サッカーの話をしよう

No60 フロスリッド親子 ワールドカップの夢

 ワールドカップ・アメリカ大会も後半にかかり、9都市のうちのいくつかは最終試合を終えて会場を閉じた。シカゴも2日のドイツ−ベルギー戦が最終戦。試合後数時間たったメディアセンターでは、仕事をほとんど終えたボランティアの役員たちが記念撮影をしたり、バッジを交換しあう風景が見られた。
 そのなかで、若いボランティアたちから次つぎと抱擁を受ける老婦人がいた。サラ・フロスリッド(64歳)さん。メディアセンターの「受け付け嬢」だ。

 世界各国から数千人の報道関係者が集まったこの大会、各地のメディアセンターで記者やカメラマンの助けをしてくれた人びとの大半はボランティアだった。年齢も職業も多彩。学校の夏休みを利用し、あるいは休暇をとってやってきた。報酬はない。ただ、ユニホームであるTシャツとおそろいのトレーニングウエアを支給され、毎日数時間ずつ交代で働くのだ。
 サラさんもそうしたボランティアのひとりだ。息子のジムさん(27歳)が地元組織委員会のシカゴ会場のプレスオフィサー(メディア関係の責任者)として働くことになったので、少しでも助けをしようと、そしてアメリカで開かれる世界最大のスポーツ大会の手助けをしようと、ミネソタ州からやってきたのだ。

 ジムさんの話によると、この大会でボランティアとして働いている人は全九会場で1万人以上。仕事もメディア関係から輸送、案内など、大会運営のあらゆる分野にわたっている。
 「ボランティアなくしては、この国でワールドカップを開催することは不可能だった」と、彼は真剣な表情で話した。
 アメリカでは、ボランティア活動が非常に高く評価されている。専攻科目に関係する活動であれば、ボランティア活動をしたということだけで単位の一部を与える学校もある。ジムさんの下で働く187七人のボランティアのなかにもそうした学生が数人おり、大会終了後、ジムさんは彼らのために証明書を書く。
 学生や仕事のない人ばかりではない。社長が会社の経営を部下に任せて出てきている例も少なくない。FIFA役員の送迎に、自分のベンツをもってくる社長もいる。
 警備だけはボランティアでなく、警備会社に一任している。だが警備員の大半は学生のアルバイトだ。
 大会運営のために働くプロフェッショナルたちはほんのひと握り。その数十倍のボランティアで運営されているのが、このワールドカップなのだ。

 もちろん、どの国でもボランティア抜きで大きなスポーツ大会を開催することはできない。しかしこれほど多くの人が、これほど一生懸命に、しかも無料で働く光景は見たことがない。
 2002年に日本で開催しようとしているワールドカップ。スタジアムや施設は立派なものができるだろう。協賛企業もたくさん集まるだろう。そこからたくさんの人が出向として派遣されてくるだろう。しかしボランティアは?
 正直なところ、プロフェッショナルでない人びとの仕事のペースにはイライラすることもある。だが、彼らの表情を見ると、心から役に立ちたいと、観客や報道関係者の助けをしようと思っていることがわかる。
 アメリカ軍の子供たちに英語を教えるために、40年も前に1年間横浜に滞在したことがあるというサラさん。帰りぎわに「サンキュー」と手を出すと、彼女は素敵な笑顔を浮かべ、シワだらけの両手で私の右手を握りしめながら「ドーイタシマシテ」と当時覚えた日本語で言ってくれた。

(1994年7月5日=火)
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