ち主がそろっている。日本がパスを回し始めたら、どんな強豪でもボールの奪回に苦労するはずだ。しかし世界はその真の力を認識していない。それが日本の大きなアドバンテージだ。
 今後積み上げなければならないこともある。だが長所を勝利に結び付けるために最も重要なのはコンディショニングだ。初戦、6月14日のカメルーン戦で、フィジカル、メンタルの両面においていかにいい状態にもっていけるか、それが重要な課題となる。
 自らの位置を明確に認識し、相手を恐れずに最大の武器を生かし切る―。日本のワールドカップの戦いは、非常にシンプルだ。
 
(2009年12月9日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

アーカイブ

1993年の記事

→4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1994年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1995年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1996年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1997年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1998年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1999年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2000年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2001年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2002年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2003年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2004年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →9月 →10月 →11月 →12月

2005年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2006年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2007年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2008年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2009年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2010年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2011年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2012年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2013年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2014年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2015年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2016年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2017年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2018年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2019年の記事

→1月