
「私はサッカーには興味はなかったの」
そう話したのは、南アフリカ、ブルームフォンテンのゲストハウス(民宿)の女主人、ヘティさんだった。
わずか1週間だったが、FIFAコンフェデレーションズカップの南アフリカ滞在はとても楽しかった。その楽しさの最大の要因を考えてみると、ヘティさんのゲストハウスの快適さと、彼女自身の心からのホスピタリティーだった。
ブルームフォンテンでその夜の宿泊先が見つからず、途方に暮れていた記者仲間の原田公樹さんと私は、幸運が重なってヘティさんの家にお世話になることになった。そして結局、4日間をそこで過ごすことになる。
2人のお子さんがずいぶん前に独立し、昨年ご主人を亡くしたヘティさんは、通いメードのカトリーナさんと2人で4つの客室をもつゲストハウスを切り盛りしている。
手入れの行き届いた前庭、冬というのに花であふれ、3匹の犬と1羽のカモが兄弟のように戯れる裏庭。おそらくかつて子ども部屋だった客室は、家庭的な温かさにあふれていた。霜が降りるほど冷え込んだ深夜、取材から戻ると、部屋には小さな明かりがともり、暖房がはいり気持ち良く暖められてあった。
そのヘティさんがサッカーに興味を持たなかったのは、「サッカーは黒人のスポーツ」というイメージがあったからだという。
ヘティさんは「アフリカーナー」。オランダ系の白人である。白人の間で圧倒的な人気を誇るのはラグビーで、これまではサッカースタジアムで白人の姿を見ることさえ珍しかったという。アパルトヘイト(人種隔離)が終結して15年、差別は無くなっても、黒人と白人は居住地域が分かれているだけではなく熱狂するスポーツまで別々だったのだ。
「それがね、この大会(コンフェデ杯)をテレビで見ていて、私もすっかりサッカーが好きになってしまったの」とヘティさん。
アフリカで初めて開催される来年のワールドカップは、地元観客の底抜けに明るい雰囲気で、これまでになく楽しい大会を世界に提供してくれるに違いないと私は思っている。しかし同時に、南アフリカという国にとっても、白人と、圧倒的多数を占める黒人の文化的融合が進み、新しい時代に向かうきっかけになるのではないか。
「もう決めたの。来年は必ずスタジアムに応援に行くわ!」
こう言いながら、ヘティさんは大きな体を揺らしながら笑った。

へティさん(左)、サッカージャーナリスト原田さん(右)
(2009年7月8日)
先月ワールドカップ予選の取材でメルボルンに行ったとき、2018年と22年のワールドカップ招致活動が予想外に盛り上がっているのに目を見張った。話題は「決勝戦はシドニーかメルボルンか」というところまで煮詰まっている。
日本サッカー協会も同じ大会への立候補を発表している。しかし来年の12月には開催国が決まるというのに、まだ具体的な活動は始まっていない。
「仮にオーストラリア開催に決まったとしても悪くないかな」と思った。人びとが親切で友好的で、滞在していて非常に気持ちが良かったからだ。共同開催による問題があった02年「日韓大会」が世界中から称賛された最大の要因は両国の人びとの笑顔と親切さだった。オーストラリアにも同じような「ホスピタリティー」がある。
そうした論理から言えば、南アフリカもワールドカップ開催の資格が十分ある―。オーストラリア戦後に取材したFIFAコンフェデレーションズカップで南アの各地を回りながら、強く感じた。
正直、行く前には少し恐かった。治安の悪さが喧伝されていたからだ。しかし聞くと見るのでは大違い。たしかに時間や場所によっては危険もあるに違いない。滞在中、ラグビーを見に来た英国人ファンが強盗に襲われるという事件も起きた。しかし私の周囲では、危ない思いをしたという話は皆無だった。
何より人びとのホスピタリティーがすばらしい。「南アフリカにようこそ」という空気が、国全体に満ちあふれている。大会関係者だけではない。宿泊施設などで働く人、商店の人、町を歩く人...。多くの人が、人類最大のスポーツの祭典が自国で開催される誇りと喜びを、体いっぱいに表現していた。
