サッカーの話をしよう
No113 木村和司 愛された男
7月30日の日曜日、元横浜マリノス木村和司の引退記念試合、マリノス×ヴェルディ戦が行われた。三ツ沢球技場は満員の観衆で埋まり、日本リーグからJリーグ時代への橋渡し役を演じた大選手の最後のプレーを楽しんだ。
移籍したばかりのGK松永成立をはじめ、何人ものマリノス「OB」が参加した。ヴェルディでも、かつての「ミスター読売」ジョージ与那城、前監督の松木安太郎、木村と同様昨季限りで引退した加藤久がハッスルプレーを見せた。
驚いたのは、前夜Jリーグオールスターで90分間奮闘したラモスが出場し、45分間だけとはいえ、力いっぱいのプレーを見せたことだ。ラモスのひとつひとつのプレーは、「カズシ」に対する友情の、このうえない表現だった。
木村和司は明大時代に日本代表入りし、80年代にはエースとして活躍した。若いころはウイングだったが、やがてMFに転身、背番号10をつけて攻撃のリーダーとなった。
85年、日本代表はアジア予選を快調に勝ち進んでワールドカップ出場まであと一歩のところに迫った。この快進撃を支えたのが、守備の加藤久、そして攻撃の木村だった。スルーパスで攻めを組み立てながら、木村は果敢に攻め上がり、自らゴールを決めた。
最終予選の相手は韓国。10月26日、日本は国立競技場で前半2点を先行された。沈み込んだ空気をうち破り、チームとファンを奮い立たせたのは、木村の「十八番」FKだった。
ゴール正面30メートル。世界の名手でもめったに決められない距離。しかも「木村のFK」は韓国でも有名だった。だが木村は決めた。右足から放たれたシュートは、韓国ゴール左上すみに吸い込まれた。
ワールドカップ出場はならなかったが、この試合とこのFKは日本サッカーの大きな記念碑となった。翌86年、木村は日本国内でプレーする選手としては初のプロとなる。だがプロの名にふさわしい環境が整うのは、それから7年もたってからのことだった。
「引退記念試合」はヴェルディの勝利で終わった。だが観衆は誰ひとり席を立とうとはしなかった。誰もが木村に「ありがとう」を言いたかったのだ。選手たちの思いも同じだった。場内を一周する木村に、マリノスの全選手と都並をはじめとした何人ものヴェルディの選手が従った。
選手たちとファンの反応に、木村がいかに「愛された」選手だったか、再認識させられた。ではなぜ、彼は愛されたのだろうか。
すばらしいテクニシャンだった。創造的なパスの能力と得点力を備え、チームが必要とするときにそれを見事に発揮してくれた。
と同時に、彼はどんなファウルをされてもけっして報復することはなかった。警告処分を受けることなど滅多にない選手だった。
木村を日産(マリノス)に引っぱり、木村とともにチームを成長させて三冠をもたらした加茂周・日本代表監督は、かつて一言で木村をこう表現した。
「サッカー小僧」。
木村は心からサッカーを愛した。「戦い」としてではなく、最高に面白い「遊び」として、いつも、どんな試合でも楽しんだ。
だからこそ、仲間の選手たちはもちろん、監督やライバル、そしてファンも、彼を愛し、彼のプレーを楽しんだのだ。
いまJリーグに、ここまで「愛される」選手が何人いるだろうか。これから何人出てくるだろうか。それが数十人、数百人となったとき、初めて日本のプロは本当にファンの心をつかむことができるはずだ。
(1995年8月8日)
移籍したばかりのGK松永成立をはじめ、何人ものマリノス「OB」が参加した。ヴェルディでも、かつての「ミスター読売」ジョージ与那城、前監督の松木安太郎、木村と同様昨季限りで引退した加藤久がハッスルプレーを見せた。
驚いたのは、前夜Jリーグオールスターで90分間奮闘したラモスが出場し、45分間だけとはいえ、力いっぱいのプレーを見せたことだ。ラモスのひとつひとつのプレーは、「カズシ」に対する友情の、このうえない表現だった。
木村和司は明大時代に日本代表入りし、80年代にはエースとして活躍した。若いころはウイングだったが、やがてMFに転身、背番号10をつけて攻撃のリーダーとなった。
85年、日本代表はアジア予選を快調に勝ち進んでワールドカップ出場まであと一歩のところに迫った。この快進撃を支えたのが、守備の加藤久、そして攻撃の木村だった。スルーパスで攻めを組み立てながら、木村は果敢に攻め上がり、自らゴールを決めた。
最終予選の相手は韓国。10月26日、日本は国立競技場で前半2点を先行された。沈み込んだ空気をうち破り、チームとファンを奮い立たせたのは、木村の「十八番」FKだった。
ゴール正面30メートル。世界の名手でもめったに決められない距離。しかも「木村のFK」は韓国でも有名だった。だが木村は決めた。右足から放たれたシュートは、韓国ゴール左上すみに吸い込まれた。
ワールドカップ出場はならなかったが、この試合とこのFKは日本サッカーの大きな記念碑となった。翌86年、木村は日本国内でプレーする選手としては初のプロとなる。だがプロの名にふさわしい環境が整うのは、それから7年もたってからのことだった。
「引退記念試合」はヴェルディの勝利で終わった。だが観衆は誰ひとり席を立とうとはしなかった。誰もが木村に「ありがとう」を言いたかったのだ。選手たちの思いも同じだった。場内を一周する木村に、マリノスの全選手と都並をはじめとした何人ものヴェルディの選手が従った。
選手たちとファンの反応に、木村がいかに「愛された」選手だったか、再認識させられた。ではなぜ、彼は愛されたのだろうか。
すばらしいテクニシャンだった。創造的なパスの能力と得点力を備え、チームが必要とするときにそれを見事に発揮してくれた。
と同時に、彼はどんなファウルをされてもけっして報復することはなかった。警告処分を受けることなど滅多にない選手だった。
木村を日産(マリノス)に引っぱり、木村とともにチームを成長させて三冠をもたらした加茂周・日本代表監督は、かつて一言で木村をこう表現した。
「サッカー小僧」。
木村は心からサッカーを愛した。「戦い」としてではなく、最高に面白い「遊び」として、いつも、どんな試合でも楽しんだ。
だからこそ、仲間の選手たちはもちろん、監督やライバル、そしてファンも、彼を愛し、彼のプレーを楽しんだのだ。
いまJリーグに、ここまで「愛される」選手が何人いるだろうか。これから何人出てくるだろうか。それが数十人、数百人となったとき、初めて日本のプロは本当にファンの心をつかむことができるはずだ。
(1995年8月8日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。