
オーストラリアが苦戦している。
ワールドカップ予選ではすでに「出場権獲得決定的」と言われているオーストラリア。苦戦しているのは、並行して行われているアジアカップ予選だ。
3月5日にホームで行われた予選第2戦、クウェート戦を0-1で落とし、2戦して1分け1敗。勝ち点1でグループ最下位となった。ヨーロッパ組を使えず、国内にいる選手だけで戦っていることが原因のようだ。
さて、2011年にカタールで開催される次回のアジアカップに、開催国カタール、前大会の成績でシードされたイラク、サウジアラビア、韓国のほかにすでに出場を決めている国がひとつある。08年の「AFCチャレンジカップ」で優勝を飾ったインドだ。
1947年までイギリス統治下にあったインドは、アジアの「サッカー先進国」のひとつで、51年と62年にはアジア大会で金メダルを獲得、64年にはアジアカップで準優勝を飾っている。しかし70年ごろから中東の国ぐにの強化が進むなか、インドは急速にその地位を落としていく。近年ではクリケットにナンバーワンスポーツの座を明け渡し、2月現在のFIFAランキングは148位、アジアで24番目という低さだ。
そのインドが、84年以来27年ぶりのアジアカップ決勝大会進出のチャンスを生かそうと「大強化計画」を決めた。なんと代表選手25人を今後2年間合宿状態にして鍛えようというのである。総予算なんと4億ルピー(約7億6000万円)。この2年間、選手たちは所属クラブから離れ、インド代表としてのみ活動するという。
監督は、中国、ウズベキスタンで10年間以上にわたるアジアサッカーの経験をもつボブ・ホートン(イングランド)。06年に就任以来、着実にインドの力を上げ、ついにアジアカップ決勝大会出場という成果をつかんだ。ホートン監督への信頼の厚さこそ、「ゴール2011」と名づけられた大プロジェクトをインド協会が決断した最大の理由だった。
現在、人口が11億とも12億とも言われ、遠くない未来には中国を抜いて世界最多となり、今世紀半ばには20億を突破するのではないかと言われているインド。急成長する経済がサッカーへの投資を始めれば、「南アジアの眠れる巨人」が再び強豪の仲間入りをすることも夢ではない。アジアのサッカーがダイナミックに変わり始めていることが、この例だけでもよくわかる。
(2009年3月11日)
スタジアムで試合を見たことがある人なら、ピッチ内だけでなく、そのすぐ外にも「熱い戦い」があるのを知っているに違いない。「テクニカルエリア」で大声を出し続ける監督と、それをベンチに戻そうとする「第4審判」の戦いである。
テクニカルエリアとは、それぞれのチームのベンチ前に設けられた指示のための場所。ベンチの両脇から1メートル、そしてタッチラインまで1メートルの「コ」の字の形で、破線、または小さなカラーコーンを用いて描かれている。この中であれば、監督やコーチがピッチ内の選手に戦術的指示を与えることができる。ただしこのエリアに出られるのは、同伴する通訳を除けば一時にひとりだけで、しかも指示が終わったらすみやかにベンチに戻らなければならなかった。「熱い戦い」が起こるのはこのときだった。
「ならなかった」と「過去形」で書いたのは、ことしのルール改正で、「指示を与えたのち、所定の位置に戻らなければならない」という表現が削除されることになったからだ。新ルールは7月1日から施行される。
そもそもサッカーでは伝統的にピッチ外からの指示は禁じられていた。そのルールはほんの十数年前まで存在していた。しかし実際には、ベンチの監督は大声を出して指示をしていた。審判への暴言など、見苦しい行為も少なくなかった。
そこで90年のワールドカップ前、国際サッカー連盟は「戦術的指示に限ってベンチから与えてもよい」という通達を出場チームに出した。それをルールのうえで認め、さらに「テクニカルエリア」という区域を設定して明文化したのが、93年のルール改正だった。
