サッカーの話をしよう

No.721 勝てると思うなアジア予選

 完敗だった。
 11月8日にダンマン(サウジアラビア)で行われたU-19アジア選手権の準々決勝で、日本は韓国に0-3で敗れた。その結果、来年エジプトで開催されるU-20ワールドカップへの出場権を逃した。2年ごとに開催されるこの世界大会、日本が出場できないのは16年ぶりのことだ。
 90年代前半までは、どの年代も世界大会の予選をクリアできなかった。最初に「アジアの壁」を突破したのは94年のU-19だった。
 それは日本サッカーの「飛躍の時代」へのファンファーレだった。96年には28年ぶりのオリンピック出場を果たし、98年にはワールドカップ初出場。以後、日本は20歳以上のすべての世界大会にチームを送り出してきた。
 ここ数年は、高校受験で強化が難しかったU-17も、そして女子の全カテゴリー、フットサルやビーチサッカーでも、アジア予選突破が続いている。
 だが実際には、「アジア予選」は、これまでもけっして簡単なものではなかった。そのときどきの選手たちの「世界に出たい」という燃えるような情熱だけを頼りに突破口を開いたときもあった。
 今回のU-19は力がなかったわけではない。1次リーグでイラン、サウジアラビアと同じ「死の組」にはいりながら無敗で首位突破。しかし準々決勝では韓国の出来がすばらしく、後半なかばまでハーフラインさえ越えられない状況。3点で止まったことさえ幸運な試合だった。
 この日の日本は積極性に欠け、ミスも多かった。主力の選手2人を日本代表やJリーグとの関係で欠いていたことも気の毒だった。敗因はいくらも分析できる。しかし一発勝負では、こうした結果はいつでも起こり得た。
 U-20ワールドカップに出場できないこと自体は大きな問題ではない。選手たちがこの苦渋を忘れずにこれからがんばればいい。
 大事なのは、この敗戦から日本のサッカー界が何を学ぶかだ。何よりも、どんな試合でも相手をリスペクトし、自分自身の力を最大限に発揮することの大切さを、少年時代から伝えていかなければならない。
 「アジア予選」は、けっして「勝って当たり前」ではない。死力を尽くして向かってくる相手に、日本が同じような気持ちで立ち向かえなければ、どんな結果でも起こり得る。
 来週カタールとワールドカップ予選を戦う日本代表。U-19の敗戦を「他山の石」としなければならない。
 
(2008年11月12日)

No.720 西が丘サッカー場

 東京ヴェルディの緑とサンフレッチェ広島の紫で埋まったスタンドからは、最後までパワフルな応援歌が絶えることはなかった。11月2日、天皇杯4回戦が行われた西が丘サッカー場は、Jリーグ勢同士の対決に沸いた。
 西が丘サッカー場は東京・北区の住宅地の真っただ中にある。現在は国立スポーツ科学センターとナショナルトレーニングセンターの巨大なビルが隣接しているが、かつて、この収容1万人の小さなスタジアムは、同敷地内にサブグラウンドと体育館をもつ、質素なスポーツ施設だった。
 1972年、東京とメキシコの両五輪に続くサッカーブームが去ったころに完成、以後日本サッカーリーグの主要スタジアムのひとつとしてたくさんの試合を見守ってきた。日本代表のワールドカップ予選が、この質素なスタジアムで行われたことさえある。
 質素だが、サッカーを「見る」人びとにとってこれほどすばらしいスタジアムはない。観客スタンドが、ゴールライン、タッチラインと平行に四方に設置され、なによりピッチと観客席が近いのだ。一方のゴール裏のスタンドなど、ゴールの上に覆い被さっているのではないかと感じられるほどだ。指示をかけ合う声だけでなく、選手たちの荒い息づかいさえ聞こえるのだ。
 サッカースタジアムの「原形」は、ピッチの周囲を高さ1メートルほどの「柵」で囲ったものだろう。観客はその柵にもたれるように立って観戦し、声援を送り、また野次を飛ばす。イングランドでは、近代的な巨大スタジアムでもこうした一体感が濃厚に残っている。
 ただの柵から階段式のスタンドになり、そこに椅子が置かれ、さらに屋根がつけられたのが「スタジアム」というものなのだ。
 だが現代のスタジアムの多くは、ピッチとスタンドの一体感は二の次になっている。観客同士のトラブル、観客のピッチへの侵入や危険物の投げ入れを防止するために、高い壁や広い「濠(ほり)」で互いに遠ざけられてしまっているのだ。安全は何にも優先すべき要素だが、それがサッカー観戦の喜びの大きな部分を奪い去っているのは間違いない。
 これからスタジアムをつくろう、あるいは改修しようというときには、いちど西が丘での観戦を体験してみたらいいと思う。ピッチとスタンドの一体感、観客として感じるものの多彩さを、近代的で安全なスタジアムのなかにもぜひ取り入れてほしいと思うのだ。
 