もちろん問題がないわけではない。とくに宿泊施設と国内交通手段の不足は、ことしのコンフェデ杯とは比較にならない規模になるワールドカップでは大きな混乱を引き起こす危惧(きぐ)がある。
だがそれでも私は、今回の滞在中、「南アフリカ2010」が歴史に残る楽しい大会になるのではないかという思いを強くした。
強盗に襲われた4人の英国人ラグビーファンは、帰国せずに観戦を続け、「その後に受けた親切があまりあるものだったから」と理由を語った。
南アフリカの、いやもっと広くアフリカの人間味あふれる人びととの出会いは、現代の世界を変える力さえもっているように思う。
(2009年7月1日)
6月、アシシ(31)とヨモケン(29)は南アフリカにやってきた。ちょうど12カ月後、ふたりはワールドカップ出場32カ国を巡る旅のゴールとして、再びここに立つことになる―。
「1年間かけて、全出場国を回るんです」
思いがけない話に驚いた。今月、ウズベキスタンの取材旅行で出会い、オーストラリアに向かう機中で再開した青年が、まるで「山手線一周」のような気軽な表情でこんな計画を打ち明けたのだ。それがアシシだった。
報道関係者ではない。独立して仕事をしながら日本代表を追って世界を回っている。その彼が、2010年ワールドカップを前に「何か面白いことをやってやろう」とこの計画を思い立ち、会社勤めだったころの後輩であるヨモケンを強引に引き込んだ。名付けて「世界一蹴の旅」。
札幌生まれのアシシは中学校までサッカーを楽しんだが、その後は別に熱烈なサッカーファンだったわけではない。だが05年にドイツで日本が出場したコンフェデ杯を見て目覚めた。「サッカーを追って世界を回る旅は、世界のごく普通の人びとと直接交流できる最高のチャンス...」。
一方、187センチという日本人離れした長身のヨモケンは横浜生まれ。思いがけない幸運から98年フランス大会を現地で見る機会を得て、ワールドカップの魅力に取りつかれた。02年大会も満喫し、06年ドイツ大会はアシシといっしょに回った。
今回、アシシの提案に乗って会社をやめてしまったのは、「4年区切りの人生」を自分で楽しむだけでなく、世界に向けて発信したかったからだと話す。
ふたりは昨年秋に「リベロ」というユニットを立ち上げ、得意のIT知識でホームページもつくった。今後、旅の様子を詳しくそして楽しく発信していくという。
だがただの冒険ではない。旅行計画は緻密(ちみつ)そのもの。1年間の費用も細かく計算し、なんとか貯めた。ふたりの本職は経営コンサルタント。入念に計画を練り、実行に移すプロなのだ。
今回の南アフリカはほんの小手試し。「本番」は7月5日のスタートになる。その日、ふたりは東京を発って京都に向かう。そこから博多を経て韓国の釜山に渡る。「32カ国のサッカー協会とそれぞれの国の世界遺産は必須」だと言うのだ。
「世界一蹴」が終わったとき、彼らが何を得て、どう成長したのか、1年後の南アフリカでもういちど話を聞いてみたいと思った。
・ホームページ「世界一蹴の旅」

「リベロ」のふたり
アシシさん(左)、ヨモケンさん(右)
(2009年6月24日)
レアル・マドリード(スペイン)の「暴走」が止まらない。
6月9日にブラジル代表のMFカカをACミラン(イタリア)から92億円で獲得した話題も冷めないうちに、ポルトガル代表FWクリスティアーノロナルドをマンチェスター・ユナイテッド(イングランド)から129億円という途方もない金額で引き抜いた。
「われわれには3億ユーロ(約414億円)の強化資金がある」と豪語するペレス会長は、さらにスウェーデン代表FWイブラヒモビッチをインテル・ミラノ(イタリア)から、フランス代表MFリベリーをバイエルン・ミュンヘン(ドイツ)から獲得する交渉にはいっていると言われ、スペイン代表FWのビジャ(バレンシア=スペイン)、スペイン代表MFシャビアロンソ(リバプール=イングランド)の移籍も秒読み段階にあると言われる。
