サッカーの話をしよう
No14 グラウンドに礼をする無礼な男
夏休みを迎え、全日本少年大会など、各地で少年サッカーが盛んだ。この季節になると、十数年前、サッカー専門誌の編集者をしていたころに受け取った一通の投書を思い出す。
「私は少年サッカーの指導者だが、子供たちには、いつもボールを大事にしなさいと言っている。しかし先日の貴誌には日本代表の監督が練習中にボールに腰かけている写真が載っていた。私はこれからどう話せばいいのか」
ボールを「かわいがる」のはサッカー上達の基本。サッカーボールは腰かけたくらいで傷むほどやわではないが、単なるしつけとしてではなく、サッカーをする心構えとしてこうしたことにまで気を配る指導者がいることに、とても感心させられた。もちろんその後は気をつけた。
少年サッカーの指導者の狙いは人によって違う。将来の日本代表選手を育てたいと夢見る人もいれば、楽しくできればいいと思っている人もいる。そしてもちろん、教育の一環ととらえている人も多い。
ときどき見かけるのが、一列に並んでグラウンドにあいさつするチームだ。グラウンドを道場とでも考えているのだろうか。こうした儀礼には決定的に欠ける点があるように思う。それは「人間」の存在だ。
数年前の夏、都内のあるグラウンドで練習していたときのことだ。隣には野球グラウンドがあった。すると、サッカーグラウンドの中央をゆっくりと歩き抜けていく人がいる。野球のユニホームを着た大柄な紳士だった。練習中のグラウンドを横切るのは不作法で礼儀知らずなことだと思うが、誰も彼に文句を言おうとはしなかった。
その紳士は、私たちの練習を値ぶみでもするように見回しながらゆっくりと歩き、まだ無人の野球場にはいっていった。そして右手で帽子をとり、深ぶかと頭を下げた。彼には、私たちという人間よりも、グラウンドのほうが敬意を払う対象だったのだ!
青少年に対するスポーツ指導のなかに教育的要素がはいるのを否定するわけではない。むしろこのふたつは不可分のものだと思う。しかしその教育は、少なくともまず、「人間」を大事にすることを教えるものであるべきだと思うのだ。
試合後、両チームの選手がそれぞれ相手ベンチ前に整列し、キャプテンの号令一下「ありがとうございました」と頭を下げる光景も少年に限らずよく見る。
だがそうした形式だけの儀礼に、どれだけの「心」があるのか。こうした儀礼は、試合を戦った者同士が互いに尊敬し合う心を育てることができるのか。本部役員や審判へのあいさつは本当に感謝する心を培うことができるのか。
形式儀礼だけをたたき込まれた選手は、たとえばファウルで相手をケガさせた場合、相手を気づかうより先に主審に頭を下げ、FKがすぐけられないように妨害することばかり考えるようになってしまう。
規律はなくても、試合をした者同士が心から握手し、肩をたたき合って互いの健闘をたたえ合う姿のほうがずっと美しい。負傷させたと思ったら、プレーが続いていても相手を気づかう選手のほうが、人間としては質が上だ。
試合には勝敗があるが、それが示すのは数十分間のプレーの結果だけであって人間としての価値とは何の関係もないこと、グラウンドよりもボールよりも、大事なのは人間そのものであること。
青少年期のスポーツ指導と教育が切り離せないのなら、形式だけの礼儀ではなく、こうした点を彼らに伝えてほしい。
(1993年8月3日=火)
「私は少年サッカーの指導者だが、子供たちには、いつもボールを大事にしなさいと言っている。しかし先日の貴誌には日本代表の監督が練習中にボールに腰かけている写真が載っていた。私はこれからどう話せばいいのか」
ボールを「かわいがる」のはサッカー上達の基本。サッカーボールは腰かけたくらいで傷むほどやわではないが、単なるしつけとしてではなく、サッカーをする心構えとしてこうしたことにまで気を配る指導者がいることに、とても感心させられた。もちろんその後は気をつけた。
少年サッカーの指導者の狙いは人によって違う。将来の日本代表選手を育てたいと夢見る人もいれば、楽しくできればいいと思っている人もいる。そしてもちろん、教育の一環ととらえている人も多い。
ときどき見かけるのが、一列に並んでグラウンドにあいさつするチームだ。グラウンドを道場とでも考えているのだろうか。こうした儀礼には決定的に欠ける点があるように思う。それは「人間」の存在だ。
数年前の夏、都内のあるグラウンドで練習していたときのことだ。隣には野球グラウンドがあった。すると、サッカーグラウンドの中央をゆっくりと歩き抜けていく人がいる。野球のユニホームを着た大柄な紳士だった。練習中のグラウンドを横切るのは不作法で礼儀知らずなことだと思うが、誰も彼に文句を言おうとはしなかった。
その紳士は、私たちの練習を値ぶみでもするように見回しながらゆっくりと歩き、まだ無人の野球場にはいっていった。そして右手で帽子をとり、深ぶかと頭を下げた。彼には、私たちという人間よりも、グラウンドのほうが敬意を払う対象だったのだ!
青少年に対するスポーツ指導のなかに教育的要素がはいるのを否定するわけではない。むしろこのふたつは不可分のものだと思う。しかしその教育は、少なくともまず、「人間」を大事にすることを教えるものであるべきだと思うのだ。
試合後、両チームの選手がそれぞれ相手ベンチ前に整列し、キャプテンの号令一下「ありがとうございました」と頭を下げる光景も少年に限らずよく見る。
だがそうした形式だけの儀礼に、どれだけの「心」があるのか。こうした儀礼は、試合を戦った者同士が互いに尊敬し合う心を育てることができるのか。本部役員や審判へのあいさつは本当に感謝する心を培うことができるのか。
形式儀礼だけをたたき込まれた選手は、たとえばファウルで相手をケガさせた場合、相手を気づかうより先に主審に頭を下げ、FKがすぐけられないように妨害することばかり考えるようになってしまう。
規律はなくても、試合をした者同士が心から握手し、肩をたたき合って互いの健闘をたたえ合う姿のほうがずっと美しい。負傷させたと思ったら、プレーが続いていても相手を気づかう選手のほうが、人間としては質が上だ。
試合には勝敗があるが、それが示すのは数十分間のプレーの結果だけであって人間としての価値とは何の関係もないこと、グラウンドよりもボールよりも、大事なのは人間そのものであること。
青少年期のスポーツ指導と教育が切り離せないのなら、形式だけの礼儀ではなく、こうした点を彼らに伝えてほしい。
(1993年8月3日=火)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。