(2008年11月5日)

No.719 敗軍の将、兵を語る

 「敗軍の将は兵を語らず」という。だがサッカーには、毎週毎週「兵(兵法、自軍の戦いぶり)」を語る敗軍の将がいる。Jリーグの監督たちだ。
 
 国際慣習に従い、Jリーグでは試合後に両チーム監督の記者会見を行う。例外はない。監督たちは試合に関する所感を話し、記者たちの質問に答えなければならない。
 感心するのは「敗軍の将」たちが堂々としていることだ。答え方は人それぞれだが、大半の監督は話せる限り正直に話してくれる。本当なら1秒でも早くこんな場所から逃げたいだろうに...。
 26日には、勝てば連覇に大きく前進する試合でF東京に敗れた鹿島のオリヴェイラ監督の話に感銘を受けた。
 「両チームとも同じ数のチャンスをつくった。それを決める力で相手がまさっていた」
 「中盤でボールを拾う力がいつもほどなかった。意識の問題かもしれないし、配置の問題かもしれない。いずれにしろ私の仕事だ」
 「全般にプレーの内容は良かった。ただサッカーにはこんな日もあるということだ」
 記者の質問に丁寧に答える。それによって自分たちの取り組みへの理解をファンに広めたい、同時に、記事を読む選手たちにメッセージを送りたい...。いろいろな考えがある。だが「敗軍の将」の感情を抑えた話がなければ、「勝てば官軍」のような記事ばかりになってしまうだろう。
 
 大きな後悔がある。
 93年に日本で開催されたU-17ワールドカップで私は日本側組織委の報道担当だった。NHKが日本の全試合を放映し、試合直後に日本代表の小嶺忠敏監督の短いインタビューを入れていた。小嶺監督は、長崎県の国見高校をなんども日本一に導いた名将である。
 DF宮本恒靖、MF中田英寿らを含む日本代表は準々決勝に進んだが、そこで強豪ナイジェリアと当たり、1-2で敗れた。試合後、小嶺監督はインタビューを拒否した。
 「オレは選手たちのところに行く」
 硬い表情で言う小嶺監督を、私は止めることができなかった。その夜、ベッドにはいっても眠れなかった。
 「負けたけど、日本は本当によく戦った。それをいま全国のファンに話せるのは、先生おひとりじゃないですか。お気持ちはわかりますがインタビューを受けてください」
 あの瞬間、私はそう言えなかった。それは「敗軍の将」が「兵」を語ることの意味を、私自身が理解していなかったからだった。
 
(2008年10月29日)

