サッカーの話をしよう

No3 アウェーでの経験は大きな財産

 快勝続きだった日本での第1ラウンドとはまた違った、緊張感に満ちた十日間だった。現地に行くことができずテレビ観戦だったが、「アウェー」戦の厳しさは画面からもあふれるほど伝わってきた──。

 94年アメリカワールドカップ・アジア第1次予選の第2ラウンド、アラブ首長国連邦(UAE)でのシリーズを乗り切った日本は、7勝1分けで最終予選へコマを進めた。
 UAEでの4試合はけっして最高の内容とはいえなかった。しかし苦しみぬいた第2ラウンドは、4連勝、失点なしの16得点で終えた日本での4試合よりも重要なものとなるはずだ。「アウェー」という言葉の重さを、今回ほど感じさせられたことはなかったからだ。

 現地に到着した日本代表を出迎えたのは、使用競技場と試合時間をめぐるゴタゴタ、出場停止中のはずのタイ選手が突然出場してくる不可解、挙げ句は、日本、タイ両チーム中心選手のいきなりの退場と、「これでもか」といわんばかりのアクシデントの数々。
 そして何よりも、暑さとフィールドコンディションの悪さは、素早い動きと緻密なパスワークを武器とする日本にとって大きなマイナスとなった。テレビでもわかるボコボコの芝は、カズや福田のドリブルの威力を半減させた。

 対スリランカ戦では、主審の極端な判定が目を疑わせた。当然コーナーキックになるはずのボールがスリランカのゴールキックとなり、接触プレーがあれば必ず日本が反則をとられた。東京での試合では17本もあった日本のFKが、この試合ではわずか3本だった。
 とくにひどかったのは、FW高木のプレーに対する判定だった。体を使って相手をブロックしながら縦パスを受けるのが高木のプレーの特徴だが、それがことごとくファウルにとられた。
 私は20年以上サッカーを見続けているが、これほどひどいレフェリングにはお目にかかったことがない。この日の主審はサウジアラビアのアルメハンナ(34歳)氏。彼が今後国際審判員として活動できるとしたら、国際サッカー連盟の指導力も地に墜ちたといっていい。それほどひどいレフェリングだった。

 しかしこのレフェリーに対する日本選手たちの態度は、絶賛に価するものだった。キックオフ後すぐレフェリーが何をしようとしているのかを見てとると、一切文句をいわずに自分のプレーに集中した。そのセルフコントロール、プロフェッショナルな行動は、井原の守備、ラモスのパス、カズのシュート以上に日本のファンが誇りとしていいものだ。
 試合前のゴタゴタ、想像を絶する気候、フィールドコンディションの劣悪さ、そして悪意に満ちたレフェリー...。「アウェー」戦の厳しさのすべてが、この第2ラウンドにはあった。そして日本代表は苦しみながらそれを乗り越えた。
 5月7日に行われた対UAE戦は、日本がこのシリーズでまた一段階上のチームになったことを示すものだった。前半の45分間、日本は完全にゲームをコントロールし、自分たちのリズムで戦うことに成功した。後半、連戦の疲労が出て集中力を失う時間帯もあったが、終盤に1点を許しながらもすぐ同点に追いついた底力は、日本代表の実力を再認識させるものとなった。

 秋に予定されている最終予選。出場する6チームの実力は、日本を含めまったくのイーブンと見なければならない。けっして楽観はできない。しかし1次予選の第2ラウンドで得た経験は、この厳しい最終予選を戦い抜くうえで最大の財産となるはずだ。

(1993年5月11日=火)
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