サッカーの話をしよう

No79 勝者よ、わずかな慎みを

 Jリーグ第2ステージもいよいよ大詰め。どうやらベルマーレとヴェルディの「最終戦決着」となりそうだ。今週土曜日の平塚競技場には、日本中の耳目が集まるに違いない。

 目に浮かぶ。勝ったほうが優勝だ。終了の笛とともに「勝者」は抱き合い、走り回った後、胴上げだ。チェアマンが優勝カップを授与し、キャプテンがそれを頭上に掲げる。
 長期のリーグ戦を制することはすばらしく価値のあることだ。優勝の喜びは、苦しい大会を戦い抜いた者にしか理解できない。
 だが少し待ってほしい。これは天皇杯決勝のような「中立地」での試合ではない。Jリーグの試合だ。平塚の観客の7割以上がベルマーレのファン、サポーター。それを考慮に入れずに狂喜し、胴上げなどの派手な行為を見せることは適切だろうか。

 昨シーズンのチャンピオンに敬意を表して、まずヴェルディが勝った場合を考えてみよう。
 失意の平塚のファン、サポーターにヴェルディがあたりはばからず歓喜のシーンを見せつけるのは「死者にムチ打つ」ようなもの。タイトルと栄光はヴェルディのものだ。その代償として、少しばかりの「慎み深さ」を示すことはできないだろうか。

 昨年の第1ステージ、アントラーズが浦和で優勝を決めた夜を思い出す。
 この夜アントラーズは胴上げをしなかった。鹿島からきたサポーターにあいさつしただけで静かにフィールドから去ろうとした。
 その真意を最も理解したのは、スタンドを埋めた浦和のファンだった。引き上げようとするアントラーズの選手に対し、彼らは盛大な拍手を送ったのだ。
 アントラーズの選手たちは地元鹿島のファンに大きな感謝の念をもっていたに違いない。ファンの声援があったからこそJリーグ最初のタイトルを獲得することができた。だから浦和のファンにも敬意を払った。それがスタンドのファンにも伝わったのだ。

 逆に、ベルマーレが勝ったらどうだろう。ホームのファンは熱狂する。そこで冷静でいることは難しい。ファンも歓喜のポーズや胴上げを求める。
 だが、重大な最終決戦をアウェーで戦ったヴェルディは、それだけで称賛に値するチームではないか。ホームチームの選手そしてファンは、まず拍手をもって「勇者」たちを送り、その後に喜びを分かち合っても遅くはないのではないか。

 Jリーグが日本のスポーツ界で特異な地位を占めているのは、「ホームタウン制度」の存在だ。各クラブは地元地域のファン、そして市民と密接に結びついている。市民はチームを「自分たちのもの」と考え、だからこそ親身になって応援してくれる。
 試合は文字どおり「ホームアンドアウェー」で行われる。地元(ホーム)では熱狂的な声援を受け、敵地(アウェー)では口笛の嵐にさらされる。
 Jリーグはその狂信的ともいえる「地域対抗意識」によって支えられている。サッカーの勝負そのものによって地元のファンが失望することがあるのは仕方がない。だがそれ以外の行為でそのファン、サポーターの心情を傷つけるのは、プロらしくないことだ。

 勝者にわずかな慎み深さがあれば、勝負はもっともっと「心ゆたか」なものになる。「ゼロか百か」でなく、勝者にも敗者にも価値のあるものになる。これこそ、Jリーグのホームタウン制度の最も重要な点だ。
 11月19日の平塚競技場が、そうした心ゆたかな場となることを期待している。

(1994年11月15日=火)
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

アーカイブ

1993年の記事

→4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1994年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1995年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1996年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月