ところで、同じ93年に初めてルールで明文化された新しい役割がある。「第4審判」である。ピッチ外、両チームのベンチの中央に位置し、試合全体を監視して3人の審判員を助けるとともに、両チームのベンチの行動をコントロールすることも主要な仕事とされた。すなわち「熱い戦い」は、テクニカルエリアと第4審判が生まれたときからの「宿命」でもあったのだ。ことしのルール改正でそれがなくなるのは、めでたい限りだ。
ただし、監督やコーチがテクニカルエリアに立ち続けるには、「責任ある態度で行動する限り」と条件がつけられている。判定への異議などを繰り返すようなら、ただちに「熱い戦い」が復活することになる。
(2009年3月4日)
17シーズン目のJリーグの開幕が近づいてきた。2月28日の「富士ゼロックス・スーパーカップ」が終わると、その翌週、3月7日にはJリーグがスタートを切る。
今季は、栃木SC、カターレ富山、そしてファジアーノ岡山の3クラブが新加盟し、J1、J2とも18クラブ、計36クラブになったJリーグ。初めてJ1でプレーすることになったモンテディオ山形の活躍も楽しみだ。
私はことしほどJリーグの真価が問われているシーズンはないと思っている。「百年にいちど」とまで言われる経済危機のなか、地域生活に元気を与える存在として、Jリーグのクラブほどふさわしいものはないからだ。
16年前にJリーグがスタートしたとき、クラブは「バブル経済の申し子」のような存在だった。日本を代表する大企業が毎年10億円規模で財政支援して成り立たせようというものだったからだ。だがバブル経済はほどなく終焉を迎え、クラブは存立の危機に立たされる。90年代の後半にJリーグそのものが沈没してしまってもまったく不思議はなかった。
だがJリーグは生き残り、逆に発展期を迎えていく。2002ワールドカップ開催という追い風もあった。しかし何よりもクラブとリーグの「生命線」となったのは、ホームタウンのサポーターたちの存在だった。
ホームタウンの生活に不可欠な存在になることこそ生き残る道であることに気づいたクラブは、地域との結び付きを深める努力を続ける。大企業の支援がなくても地域との結び付きをベースにプロのサッカークラブを運営していくことができるとわかったとき、全国に再び「Jリーグ熱」が沸き起こった。現状の36クラブの他に、全国各地に数十のJリーグ昇格を目指す動きがあるという。
誰もがチャンピオンになれるわけではない。試合は勝つときも負けるときもある。しかしホームタウンの人びとにとって、Jリーグのクラブは「地域の息子」のような存在なのだ。自分たちそのものと言ってもよい。
だからこそ、ことしほどJリーグの真価が問われているシーズンはない。結果は関係ない。ともかく全員が力を合わせ、90分間にもっているものを出し尽くす戦いを見せなければならない。「サッカー」という枠を超え、地域の人びとに元気を与える力が自分たちにあることを、クラブも選手たちも自覚しなければならない。
(2009年2月25日)
「カマモトがいればなあ...」
2月11日のオーストラリアとのワールドカップ予選(横浜)を見ながら、オールドファンなら思わずこうもらしたに違いない。いくつも決定的なチャンスがありながら日本は結局ゴールを決めきれず、試合は0-0の引き分けに終わった。
釜本邦茂は1964年から77年にかけて日本代表として活躍した日本サッカー史上最高のストライカー。68年のメキシコ・オリンピックでは7ゴールで得点王となり、日本を銅メダルに導いた。
このときの日本代表のサッカーは、人数をかけて守り、少人数で速攻を仕掛けるというもの。得点の多くは、FW杉山隆一がボールを運び、釜本が決めるという形だった。国際Aマッチ出場76試合で75得点という釜本の群を抜いた「決定力」があって初めて成り立つサッカーだった。