レアルはUEFAチャンピオンズリーグ(UCL)優勝9回を誇る名門チーム。国際サッカー連盟により「20世紀最高のクラブ」にも選ばれている。ところがこの数年は低迷が続いている。スペイン・リーグでは一昨年、昨年と連覇しているのだが、UCL優勝はもう7年間も遠ざかっている。だがそれ以上の問題は、不俱戴天(ふぐたいてん)のライバルであるFCバルセロナが、今季、UCLを含む3冠を成し遂げる一方で、レアルは無冠に終わったことだ。
6月1日、3年ぶりに会長に復帰したペレスは、「スペクタクルなチームをつくる」と公約、時を置かずに行動に出たのだ。
だがサッカーはカードゲームではない。手元にいくら強いカードを持っていても、それだけでチャンピオンになれるわけではない。
今世紀初頭、ペレス会長率いるレアルは、ジダン(フランス)、フィーゴ(ポルトガル)、ロナウド(ブラジル)、そしてラウル(スペイン)ら世界的なスターを攻撃陣に並べて無敵の「銀河軍団」と言われた。それを壊したのは、さらに巨額を投じて世界的スターを獲得し、チームのバランスを崩したペレス会長自身だった。
今季ヨーロッパを席巻したバルセロナは、レギュラーの半数がクラブのユース育ちだった。レアルの「銀河軍団」が最高の力を発揮した時期にも、ユースから上がった選手が半数近くを占めていた。
近道などない。時間をかけてそのクラブのスタイルと哲学を受け継ぐ選手を育て上げなければ、真のチャンピオンは生まれない。
(2009年6月17日)
「日本が最強メンバーでウズベキスタンと戦ったのは、バーレーンを助けるためか」
6月6日、タシケントのパフタコール・スタジアム。ワールドカップ出場を決めた日本代表の岡田武史監督に地元記者からこんな質問が飛んだ。
ウズベキスタンはすでにグループで2位以内になる希望はなく、プレーオフ進出の3位を目指している。そのライバル、バーレーンを利するために日本は戦ったのかというのが質問の主旨だった。
信じ難いほどの理不尽な質問に、岡田監督は「私たちはいつもその時点でのベストメンバーを組んでいる」と答えただけだった。
この質問に代表される「理不尽」に満ちあふれた試合だった。ムフセン・バスマ主審を中心とするシリアの審判団は、ウズベキスタンを勝たせるためのレフェリングに徹した。あからさまな判定は、「アジア・サッカーの恥」と言ってよい。
接触プレーはことごとく日本の反則とされた。中村俊、遠藤といった中心選手が狙い撃ちのようにイエローカードを出された。最後には長谷部が退場となり、大声で選手に指示を与えていた岡田監督も退席を命じられた。
しかし日本の選手たちは驚くほど冷静だった。審判の意図を見抜き、注意深く、それでいて強い気持ちを崩さずにプレーを続けた。その自己抑制はこの夜の最大の驚きだった。理不尽な判定にも自分を見失わず、チームの目的だけを考えてプレーし続けたことが、出場権獲得となって結実した。派手な攻撃はできなかったが、「偉大」と呼んでいい勝利だったと、私は思う。
ところで、記者会見後、私の友人の一人の記者が会見で理不尽な質問をした記者にからまれて閉口していた。「日本は次のカタール戦で勝てば十分だったのに、ここで全力を尽くした。すべてバーレーンを助けるためだったんだ」。ウズベキスタン人記者は執拗(しつよう)だった。
「こんなのは相手にしなくていい」と私は友人に言った。しかし彼は毅然(きぜん)とした態度を崩さなかった。そして最後にこう反論した。
「日本はバーレーンにもカタールにもアウェーで勝った。きょうも同じ態度を貫いて臨んだだけだ」
ウズベキスタンの記者は口をつぐんだ。
理不尽に屈せず、自制心を失わず、堂々と相手を論破した態度はこの日の日本代表に通じていた。きっと彼も、日本代表の戦いぶりから大きな勇気をもらったのに違いない。
(2009年6月10日)