サッカーの話をしよう
No65 ピッチとボール、大人と同じ規格で
多くのコーチたちからの反論を覚悟しつつ、ひとつ提案をしたい。
「小学生のサッカーのボールを大人と同じにし、フィールドも大人と同じ広さにしよう」
現在、小学生のサッカーでは、4号球と呼ばれる、小さくて軽いボールが使われている。フィールドも広さにして7割程度がせいぜい。場合によっては、大人用を半分にして使う。
いうまでもなく、子供は体が小さく、筋力もない。だからボールもフィールドもそれに合わせている。一見、非常に合理的だ。その結果、大人と同じような試合をすることができる。
だが、ちょっと待ってほしい。「大人と同じサッカー」をすることは、果して正しいのだろうか。
幼稚園の子供たちに大人用のボールでゲームをさせてみよう。長いキックはできないから、大半がボールの周りに群がり、スネやヒザを使ってドリブルし合うゲームになるだろう。
少し大きくなれば、短いパスをつなぐことはできるようになる。しかしまだロングキックはできないし、視野も狭いので、大きな展開はできない。ただ、フェフィントを使ってたくみにドリブルする子供が出現する。筋力に比べてボールが重いので、ボールタッチは自然に柔軟になる。
小学校の上級生になっても、同じようなサッカーだろう。現在行われている少年サッカーに比べると、スピードがなく、展開も小さくなるはずだ。それを大人と同じ大きさのフィールドでやったら、さらにその傾向は強まるはずだ。
中学生になると体も急速に大きくなり、筋力もついてくる。大人なみの試合ができるのはそれからだ。
「子供の目」に立って見てみよう。最初は、まるで運動会の球ころがしのように感じるだろう。相手ゴールも、はるかかなた。だが成長とともにボールは小さくなり、やすやすと飛ばせるようになる。走力がつくにつれ、自陣ゴール前から相手ゴール前までの幅広いカバーが可能になる。何よりも自分の「考える速さ」にあった試合ができる。
このプロセスは、「サッカーの歴史」そのものだ。4号球と狭いフィールドを使うことによって、子供たちは無理やり大人と同じスピードでサッカーをやらされてしまう。その後の成長に必要なサッカーの歴史のプロセスを体験することなく大人になってしまう。この欠落が、現在の日本サッカーがかかえる問題の原因のひとつになっている。
人は人間として生まれてくるわけではない。母親の胎内に新しい生命が宿ったときには、その形は原始の生命体のものでしかない。そして10カ月間をかけて生命の進歩の歴史をたどり、やっと人間の形となってこの世界に送りだされる。
日本のサッカー指導は、このプロセスの手間を経ることを嫌い、いきなり人間の形にしようとしている。子供には子供の判断力とスピード、そしてプレーのスケールがあるのに、大人のプレーをコピーすることを強いている。その結果、サッカーをするうえで最も大事な、自分で考え、判断する力は一向に伸びない。
それだけではない。「大人なみ」の試合や練習によってヒザや足首、腰に傷害をもつ少年も増える。健全な状態とは言いがたい。
欧州や南米では、小学生年代では本格的なコーチングは行われず、子供たちは遊びとしてサッカーをやっている。その遊びを見ていると、見事に「サッカーの歴史」をたどっている。
日本でも、大人と同じボール、同じ大きさのフィールドを使うことによって、子供たちを本来の姿に戻さなければならない。
(1994年8月9日=火)
「小学生のサッカーのボールを大人と同じにし、フィールドも大人と同じ広さにしよう」
現在、小学生のサッカーでは、4号球と呼ばれる、小さくて軽いボールが使われている。フィールドも広さにして7割程度がせいぜい。場合によっては、大人用を半分にして使う。
いうまでもなく、子供は体が小さく、筋力もない。だからボールもフィールドもそれに合わせている。一見、非常に合理的だ。その結果、大人と同じような試合をすることができる。
だが、ちょっと待ってほしい。「大人と同じサッカー」をすることは、果して正しいのだろうか。
幼稚園の子供たちに大人用のボールでゲームをさせてみよう。長いキックはできないから、大半がボールの周りに群がり、スネやヒザを使ってドリブルし合うゲームになるだろう。
少し大きくなれば、短いパスをつなぐことはできるようになる。しかしまだロングキックはできないし、視野も狭いので、大きな展開はできない。ただ、フェフィントを使ってたくみにドリブルする子供が出現する。筋力に比べてボールが重いので、ボールタッチは自然に柔軟になる。
小学校の上級生になっても、同じようなサッカーだろう。現在行われている少年サッカーに比べると、スピードがなく、展開も小さくなるはずだ。それを大人と同じ大きさのフィールドでやったら、さらにその傾向は強まるはずだ。
中学生になると体も急速に大きくなり、筋力もついてくる。大人なみの試合ができるのはそれからだ。
「子供の目」に立って見てみよう。最初は、まるで運動会の球ころがしのように感じるだろう。相手ゴールも、はるかかなた。だが成長とともにボールは小さくなり、やすやすと飛ばせるようになる。走力がつくにつれ、自陣ゴール前から相手ゴール前までの幅広いカバーが可能になる。何よりも自分の「考える速さ」にあった試合ができる。
このプロセスは、「サッカーの歴史」そのものだ。4号球と狭いフィールドを使うことによって、子供たちは無理やり大人と同じスピードでサッカーをやらされてしまう。その後の成長に必要なサッカーの歴史のプロセスを体験することなく大人になってしまう。この欠落が、現在の日本サッカーがかかえる問題の原因のひとつになっている。
人は人間として生まれてくるわけではない。母親の胎内に新しい生命が宿ったときには、その形は原始の生命体のものでしかない。そして10カ月間をかけて生命の進歩の歴史をたどり、やっと人間の形となってこの世界に送りだされる。
日本のサッカー指導は、このプロセスの手間を経ることを嫌い、いきなり人間の形にしようとしている。子供には子供の判断力とスピード、そしてプレーのスケールがあるのに、大人のプレーをコピーすることを強いている。その結果、サッカーをするうえで最も大事な、自分で考え、判断する力は一向に伸びない。
それだけではない。「大人なみ」の試合や練習によってヒザや足首、腰に傷害をもつ少年も増える。健全な状態とは言いがたい。
欧州や南米では、小学生年代では本格的なコーチングは行われず、子供たちは遊びとしてサッカーをやっている。その遊びを見ていると、見事に「サッカーの歴史」をたどっている。
日本でも、大人と同じボール、同じ大きさのフィールドを使うことによって、子供たちを本来の姿に戻さなければならない。
(1994年8月9日=火)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。