釜本のような「スーパーストライカー」をもつことは世界中の監督たちの夢だ。どんな試合でも必ず1点を決めてくれる選手がいれば、それだけで半ば勝ったようなものだ。複雑なパスワークなど不要。相手からボールを奪ったら、ともかく彼に渡しておけばなんとかしてくれる。
だが世界広しといえどもスーパーストライカーは数えるほどしかいない。またそんな選手がいたとしても、ケガで出場できなければ悲惨なことになる。
だから監督たちはチームプレーで攻撃をつくり、平凡なストライカーでも(あるいはMFやDFでも)点を取れるような決定的なチャンスをつくるチームにしようと工夫する。釜本以後、「決定力不足」に悩む歴代日本代表の努力は、「いかにチャンスの数を増やすか」にあった。
「人も動き、ボールも動く」と、現代の日本の指導者たちはサッカーの理想像を表現する。数多くのプレーヤーが互いに連係して動くことで相手守備をゆさぶり、それに合わせてタイミングよくボールを動かすことでチャンスをつくろうというのだ。「スーパーストライカーにおまかせ」のサッカーと比べると、なんとけなげで、涙ぐましいことか。
だがそうしたサッカーには、それ自体に大きな魅力と喜びがあるのも事実だ。オーストラリア戦においてボランチの長谷部誠が見せた献身的な走りで相手も観客も驚かせたプレーは、それだけで心躍らせるものがあった。
「カマモト」がいない。だからこそ、サッカーは想像力と創造性にあふれ、エキサイティングなものになる。
(2009年2月18日)
「コンビネーション・サッカーの源流は、ひとりのイングランド人にある」
昨年10月に行われたドイツサッカー協会の国際コーチ会議で、フォルカー・フィンケはこう説明した。
今季、Jリーグで最も楽しみなのが浦和レッズだ。チーム全員が動き、パスをつないで攻め崩す「コンビネーション・サッカー」の提唱者であり、そのサッカーでブンデスリーガに旋風を巻き起こしたフィンケが新監督に就任したからだ。
「ひとりのイングランド人」とは、ジミー・ホーガンという名のコーチである。20世紀初頭にボルトンやフラムなどで活躍し、30代はじめにボルトンの遠征でオランダに行ったときに「ここでプレーの仕方を教えよう」と思い立ち、さっそく移り住んだ。
だが彼が教えようとしたのはロングボールをけり合うイングランド・スタイルのサッカーではなかった。フラム時代にスコットランド出身の選手たちが見せていた集団でパスをつなぐサッカーだった。彼自身、小柄ながら技術に優れた選手で、このスタイルに出合って初めてサッカーの面白さを知った思いがしたからだ。
運命に流され、彼はヨーロッパ大陸のさまざまな国で指導に当たることになる。1910年代にはハンガリーでMTKクラブを9連覇に導き、30年代にはオーストリアで「驚異のチーム」と呼ばれた代表を生み出した。
だが、いくつかのクラブで指揮をとった母国イングランドでは大きな成功はできなかった。ボールを使い、技術を磨き、動き方を習得する、今日では当たり前の練習が、当時のイングランドの選手たちには受け入れられなかったからだ。
53年11月にハンガリーがロンドンに遠征し、ヨーロッパ大陸のチームとして初めて、イングランドの地でイングランドに勝った。勝っただけではない。圧倒的なパスワークで試合を支配し、6-3で大勝したのだ。
「きょうのプレーのすべてを教えてくれたのはホーガンだった」
試合後、ハンガリー協会の会長はこう語ってイングランドの人びとを驚かせた。ホーガンがMTKを指導したのは30年以上も前のことだったが、ハンガリーの人びとは、ハンガリーのサッカーはこのチームから始まったと考えていた。ヨーロッパ大陸の各地で、ホーガンは「サッカーの父」と慕われている。
それからさらに半世紀。ホーガンの信念はいま、日本にも伝えられようとしている。
(2009年2月4日)