サッカーの話をしよう

No30 知らされなかった表彰式

 「国立競技場などつぶしてほしい」
 語気を荒らげてまくしたてるエスパルスのレオン監督。ナビスコ杯決勝戦後の記者会見は見苦しいものだった。重要な決勝が相手のホーム同然の会場で開催される不利は否定しない。だがそれは負けた試合の後に話すべきことではない。
 その点、イラクと引き分けて手中のワールドカップ出場を逃がした直後の記者会見でのハンス・オフトの態度は立派だった。選手たちを擁護し、辛辣な質問にも感情を抑えて答えた。

 話はまた「あの日」に戻ってしまう。これが最後なので、ご容赦願いたい。
 カタールでの予選終了後の「表彰式」に日本選手が出席しなかったことに、大会後批判が集中した。「プロらしくない」「フェアプレー賞が泣く」などと、新聞も雑誌も厳しかった。
 この表彰式では、アジアオールスター、サンヨー・MVP賞、スニッカーズ・フェアプレーチーム賞、ディアドラ得点王賞の4つの表彰が行われた。日本からはオールスターに4人が選ばれ、得点王にカズ、そしてフェアプレー賞の受賞が決まっていた。
 「勝者」サウジアラビアや韓国の選手だけでなく、敗退したイランの選手が出席していたことが、批判の声を大きくした。

  実際には、日本の選手たちはこのような行事があることを知らされておらず、川淵三郎選手団団長と日本協会の小倉純二専務理事の判断で選手たちを連れて行かなかったのだった。
 試合が終わったのが現地時間で午後6時。選手がホテルに帰ったのは7時近くだっただろう。8時からの表彰式に出席するには、7時半にはホテルを出なければならない。絶望状態にある選手たちに出席を命じることはできないと判断し、国際サッカー連盟に了解をとるだけで、時間はぎりぎりだったはずだ。
 アジアサッカー連盟(AFC)のピーター・ベラパン事務総長の話によると、AFCは該当する選手の出席を事前に各国選手団に要請してあったという。その意味では、「欠席」に対する批判は当然といえる。川淵氏も後に、「あのときあのような判断しかできなかったことを悔やんでいる」と発言している。

 しかし私は、選手たちに表彰式に出席するよう言わなかった2人の判断を批判する気にはなれない。
 考えてほしい。イラクの同点ゴールで日本チームが受けた打撃は、世界のサッカーの長い歴史でもめったにないものだった。1年半をかけて準備してきたチーム。苦境を脱し、奇跡的な連勝で夢はほとんど手中にあった。それが、最後の一瞬に吹き飛んだのだ。
 こんなときに「君たちはオールスターに選ばれた。さあ、背広に着がえて表彰式に行くんだ」などと命じることのできる人がいるだろうか。そんな人物を誰が信じられるだろうか。
 勝つことよりも、敗戦を謙虚に受け入れることのほうが難しい。それができる者だけが、真のスポーツマンといえる。堂々とした敗者ほど美しいものはない。
 だが、巨大な失望から立ち直るのに、時間を要することもある。そんなときに周囲ができるのは、そっとしておくことだけだ。

 「そんな甘いことを言っているから、結局勝てないんだ」などという批判がまた聞かれそうだ。しかし忘れてはいけない。サッカーをするのは人間なのだ。人間の心を忘れたら、どんな勝利にも価値はない。
 「プロ」に対する社会的要求が激しくなる一方の時代にあって、「人間」としての心を忘れなかった川淵氏と小倉氏に、私は正直なところほっとしている。

(1993年11月30日=火)
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