No.718 TASAKI廃部 別の道はなかったのか

 「プレナスなでしこリーグ」の強豪チームTASAKIペルーレの休部、リーグからの退会が発表された。
 なでしこリーグでは数少ない企業チーム。北京オリンピックで活躍したDF池田浩美をはじめとした選手たちは田崎真珠の社員である。業績悪化でチームの今後が心配されていたが、女子サッカーを熱心に支えてきた前経営陣から9月末に引き継いだ新経営陣は10月10日、今季限りでの休部を発表、4日後、リーグは退会を認めた。
 頭をよぎったのは、ちょうど10年前のある「事件」だった。Jリーグ所属の横浜の2クラブ、マリノスとフリューゲルスの「合併」劇である。Jリーグがスタートを切ってわずか6シーズン目。それぞれのクラブの主要出資元だった日産自動車と全日空はまるで「子会社」の整理のように事務的に話を決めた。
 98年10月29日、両社から届けを受けたJリーグは、臨時理事会を開いてこれを認めた。
 最初に話題になったのは事実上マリノスに吸収されて「消滅」するフリューゲルスの選手たちの反応だった。生活の危機に立たされた選手たちは必死にクラブの存続を訴えた。だがJリーグも両企業も冷淡だった。
 意外な展開は、フリューゲルスのサポーターが団結し、立ち上がったことだった。サポーターたちは全国から署名を集め、「フリューゲルスは全日空だけのものではない。地域の人びとのものでもある。Jリーグでなくていいから存続させてほしい」と訴えた。
 その真摯(しんし)な訴えは社会的な衝撃となった。バブル経済がはじけた90年代前半以降、多くの企業がスポーツから撤退し、たくさんの強豪チームが消えていった。誰にも止められなかった。
 しかし最終的にフリューゲルスのサポーターたちは自ら資金を集めて「横浜FC」をつくり、将来に夢をつなげた。サッカー界はこの出来事から多くのことを学び、以後、Jリーグでは消滅したクラブはない。サポーターたちの行動力と、何よりもクラブを「自分たちの不可分な一部」と思う愛情だった。
 女子のリーグでも、企業が支援できなくなったとき、地域社会で支えて「クラブチーム」として残ったところがいくつもある。今回のTASAKIの件では、そうした教訓も前例も生かされなかったのは残念だった。企業が企業論理だけで動くとき、スポーツ側にもいくらでもできることがあるはずなのに...。

(2008年10月22日)

No.717 求む救世主

 「撮ったら、1枚送ってくれ」
 そう言われて逆に驚いた。90年ワールドカップ・イタリア大会の終盤、8年後の大会に立候補しているフランスがローマ市内で記者会見をした。その会場、フランス高速鉄道の整備計画のパネルの前でのことだった。
 写真を撮らせてもらったのはジュスト・フォンテーヌ。58年大会の得点王である。この大会、フランスは彼の13得点の活躍で予想外の3位に躍進した。
 帰国後プリントを送ると、ていねいな礼状がきた。後には4個組のピンバッジももらった。「13得点、世界記録」と、そこにはあった。1大会での13得点は、50年後のいまも破られない大記録である。だがそのフォンテーヌ、実は大会前にはサブだったのだ。
 1933年にフランス領だったモロッコで生まれ、20歳のときに本土のクラブに移籍。その年にワールドカップ予選のルクセンブルク戦に出場し3得点したが、フランスが23歳以下の選手だけだったため、公式代表記録には入れられていない。
 その後、58年ワールドカップを迎えるまでに4試合のAマッチに出場したがわずか1得点。ワールドカップ代表にはいったものの、ルネ・ビラールのサブと考えられていた。
 しかし大会直前にビラールが負傷、出番が回ってきた。そして初戦のパラグアイ戦でいきなり3得点の大活躍でチームを7-3の勝利に導くと、3位決定戦まで全6試合で得点を記録した。西ドイツとの3位決定戦では4得点をマークした。
 大会前、フランスに注目する人は少なかった。フランス・チーム自体、ユニホームは3試合分しか用意していなかったという。天才MFレイモン・コパの存在はあったものの、つくったチャンスをゴールに結びつける選手なくしてこの成績はありえなかった。サッカーとは、プレーの質を競う競技ではなく、つまるところ、得点の数を争う競技だからだ。
 今夜、日本代表はワールドカップ予選の重要な一戦をウズベキスタンと戦う。試合内容が良くなってきた「岡田ジャパン」。しかし勝負を決めるのは得点の数だ。この試合に限らず、いきなりゴールを量産する「救世主」が出てこないかと、いつも思う。そうなれば日本のサッカーは一気に世界に飛翔する。
 フォンテーヌのような天才が、日本のどこかにいないとは限らないと思うのだが...。


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ジュスト・フォンテーヌ

(2008年10月15日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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